月誓歌

有須

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修道女、犬と別れ悪人面と再会する

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 体感的に数分ほどで馬車は止まった。
 心は何時までも小市民のメイラは、腰を落ち着ける間もなく降りるように指示されて閉口した。
 陛下と歩いた距離よりも短いのではないか。せっかちな父がわざわざ馬車を用意させたのが少々解せない。
 とはいえ、貴族の移動とはえてしてこんなものだ。本来であれば歩いた方が早い距離でさえ馬車で移動する。主に体面の為だが、あまりにも非実用的ではないか。
 馬車の扉が開いて、そそくさと父が腰を上げた。年齢の割に俊敏にタラップを降り、こちらを振り仰ぐ。
 メイラは、やけにクッションが利いた座席から苦労して立ち上がり、慣れない裾さばきに手こずりながら広く開いた扉の前まで行った。
 その先に踏み出すのを躊躇ったのは、意外に高い馬車の車高に怯んだのと、降りるためのタラップが非常に小さかったからだ。
 これでは、ドレスを着ていると足元が見えない。
 父の黒々とした目が叱責するように険しくて、慌てて足を踏み出して転びそうになった。咄嗟に手すりを握ったので大事にはならなかったが。
 ますます厳しくなった視線に、焦りよりも腹立たしさが増す。
「さっさと降りよ」
 そんなことを言われても。
 メイラは手すりを握ったまま、両足を置くのがやっとのサイズのタラップの位置を目測した。
 そして、なんとか一段目の段差に足を下ろすことに成功する。
 しかし続く二段目に踏み出すと、望んだ場所に足を置く場所はなかった。
 嫌だもう、何なのこのバランスの悪さ!
 ドレスの女性を転ばそうと画策しているのではないか。
 そう思わざるを得ない不親切な段差であり、サイズだった。
「失礼します」
 転びそうになったのを支えたのは、大きく逞しい手。
「お気を付けください、足元がお悪うございます」
 耳元で囁く声は、普段より感情を含まず事務的だ。しかしメイラは安堵の表情で身体の力を抜いた。
 小柄な彼女をひょいっと抱え上げ、無事地面まで降ろしてくれたのは、同性でも思わず頬を寄せたくなるほどふくよかなお胸のマデリーン。
 顔を上げると、キンバリーをはじめ後宮近衛の女性騎士たちが整列していた。ゆっくりと馬車が移動してい来る間に、追いついたのだろう。
 メイラは地面にしっかりと両足をついて立ってから、改めてマデリーンの腕に手を置いた。父にエスコートされるより、彼女の方が絶対にいい。
 しかしマデリーンは何の容赦もなくその手を外し、ぐるりと体の向きを変えさせ背中を押した。嫌だと思わず足を踏ん張ったが、武官の彼女にかなうわけがない。
 あっという間に、皮肉気に唇をひん曲げた悪人面の手に委ねられ、ため息が零れそうになった。
「行くぞ」
「……はい、お父様」
 どうかこのまま売り払われるのでありませんように。
 もちろん父が本気でそんなことをすると思っているわけではないが、楽しい事が待っているわけがないのは確かだ。
 顔を上げると、いつも遠巻きに見ていた街一番の高級ホテルがそびえ立っていた。
 夜の明かりがともされ始め、もともと華やかな外装がなおいっそうきらびやかに輝いている。
 馬車止めには父の護衛の騎士たちも並んでいるが、容姿が整った女性騎士たちの方が目立っていた。整然と並ぶ彼らの前を歩きながら、なんとか足を絡ませず無様なことにならないようにだけ気を配る。
 ホテルの入り口には、大きな旗が二振りかけられていた。帝国の国旗と、公爵家の家紋の旗だ。
 見れば、いたるところに旗やタペストリーが飾られていて、正面扉へ続く石畳の上には真新しい赤いカーペットが敷かれている。
 目を引かれる華やかさで飾られているのは、季節的に今は咲いていないはずのハーデス公爵領の領花だ。
 その美しさを引き立てる複雑な結ばれ方をしたリボンに、思わず息が止まりそうになった。
 父には不釣り合いに可愛らしいその装飾は、明らかにメイラを歓迎するものだ。
 急に自覚した場違い感に、足が止まりそうになった。
 陛下の後宮という、ここの比ではない豪華絢爛な場所を見てきたが、あくまでもあそこはメイラが主役の場所ではなかった。
 陛下とご一緒している時もそうだ。豪華できらびやかなのは陛下の為であると思えば当然だとしか思わなかった。
 こうやって到着を歓迎され、うれしくないわけではないが、それよりも逃げ出したい感が強い。
 いったいこの装飾に幾らかかったのだろうとか、請求が公爵家に行くなら全方面からの苦情に見舞われそうだとか、メイラに払えるだろうかとか。
 今更どうしようもないことがグルグルと頭の中を駆け回り、嫌な汗が滲む。
 それを察したわけではないだろうが、メイラの手が触れている部分がぎゅっと絞められた。
 見上げると、前を向いている父の顔。
 相変わらずの険悪な表情、どう見ても怒っているようにしか見えないが、服越しに伝わってくる体温に何故かほっとした。
 いや、安心している場合ではない。
 いやだいやだと思っていたら、それが表情に出てしまう。淑女たるもの、いついかなる場合でもそんな負の感情を見せるべきではないのだ。
「そうだ。そうやって前だけを向いていろ。お前にそれ以上は求めぬ」
 当てにしないから邪魔をするな、としか聞こえない言い草だった。
 メイラはベール越しに胡乱な目をして、小柄な父を見やった。
 冷淡だの悪辣だの色々と評判の悪い顔に、不機嫌以外の表情が浮かぶのを見た事がない。実際にどう思っていようと勝手だが、もう少し愛想よくすれば周囲との軋轢も減らせるだろうに……
 せかせかと速足の父の腕をぐいと引き、歩く速度を弱めて欲しいとサインを出す。
 微妙に顎の辺りの筋肉がひくつく父から目を逸らし、なおも速足のその腕をぎゅうと痛むほどに握ってやると、ようやくいくらか足の運びが緩やかになった。
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