月誓歌

有須

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修道女、額づく人を見慣れてきたことに気づく

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 深夜、疲れ切ったメイラは深く眠っていた。
 疲れてはいたが、それは不幸な疲れではない。
 愛された心は満たされ、無自覚の、しかし強力な守りとして作用していた。
 この腕の中は世界で一番安全だ。その思いは睡眠中であっても揺るぎない、依存にも似た信頼だった。
 故に、己がいつの間にか見覚えのある場所にいることに気づいても、怖れはなかった。
 夢だという事はすぐにわかった。
 前回にいた湖の上ではない。真っ暗な、人がともす明かりなど皆無の深い森を背に、湖畔の小高い崖の上に立っていて、やはり月がひとつきりの空を見上げていた。
 見た覚えのある稜線が、黒く夜空を切り取っている。
 前回は気づかなかったが、湖の中央部分に小さな島があって、今にも崩れ落ちそうな古城が建っていた。
 背後の木々が不穏に騒めく。普通であれば恐ろしいはずのその気配にも、夢だと思っているので恐怖はない。
 不思議と温かい胸の前で両手を組み、注意深くその夢の中の情景を眺めた。
 前回との違いは、古城だけではない。
 湖面がさざ波で揺れているのだ。
 メイラは崖下に見える湖面に視線を落とした。さほど高くはない崖の岩肌に、静かに打ち寄せる波。その飛沫が白く岩に散っている事に気づき、塩湖かもしれないと思った。
 夢の中でも塩の味はするのだろうか。そんなちょっとした好奇心が、踏み出すべきではない一歩を踏み出させた。
 どうして何もない虚空に足を踏み出したのだろう。
 常識ではありえない事に、メイラの足は何もない空間を踏んでいた。ひやりと肝を冷やすことすらなかった。
 ちょん、と素足の先が湖面に触れる。前回のように波紋が立つことはなく、さざ波が爪先を濡らした。真冬の冷たい水温だった。
 魔獣が潜んでいるかもしれぬ森よりも、見晴らしの良い湖上のほうがまだ安心だと、そのまま虚空にとどまったことも良くなかった。
「夜の乙女よ!!」
 遠くから、まるで水中から聞こえているかのようなくぐもった声が聞こえた。
 その声は、古城のほうから聞こえてきた気がした。
 それが、あきらかに人間のものであったから、メイラは己の夢の住人の顔を見てみたいと思ったのだ。
「おお、黒き夜の尊き御方よ」
 そして見つけたのは、上から下まで真っ黒な装束を着た、様々な年齢の男女だった。三十人ほどいいるかと思う。
 彼らの闇に溶け込むような服装は、あからさまに怪しげなものだった。その全員が起坐の姿勢で額を石畳みに擦り付けているものだから、異様な雰囲気は倍増だ。
 しかも、その場には濃厚な血の匂いが漂っている。
「……っ」
 古城の屋根のない広場の真ん中に、ボロボロの石でできた祭壇。
 見るからに、おどろおどろしい儀式を執り行っている最中なのだとわかる。
 祭壇の前で素っ裸にされ、屈強な男性二人に取り押さえられているのは、まだ年端もいかぬ少年だった。
 周囲の皆が黒髪なのに、彼だけが金色の髪をしている。大きく見開かれたその目は明るいルビーのように真っ赤だ。
 メイラは、こんな夢を見てしまう自身がどこかおかしいのではないかと疑った。
 いくら想像逞しくとも、子供を生贄に捧げるような儀式など、想像した事すらなかったのに。
「今すぐ忌子の血を捧げます。どうか我らにお慈悲を!!」
 この集団のリーダーらしき老人が、大音声を上げて少年を拘束している男たちへ指示を出す。
 待って、待って!!
 たとえ夢の中であろうとも、生贄など欲しくはない。
 メイラは慌てて手を伸ばした。
 かなりの距離があったのに、何故か瞬時に少年の側に来ていた。
 むせかえるような血の匂いは、少年のものではなく、その前に捧げられた大きな角の牡鹿の切り落とされた首から滴るものだった。
 それをわざわざ少年の痩せた白い胸の上に垂らして、おそらくは男が今手に持っている剣で腹を切り裂くつもりだったのだろう。
 いや、内臓系のものは必要ありませんので。
 グロテスクな妄想をしてしまって、本当に申し訳ございません。
 誰に謝罪すればいいのかわからないが、とりあえずあどけない顔をしてこちらを見ている子供の穢れない凝視がいたたまれない。
 これはあくまでも夢なので、メイラの希望は叶うはず。
 メイラはそっと手をかざし、少年の身体を汚す牡鹿の血を綺麗にした。
 おお。まるで魔法士になった気分。
 あっという間に牡鹿の血はなくなり、大人に押さえつけられたままではあるが、もとの真っ白な穢れのない身体になっていた。
「神に生贄を捧げるなど不要です」
 自身が供物になっていることが、無意識のうちに夢に現れたのだろうか。
「ただ真摯に祈ってください」
 おそらくは神も、魂を肉体から刈り取ってまで捧げられてもお困りだろう。
「……おれにくろいめをください」
 一瞬、あどけない子供声が何かの呪文のように聞こえた。
「いちぞくのみなとおなじくろいかみをください」
「スカー!!」
 スカー? 少年の名前だろうか。子供につけるものではないが……夢の割には設定まで細かいな。
 メイラはまじまじと少年の顔を見つめ、その頬に大きく引きつれた火傷の跡があることに気づいた。
 夢だから。
 そう、夢だから。
 メイラはにっこりと笑い、少年の傷跡のある頬を両手で包んだ。
 少年の痛ましい傷跡が消え去り、美しい赤い目とひと際鮮やかな金髪が、一気に漆黒に染まる。
「君が望めば、綺麗なその目と髪は元に戻るわ」
 身体から何かが抜けていく気がした。疲労感まであるなんて、リアルな夢だ。
 チリリ、と手首に鋭い痛みが走った。
 とっさにそこを押さえながら、無意識のうちに引き寄つけられるほうへと視線を向けた。
―――巫女か。来よ。
 低い、地面そのものから聞こえてくるような声に、メイラだけではなく彼女の夢の住人達も皆、ぶるぶると背筋を震わせている。
―――……来よ。
 それは地の底から響くようでいて、夜の闇からにじみ出てくるような声でもあった。


「メルシェイラ」
 はっと我に返ったのは、陛下の低く甘い声が耳に届いたからだ。
 全身に甘い痺れが走り、唇から熱い息を吐く。
 胸の頂に刺激を受けて、浅い息を何度も吐きながら小さく喉を鳴らした。
 重い瞼をこじ開けると、視界を覆うのは朱金色の長い髪。
 思わず手を伸ばして触れると、間を置かず掌に口づけを落とされる。
「起きたか」
「……ハロルドさま」
「うなされているように見えた。大事ないか?」
「…………はい」
 急激に戻ってきた意識が、ここを世界でもっとも安全な場所だと認識し、安堵の息を吐く。
 ひどい夢を見てしまった。
 幸いにも子供は死なずに済んだが、牡鹿の鮮血と贓物はやけにリアルに脳裏にこびりついている。
「もう朝でしょうか」
「いや、少し早い」
 太い腕に抱き込まれ、その素肌の胸板に頬を寄せ、聞こえてくる力強い鼓動に目を閉じる。
「……怖い夢でも見たか? いろいろあったからな。無理もない」
 メイラの髪を指に絡め、何度も撫で梳き、聴覚を侵食するその声は優しい低音だ。
「もう少し眠れ」
 あの夢の事をすぐにも話して笑い話にしてしまいたかったが、幼子をあやすように何度も話しかけられているうちに、再び睡魔に負けて眠ってしまった。
 故に彼女は知らない。
 ベッドの傍らに、黒いフード目深にかぶった長身の男が立っていたことを。
 彼女の眠りを妨げまいと気遣いながら、陛下がベッドから離れたことも。
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