月誓歌

有須

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修道女、抱きしめようとして気づく

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 波と風の都合上、リアリードに行くよりもすぐそこまで来ている領軍と合流するほうがいいと判断された。
 ここまでくれば、子供たちに会えないのは神の定めた運命なのかと思わずにいられない。
 メイラは黙ってその決定を受け入れ、リング部分のなくなったグローブを両手で握りしめた。
 今頃になって、恐怖で震えが止まらない。
 燃え上がる炎を、血の匂いを、繰り返し思い出して奥歯を噛み締める。
「ああ、あそこに公爵閣下の軍旗が見えます」
 マローが指さす方向は、ひときわ切り立った断崖の上だった。
 もちろん海側から見た事はないのだが、生まれ育った故郷なので土地勘はある。
 そこは崖の上に平坦な草原があって、早春に一面に咲く花を見によくハイキングに出かけた。草原の向こうはなだらかな下り坂になっていて、修道院とリゼルの街とを隔てる灌木の丘につながっている。
 地元民なので、崖の上へと続く細い抜け道の存在も知っている。人々は海に出るとき、その道を通って降りるのだ。漁業を生業にしている者はほとんどいないが、釣りを好む者は多い。
 その道を上る際も、マローに抱き上げられたままだった。
 釣りや海藻拾いに何度も往復した道だが、今は己の足で歩くと言い張る気力すらない。
 メイラはボートを下ろされる時だけ両足を踏ん張って立ち、すぐに再び抱き上げられた。マローの大きな胸に頬を押し付けて安心するという、我ながら突っ込みどころ満載の状況だ。
 小柄だとはいえ大人を人一人抱えているのに、急斜面を上る彼女の息が上がる様子はない。どこをどう鍛えればそうなるのか、今度ぜひ教えて欲しいものだ。
 やがてたどり着いた崖の上には、想像のはるか上をいく、見た事もない大軍がいた。サッハートで身検めを受けた時など比べ物にならないほどの、圧倒的な物量で枯れた土地を埋め尽くす大軍だ。
 人が住む場所からは離れているので、がらんと何もない寂しい場所だったのに。
 視界を埋め尽くす全身鎧の騎士たちと、お揃いの装束を身にまとった屈強な兵士たち。たなびく軍旗に、簡易天幕。体格のいい軍馬たちまで金属鎧をまとっていて……。
これだけの大軍がそこにいるだけで、蹄鉄を鳴らす音や鎧がこすれる音ぐらいはしそうなものなのに、軍旗と天幕の布がはためく音と、びゅうと吹き付ける真冬の風音しか聞こえなかった。
理由はひとつしかない。
メイラは、天幕の前で仁王立ちをしている父から目を逸らした。
枯れ枝のように細く、周囲の軍人たちに比べると吹けば飛びそうな見てくれなのに。すでにもう、老齢といってもいい年なのに。
大軍を従え、突風の只中に立っている姿は、まるで絵本に出てくる悪魔の王のようだった。
「言いたいことはあるか」
声が届く範囲に来て、マローの腕から降ろされて数秒。父は悪役らしく舌打ちしながら、苛々と言った。
「……もうしわけございません」
 父の白いものが混じった眉が寄せられて、なおいっそう悪役めいた形相になる。
「それだけか?」
「ご迷惑をおかけしました」
「本当にな。お前の身に万が一のことがあれば、陛下に何と申し開きすればよい」
 切りつけるように浴びせられた叱責の声に、メイラはしおしおと項垂れた。
「……はい」
「猊下もひどくご心配だった」
「……はい」
「お前に怪我一つでもあれば、後ろの者どもの首を刎ねてやるところだ」
「それは」
 びゅうとひと際強い海風が吹きあがり、被っていたフードが外れた。
 あらわになったメイラの青ざめた表情を見て、父の眉間の皺がペンを挟めそうなほど深くなる。
「……ようもこの老骨を寒空の中走り回らせてくれたな。すぐに移動したいところだが、天幕に入るぞ。ホットワインでも飲まないとやってられん。……なにをぼんやりしている。早く中に」
「失礼いたします、閣下。早急にご報告するべきことがございます」
 遠慮ないルシエラの、父の言葉を途中でぶった切る台詞。
 父は、視線で人を殺せそうに凶悪な面相でルシエラを睨んだが、氷の女王の鉄壁の無表情に跳ね返され、なお一層忌々し気にチッチと舌打ちを繰り返す。
 鳥でも呼んでいるのでしょうか、お父さま。
 普段から舌打ちが多いふたりに挟まれ、メイラは気が遠くなりそうだった。
「中で聞く。寒くてかなわん」
「さようですね。御方さまのお身体に障っては大変です」
「儂をこんなところまで引っ張り出しおって!!」
「大隊を動かすにはさぞ時間がかかったでしょう」
 基本的に人の言葉の裏を読むのが得手ではないメイラでも、来るのが遅いと当て付けで言っているのがわかる。
「取り急ぎ中隊規模の派遣で十分でしたのに」
 ル、ルシエラさん。ここで父を挑発してどうするのですか!?
 遅くなどない、ないですよ! 十分早く来てくれましたよ!!
「戦争にでも出かけられるおつもりでしょうか」
 ふっと鼻から抜ける彼女の笑みに、舌打ち以上の衝撃を受けたのはメイラだけではない。
 彼女があまりにも美しいので見惚れていた周囲の騎士たちが、一転して正気を疑う目つきになってしまっている。
「気になる獲物を捕らえましたが、ここでは十分に活用できそうにありませんので、半分お譲りします。閣下のお好きな戦争になるやもしれませんよ。……バレンシノです」
 ドサリ、と五人ほどの人間が父の前に放り出された。
 砂色の民族衣装を着た、襲撃者たちだ。
 すべて両手両足を縛られ、猿轡を噛まされて、ご丁寧に目隠しまでされている。
 メイラは、彼らが拘束され運ばれていることに気づいていなかった。
 いつのまに。少なくとも、ボートには乗せられていなかったはずだ。
「……っ」
 その中に、ひときわ小柄な少年が居た。
 血で汚れた砂色のマントを体に巻き付け顔を伏せているが、見間違いようはない。
 ハリソン。どうしてそんなところにいるの。どうしてそんな恰好をしているの?!
 咄嗟に駆け寄ろうとしたメイラを、マローが静かに、はっきりそうとわかる仕草で止めた。縋るように見上げたが、彼女は小さく首を振るだけだった。
「そうそう、もと孤児院の子どもがひとり、襲撃者に混じっておりました。どうやら人質をとられ言うことを聞かされていたようですが」
 できれば父には知られたくなかった。大事になってしまえば、庇うに庇えなくなるからだ。
 しかしルシエラの意図したことはまさにそれで、メイラがこれ以上ハリソンに構えない状況を作りたかったのだろう。
 頭では理解できる。しかし、心は別だ。
 頑なにこちらをみようとしない少年に、つんと鼻の奥が痛んだ。
「……ハリー」
 不甲斐なくも、少し声が震えた。
 びくりと少年の肩も揺れたが、やはり顔は背けられたままだ。
 その、悪いことをしてしまったと分かっている仕草は、懐かしい記憶の中にいる、幼い時の彼の姿となんらかわりのないものだった。
「ハリソン!」
 思わず、鋭い叱責の声が零れた。
 当のハリーが大きく首をすくめるのはわかる。尻を叩かれてきた条件反射だ。
 しかしどうして、マローやルシエラまでもがぎくりとするのだ。
 周囲からの注目を浴びて、メイラはあっさりと意気を萎ませた。
「ミ―シャは必ず探し出すわ。だから知っていることをちゃんと言うのよ」
 なんとか震えずそれだけ言って、難しい顔をしている父を見上げる。
「この子はわたくしの養い子です。ご配慮願います」
「……裏切り者に情けを掛ける必要はあるまい」
「お父さま」
 メイラはことさらにゆっくりと、嫌そうな顔をしている父を見つめ慎重に言葉を紡いだ。
「人間は、より大切なものの為には裏切りも辞さない生き物です。……お父様もそうでしょう?」
 ふい、と父の視線が他所にそれる。珍しくもわかりやすすぎるその表情に、しっかりと釘をさしておく。
「わたくしに、選ばせないでくださいませ」
 はっと誰かが息を飲んだ。
「ハリソンを、よろしくお願いします」
 風が吹く。切り立った崖を吹き上げるような、強烈な海風だ。
 マントがはためき、ひと際小柄で貧弱な体躯を暴いていく。
 しかしここで怖気づいているわけにはいかない。今ハリソンを守れるのはメイラだけなのだ。
 オムツを替え、ひとさじひとさじ離乳食を食べさせ、良い事をすれば褒め、悪いことをすれば叱ってきた子を、見捨てることなどできない。
 ぐっと鳩尾に力を込め、顔を上げた。
 猿轡と目隠しをされたハリソンが、小さな子供のように号泣している。
 歩を進め、本能に従って彼を抱きしめようとして、少し手前で立ち止まる。
 もはやマローに制止されはしなかったが、人一人分ほど開いたその距離を縮めることはできなかった。
 確かにハリソンは、メイラにとって庇護するべき子供だ。
 しかし彼がミッシェルを守ろうと決めたように、メイラもまた身をわきまえなければならない。
 彼女は、皇帝陛下の妾妃。その行動のひとつひとつが、マローやルシエラの命に係わる。
 今回の事で身に染みて、理解させせられた。
「……あなたのお尻を思いっきり叩いてやりたいわ」
 砂まみれになって転がる少年に、静かに語り掛ける。
「同時に、辛い思いをしたわねと抱きしめてもあげたいわ」
 唐突に、風の音が止まった。
 メイラはゆっくりとマントを脱ぎ、しゃくり上げる少年の上に落とした。
「……巻き込んでしまって、本当にごめんなさい」
 ぎゅっと抱きしめ、あの涙を拭ってあげたい。怖い事はもうないよと、慰めてあげたい。
 しかし今のメイラにはそれはできない。
「あとの事は、大人に任せて」
 擦り切れ血まみれになったマントの代わりに、分厚く上等なメイラのマントがハリソンを温めてくれますように。
 心から、そう願った。
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