月誓歌

有須

文字の大きさ
上 下
101 / 207
修道女、犬と別れ悪人面と再会する

3

しおりを挟む
 通路を譲ってもらって甲板に出るだけで、すでにもう妙な達成感があった。
 何かを成し遂げた気分になって、眩い昼間の海に目を細める。厚めの手袋をつけた手で海風に揺れるベールを押さえようとして……白日の下でも白い軍服は目立つのだと知った。
「……すぐに始末しましょう」
「待って」
 絶対にそちらは見ないと強く自身に言い聞かせながら、メイラは小声で言った。
 ルシエラは不愉快さを隠しもせずに、ジロリと甲板の先を見据える。
「ですが、あまりにも不敬。非礼。目玉をくりぬいて魚の餌にしてやります」
「相手は海軍の提督で陛下のお身内だから!」
 人前で鼻を鳴らすのは失礼にならないのでしょうか、ルシエラさん。
 ぎゅっと彼女の腕を握ると、ものすごく渋りながらも視線をこちらに向けてくれた。
 護衛たちを含めたお付きの者たちが何も言わず、いやむしろ彼女に同意するような雰囲気なのが怖い。
 対して、巨大戦艦の乗員たちは皆下を向いている。何か大きな失敗をして、叱られた子供のようだ。
 最初は戸惑ったが、こちらから彼らに声を掛けるのは淑女として問題があるのでどうしようもない。せめて当たり障りなく微笑みかけたいところだが、そもそも誰とも視線が合わないのだ。
 かといって、存在が無視されているのかと言えば、そうではない。むしろ真逆で、乗員たちの全神経がこちらに向いているのがわかる。それはもう恐ろしいほどの圧力で、正直全身がペラペラの紙かぺちゃんこな油の搾りかすのようになってしまいそうだ。
 何故彼らがこんな状態なのかというと、起こってしまった事件の詳細が伝わったわけではなく、彼らの指揮官たちの態度のせいだと思う。
 手すりに手を乗せ、海に顔を向けたメイラから少し離れた位置に、膝をついて控えるディオン大佐とグローム艦長。彼らともあまり視線は合わないが、戦艦の内部や海についての質問をすれば答えてくれるからまだマシなほうだ。
 問題は、意図して探さなければ視界の外にいる提督だ。
 ずっと起坐で両手を床についているように見えるのは気のせいではないだろう。
 ゴンと何かを打ち付ける音がしてそちらを向けば、額を床に押し付けているのを見てしまった。
 提督が自身を責めているのは理解できる。しかし結果論としてメイラは無傷であり、何かを企んでいたクリスは拘束された。予定より数日遅れるが、無事祭事に間に合うように到着も出来そうだ。
 不問にすると言ったのだから、そんなに身もふたもない反省ぶりを見せる必要はないのだ。
 もしかして、あの手紙がまずかったのだろうか。出来るだけ丁寧に、優しく書いたつもりだったのだが。
 やむを得なかったのだと、気にしていないと、今後とも陛下を、この国を守る剣であって欲しいと……いや、おかしなところはない。良識の範囲内の内容だし、文字の乱れもなかったはず。
「あ」
 誰かが思わず、といった感じで声を漏らした。
 ざざっとささくれだった気配がその声の主の方を向き、メイラが首を巡らせる前に視界から撤去された。
 いったい何事と周囲を見回すと、甲板の隅で膝をついていた提督の周囲に何人かの将校が居て、なにやら揉めている。
 よくわからないが、提督が彼らの手を振り払っているように見えた。なんだろう?
 どうやら額を切ったらしいと気づいたのは、提督の軍服が真っ白だったからだ。遠目にもわかるほどの出血だ、相当の量なのだろう。
 ……どうしろというのだ。
 助けを求めてルシエラを振り返ったのは失敗だった。
 彼女はものすごくいい顔で笑っていた。常に感情をあらわにしない彼女には珍しい、満面の笑みだ。
「やめさせてあげて」
 メイラは真顔で言った。
 出血に構わずなおも頭を下げ続ける姿を見て、笑っていられるほど神経は太くない。
「あんな風に頭を下げるべき方ではないわ」
「では、魚の餌になれと申し付けましょう」
「……ルシエラ」
 ベールの下で盛大に顔が引きつった。
 周囲の誰も同意してくれない。むしろもっとやれと言いたげな雰囲気に、己の感性が正常なのか疑いたくなってくる。
「しばらくは反省させておけばいいのですよ。実害はありません」
 あります。むしろゴリゴリと物理的に精神が抉られています。
「心がポッキリ折れていますので、今こそ念入りに粉砕しておくべきです」
 いや、絶対に違う。
 メイラには嗜虐癖などないので、他人様をそこまで踏みつけにしたくない。
「……ルシエラ」
 小さな声で、窘めるように名前を呼ぶと、有能な一等女官は何故か困った子を見る目でメイラを見つめた。
「中途半端なのはよくありません」
 そうだろうか。……はっ、いやいや、毒されてはいけない。
「……部屋に戻るわ」
「もうよろしいのですか?」
 むしろ、この状態で気分転換ができると思う方がおかしい。十分足らずだが、よく持った方だと思う。
 メイラはもう一度、冷たい風が吹く海を一瞥してから頷いた。
「戻ります」
「はい、御方さま」
 従順に頷くルシエラ。ささっと船室に向かう進路を譲る二人の大佐。
「……」
 少し位置を変えて再び膝をつき控えた男たちを何とも言えない気分で見下ろして、扇子の影でため息を零す。
 聞こえてしまったのだろう、びくりと彼らの肩が揺れた。
 これはいけない。絶対にいけない。
「……後でちょっとお話しましょうか」
 しっかりとルシエラに言い聞かせておかなければ。メイラまでS系なのだと思われてはかなわない。
 冷たいほどに整った美貌の一等女官が、こてりと小さく首を傾けた。
「その前に、これを提督に」
 淑女のたしなみ、ドレスの隠しからハンカチを取り出して、容貌だけで言えば文句なしに美しいルシエラに手渡した。
 その美しい眉がきゅっと寄り、嫌そうな表情になったがそんな顔をしても駄目だ。
「貴女の手から、直接渡すのよ」
 できれば仲違いを解消して欲しいが難しいのだろう。
「もういいから、手当てをしなさいと伝えて。……それ以外の余計なプレッシャーを掛けては駄目」
 最後に念を入れておいてよかった。そのままだったら、また提督を虐めていたにちがいないのだ。
 そこまで考えて、またため息が零れた。
 何が楽しくて、二十も年上の男性の心配をしなければならないのだ。
 息抜きのはずなのに、どっと疲労感が増した。
しおりを挟む
感想 94

あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

王子殿下の慕う人

夕香里
恋愛
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。 しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──? 「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」 好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。 ※小説家になろうでも投稿してます

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。

五月ふう
恋愛
 リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。 「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」  今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。 「そう……。」  マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。    明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。  リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。 「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」  ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。 「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」 「ちっ……」  ポールは顔をしかめて舌打ちをした。   「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」  ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。 だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。 二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。 「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。

鶯埜 餡
恋愛
 ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。  しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

1度だけだ。これ以上、閨をともにするつもりは無いと旦那さまに告げられました。

尾道小町
恋愛
登場人物紹介 ヴィヴィアン・ジュード伯爵令嬢  17歳、長女で爵位はシェーンより低が、ジュード伯爵家には莫大な資産があった。 ドン・ジュード伯爵令息15歳姉であるヴィヴィアンが大好きだ。 シェーン・ロングベルク公爵 25歳 結婚しろと回りは五月蝿いので大富豪、伯爵令嬢と結婚した。 ユリシリーズ・グレープ補佐官23歳 優秀でシェーンに、こき使われている。 コクロイ・ルビーブル伯爵令息18歳 ヴィヴィアンの幼馴染み。 アンジェイ・ドルバン伯爵令息18歳 シェーンの元婚約者。 ルーク・ダルシュール侯爵25歳 嫁の父親が行方不明でシェーン公爵に相談する。 ミランダ・ダルシュール侯爵夫人20歳、父親が行方不明。 ダン・ドリンク侯爵37歳行方不明。 この国のデビット王太子殿下23歳、婚約者ジュリアン・スチール公爵令嬢が居るのにヴィヴィアンの従妹に興味があるようだ。 ジュリアン・スチール公爵令嬢18歳デビット王太子殿下の婚約者。 ヴィヴィアンの従兄弟ヨシアン・スプラット伯爵令息19歳 私と旦那様は婚約前1度お会いしただけで、結婚式は私と旦那様と出席者は無しで式は10分程で終わり今は2人の寝室?のベッドに座っております、旦那様が仰いました。 一度だけだ其れ以上閨を共にするつもりは無いと旦那様に宣言されました。 正直まだ愛情とか、ありませんが旦那様である、この方の言い分は最低ですよね?

【完結】愛も信頼も壊れて消えた

miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」 王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。 無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。 だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。 婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。 私は彼の事が好きだった。 優しい人だと思っていた。 だけど───。 彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。 ※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。

貴方が側妃を望んだのです

cyaru
恋愛
「君はそれでいいのか」王太子ハロルドは言った。 「えぇ。勿論ですわ」婚約者の公爵令嬢フランセアは答えた。 誠の愛に気がついたと言われたフランセアは微笑んで答えた。 ※2022年6月12日。一部書き足しました。 ※架空のお話です。現実世界の話ではありません。  史実などに基づいたものではない事をご理解ください。 ※話の都合上、残酷な描写がありますがそれがざまぁなのかは受け取り方は人それぞれです。  表現的にどうかと思う回は冒頭に注意喚起を書き込むようにしますが有無は作者の判断です。 ※更新していくうえでタグは幾つか増えます。 ※作者都合のご都合主義です。 ※リアルで似たようなものが出てくると思いますが気のせいです。 ※爵位や言葉使いなど現実世界、他の作者さんの作品とは異なります(似てるモノ、同じものもあります) ※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。

処理中です...