118 / 207
修道女、抱きしめようとして気づく
6
しおりを挟む
足腰には自身があったが、本職の軍人たちにかなうわけがない。
メイラは大人しく人形のように抱きかかえられて運ばれた。
その肩越しに、実家ともいえる修道院が燃えていくのを見つめる。
石造りなので一気に延焼という事にはならないが、内側から激しく炎が上がっている様子が、遠ざかりつつある目にもはっきりと見てとれた。
メイラのせいだ。
わがままを言って、子供たちの無事を確かめたいなどと言わなければ、こんなことにはならなかった。
正直に言えば、あまりにも身に沿わない今の状況に疲れ、里心に駆られたのだ。
生まれ育った修道院の空気を吸いたくて、清貧なその暮らしが懐かしくて。
父が言う様に、自重するべきだった。
大切に思うからこそ、危険を呼び込む可能性があるのだとわきまえるべきだった。
上下に激しく揺すられながら、ぎゅっとマローの方にしがみつく。
目を逸らしてはならない。
この結果を、忘れてはならない。
「……伏せて!」
周囲を警戒していた海兵が鋭く叫んだ。
マローの手が、メイラの後頭部を支えるように抱え込む。
カカカカッと刃物が投擲された。
そこかしこでカキンと剣で受け流す音が聞こえ、肝が冷える。
「食い止めます。先へ進んでください」
ディオン大佐が敵とマローとの間を遮るように立った。
「……提督、あとはよろしくお願いします」
「了解した」
久々に聞いたリヒター提督の声は、どっしりと低かった。
どこからともなく現れた私服を着た海兵たちが、メイラと女性騎士たちを取り囲む。
皆に守られた場所から、剣戟を交わす男たちの後姿をくいいるように見つめた。
味方の一人が切りつけられ、倒れる。
悲鳴を飲み込み、ひりひりと痛む鼻の奥に顔を歪めた。
噛み締めた唇が切れ、錆びた血の味が口の中に滲む。
ヒュウと突風が砂埃を巻き上げた。灌木がザワザワと音を立てて揺れる。
「魔法詠唱者がいる」
ルシエラの声は場違いに淡々としていた。
まるで、散歩の途中で薄汚い野良犬を見つけた、とでも言いたげな表情で、小高い丘の方をじっと睨んでいる。
「防御手段は?」
「ない」
提督の端的な返答に、ルシエラがチッと舌打ちする。
あきらかに怯んだ提督のほうなど見ようともせず、抜いていた剣を鞘に戻し、マントの懐に手を突っ込む。
彼女が何かをしようとしたのは確かだが、それは最後まで至らなかった。
先に敵の魔法詠唱者が術を唱え終わったらしく、突風と火矢がダブルでこちらに襲い掛かってきたのだ。
そんな状況でも、周囲は冷静だった。
確実に火矢を叩き落とし、突風からメイラを守るべくマローの周囲に寄る。
メイラは、この場にいる味方全員が死ぬ幻影を見た。
自身の死よりも、自身を守って彼らが帰らぬ人になる方が恐ろしかった。
ぎゅっと目を閉じて神に祈る。
しかし、修道女だったからこそ、こういう場合に救いはないのだと知っていた。
神は、人々の生き死にに関与はしない。
その魂の行く末に慈悲を与えてくれようとも、人間の営みに直接手を貸すことはないのだ。
―――陛下!
マローに必死にしがみ付きながら、今わの際に無意識に呼んだのは夫だった。
鮮やかな朱金色の髪を、美しいクジャク石のような双眸を、低く甘い声を。
一瞬にして蘇ってきた愛する人の面影に、最期の最期、すがりついた。
パキリ、と何か硬いものが割れる音がした。
そのあと一気に、周囲の音という音が消えた。
メイラはぎゅうぎゅうとマローの首に抱き着いたまま、その後数秒じっとしていた。
何が起こったのかわからなかった。
というよりも、魔法の攻撃をかわし生き延びたのだという理解もおいついていなかった。
先に動き出したのは味方側だ。
呆然としているメイラを抱いたまま、マローが再び走りはじめる。
メイラはぼんやりと、音のない周囲を見回した。
聞き慣れた風の音も、茂みのざわめきも、冬鳥の鳴き声も……大勢が移動する足音すらも聞こえない。
まるで、深い水の中にいるか、鼓膜が破れたかのようだった。
徹底的な無音など経験したことはなかったが、静けさよりも圧迫感、恐怖心のほうが勝った。
キーンと耳鳴りがした。
喉が詰まって、無意識のうちに呼吸を止めていた。
トン! とマローが段差を飛び降りた衝撃で、ようやく息をすることを思い出すが、その頃にはほぼ酸欠で意識が朦朧としていた。
子供たちが隠れ家にしていた洞窟の入り江には、海軍のボートが十艘近く繋がれていた。
見張りに残っていた水兵は、大きな襟の軍服を着ていて、帰還した面々の表情を見て即座にボートのもやいを外す。
がくりとメイラの首が後方にブレたので、気絶しかかっていると気づいたのだろう。
マローに顔を覗き込まれ、何か問いかけられるが、やはり音は完全に聞こえなかった。
慌てて後頭部を支えられ、彼女の肩に額を預けた。その丁度視線の先に、斜面の細い道を降りてくる砂色の民族衣装の集団が見えた。
追手だ。
しんがりを務めていたディオン大佐が、ボートを守るように再び立ちふさがる。
狭い洞窟なので、剣を振り回すのは難しいはずで、大柄で大剣持ちの彼には分が悪いだろう。
しかし道が狭いのは、迎撃側には有利だ。
味方の最後の一人がボートに乗るまで、大佐はその場を一歩たりとも引かなかった。
メイラが見ることができたのはそこまでだった。
彼女が乗り込んだボートは真っ先に入り江を離れ、揺れの考慮などない漕ぎ手の全力で沖へと逃れたからだ。
「……さま、御方さま」
しばらくして、ようやく音が戻ってきて、故郷の潮騒の音とマローの気づかわし気な声とを拾う。
抜けるような青い空と、揺れが大きな荒い海。唇に飛んだ海水の塩辛さに、震えながら息を吐いた。
「大丈夫ですか?」
「な、何が」
無意識のうちに顔に飛んだ飛沫を拭おうとして、陛下から下賜されたフィンガーレスのグローブがだらりと垂れたのに気づいた。
「……あ」
「魔道具の防御が発動しました。おかげで無事乗り切れましたよ」
指を通すリングの部分が砕け、ぽろぽろと落ちてきた。
その欠片がキラキラと太陽の光を弾き、瞼の奥を刺激した。
メイラは大人しく人形のように抱きかかえられて運ばれた。
その肩越しに、実家ともいえる修道院が燃えていくのを見つめる。
石造りなので一気に延焼という事にはならないが、内側から激しく炎が上がっている様子が、遠ざかりつつある目にもはっきりと見てとれた。
メイラのせいだ。
わがままを言って、子供たちの無事を確かめたいなどと言わなければ、こんなことにはならなかった。
正直に言えば、あまりにも身に沿わない今の状況に疲れ、里心に駆られたのだ。
生まれ育った修道院の空気を吸いたくて、清貧なその暮らしが懐かしくて。
父が言う様に、自重するべきだった。
大切に思うからこそ、危険を呼び込む可能性があるのだとわきまえるべきだった。
上下に激しく揺すられながら、ぎゅっとマローの方にしがみつく。
目を逸らしてはならない。
この結果を、忘れてはならない。
「……伏せて!」
周囲を警戒していた海兵が鋭く叫んだ。
マローの手が、メイラの後頭部を支えるように抱え込む。
カカカカッと刃物が投擲された。
そこかしこでカキンと剣で受け流す音が聞こえ、肝が冷える。
「食い止めます。先へ進んでください」
ディオン大佐が敵とマローとの間を遮るように立った。
「……提督、あとはよろしくお願いします」
「了解した」
久々に聞いたリヒター提督の声は、どっしりと低かった。
どこからともなく現れた私服を着た海兵たちが、メイラと女性騎士たちを取り囲む。
皆に守られた場所から、剣戟を交わす男たちの後姿をくいいるように見つめた。
味方の一人が切りつけられ、倒れる。
悲鳴を飲み込み、ひりひりと痛む鼻の奥に顔を歪めた。
噛み締めた唇が切れ、錆びた血の味が口の中に滲む。
ヒュウと突風が砂埃を巻き上げた。灌木がザワザワと音を立てて揺れる。
「魔法詠唱者がいる」
ルシエラの声は場違いに淡々としていた。
まるで、散歩の途中で薄汚い野良犬を見つけた、とでも言いたげな表情で、小高い丘の方をじっと睨んでいる。
「防御手段は?」
「ない」
提督の端的な返答に、ルシエラがチッと舌打ちする。
あきらかに怯んだ提督のほうなど見ようともせず、抜いていた剣を鞘に戻し、マントの懐に手を突っ込む。
彼女が何かをしようとしたのは確かだが、それは最後まで至らなかった。
先に敵の魔法詠唱者が術を唱え終わったらしく、突風と火矢がダブルでこちらに襲い掛かってきたのだ。
そんな状況でも、周囲は冷静だった。
確実に火矢を叩き落とし、突風からメイラを守るべくマローの周囲に寄る。
メイラは、この場にいる味方全員が死ぬ幻影を見た。
自身の死よりも、自身を守って彼らが帰らぬ人になる方が恐ろしかった。
ぎゅっと目を閉じて神に祈る。
しかし、修道女だったからこそ、こういう場合に救いはないのだと知っていた。
神は、人々の生き死にに関与はしない。
その魂の行く末に慈悲を与えてくれようとも、人間の営みに直接手を貸すことはないのだ。
―――陛下!
マローに必死にしがみ付きながら、今わの際に無意識に呼んだのは夫だった。
鮮やかな朱金色の髪を、美しいクジャク石のような双眸を、低く甘い声を。
一瞬にして蘇ってきた愛する人の面影に、最期の最期、すがりついた。
パキリ、と何か硬いものが割れる音がした。
そのあと一気に、周囲の音という音が消えた。
メイラはぎゅうぎゅうとマローの首に抱き着いたまま、その後数秒じっとしていた。
何が起こったのかわからなかった。
というよりも、魔法の攻撃をかわし生き延びたのだという理解もおいついていなかった。
先に動き出したのは味方側だ。
呆然としているメイラを抱いたまま、マローが再び走りはじめる。
メイラはぼんやりと、音のない周囲を見回した。
聞き慣れた風の音も、茂みのざわめきも、冬鳥の鳴き声も……大勢が移動する足音すらも聞こえない。
まるで、深い水の中にいるか、鼓膜が破れたかのようだった。
徹底的な無音など経験したことはなかったが、静けさよりも圧迫感、恐怖心のほうが勝った。
キーンと耳鳴りがした。
喉が詰まって、無意識のうちに呼吸を止めていた。
トン! とマローが段差を飛び降りた衝撃で、ようやく息をすることを思い出すが、その頃にはほぼ酸欠で意識が朦朧としていた。
子供たちが隠れ家にしていた洞窟の入り江には、海軍のボートが十艘近く繋がれていた。
見張りに残っていた水兵は、大きな襟の軍服を着ていて、帰還した面々の表情を見て即座にボートのもやいを外す。
がくりとメイラの首が後方にブレたので、気絶しかかっていると気づいたのだろう。
マローに顔を覗き込まれ、何か問いかけられるが、やはり音は完全に聞こえなかった。
慌てて後頭部を支えられ、彼女の肩に額を預けた。その丁度視線の先に、斜面の細い道を降りてくる砂色の民族衣装の集団が見えた。
追手だ。
しんがりを務めていたディオン大佐が、ボートを守るように再び立ちふさがる。
狭い洞窟なので、剣を振り回すのは難しいはずで、大柄で大剣持ちの彼には分が悪いだろう。
しかし道が狭いのは、迎撃側には有利だ。
味方の最後の一人がボートに乗るまで、大佐はその場を一歩たりとも引かなかった。
メイラが見ることができたのはそこまでだった。
彼女が乗り込んだボートは真っ先に入り江を離れ、揺れの考慮などない漕ぎ手の全力で沖へと逃れたからだ。
「……さま、御方さま」
しばらくして、ようやく音が戻ってきて、故郷の潮騒の音とマローの気づかわし気な声とを拾う。
抜けるような青い空と、揺れが大きな荒い海。唇に飛んだ海水の塩辛さに、震えながら息を吐いた。
「大丈夫ですか?」
「な、何が」
無意識のうちに顔に飛んだ飛沫を拭おうとして、陛下から下賜されたフィンガーレスのグローブがだらりと垂れたのに気づいた。
「……あ」
「魔道具の防御が発動しました。おかげで無事乗り切れましたよ」
指を通すリングの部分が砕け、ぽろぽろと落ちてきた。
その欠片がキラキラと太陽の光を弾き、瞼の奥を刺激した。
0
お気に入りに追加
656
あなたにおすすめの小説
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
王子殿下の慕う人
夕香里
恋愛
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。
しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──?
「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」
好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。
※小説家になろうでも投稿してます
【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」
私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです
こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。
まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。
幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。
「子供が欲しいの」
「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」
それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。
この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。
鶯埜 餡
恋愛
ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。
しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが
優しく微笑んでくれる婚約者を手放した後悔
しゃーりん
恋愛
エルネストは12歳の時、2歳年下のオリビアと婚約した。
彼女は大人しく、エルネストの話をニコニコと聞いて相槌をうってくれる優しい子だった。
そんな彼女との穏やかな時間が好きだった。
なのに、学園に入ってからの俺は周りに影響されてしまったり、令嬢と親しくなってしまった。
その令嬢と結婚するためにオリビアとの婚約を解消してしまったことを後悔する男のお話です。
王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!
gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ?
王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。
国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから!
12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる