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修道女、犬と別れ悪人面と再会する
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それから丸一日は平和だった。
部屋から出なかったので、余計なものはメイラの目に触れなかったからだ。
航海もあと二日を切り、相も変わらず過保護な面々に体調も回復してきたので外の空気を吸いたいと言ってみたところ、返ってきたのが険しい表情。
まだ何か問題があるのであれば、どうしても出たいわけではないと即座に前言を撤回したのだが、ユリたちはあからさまな目配せをしあっている。
メイラは再び大人しく籠っていますと言ったのだが、数時間後に甲板に上がっても良いと告げられた。
やっぱり行きたくないとは言えなかった。
彼女たちが認めたのだから、問題はないのだろうと思うが、すでにもうこの艦の上ではいろいろなことが起こり過ぎていたので、これ以上は勘弁して欲しい。
言い出せないままに着替え、ベールをかぶり、「お外は良いお天気ですよ」と普段通りのユリの声に安心できないままに扉の前に立つ。
貴族の女性の外出着は、それなりに華やかなものではあるが、夜会などで着る正式なものより丈が短い。成人していなければ脹脛丈、成人後は地面にすらない程度の踝丈が基本で、その年齢に応じたスカートのタイプがある。
ちなみにメイラの場合、成人しているがまだ十代、しかし既婚。丈は踝で、襞の数が少なめだが可憐さも残したエレガントなデザインのドレスである。
色はやはり紫色を基調にしている。
今日のドレスは普段のように淡い色合いではなく、強く青みを帯びた濃い紫で、派手さはないが既婚者らしい……つまりは地味目なもの。
普段は年齢に見合ったパステルカラーが多い中、外出着に選ぶには意外な色味だ。
あきらかに何か思惑がありそうだが、メイラ的にはむしろこの地味さがいいので特に何も言わなかった。
まだ船室にいるというのに念入りにベールの位置を確認され、しっかりと扇子を握らされる。
そこでまず「?」と小首を傾げた。
明らかに普段使っているものより重い扇子だったからだ。
ルシエラと視線があって、彼女の薄い唇がくっきりと等分に弧を描くのを見て、寒いはずなのに背中に汗がにじんだ。
もしかして武器ですか? これ、武器なんですか?
「不埒ものは遠慮なく打擲してください」
やっぱり武器だった!!
ぶんぶんと首を左右に振ると、マデリーンがにやりと非常に引っかかる表情で笑った。
「駄犬どもは蹴飛ばしても構いませんよ」
出ました犬発言。
もしかしたら彼女の例のあのお仲間たちがいるのかもしれない。いや、彼らは非常に礼儀正しく、メイラに近づいてこようとはしなかった。
そんな彼女たちの意図するところはすぐにわかった。
何故なら、分厚い木の扉を押し開けた時、真っ先に這いつくばる男性の姿が目に入ったからだ。
「……」
扉を閉めてください。今すぐに。
メイラは思いっきり引いた。
狭い通路を占領しているのは、やけに真顔で背筋を伸ばして立っている二人の歩哨と、彼らより階級が高い将校の軍服をきた男性たちの丸まった背中だった。
丸まったというのは語弊がある。
騎士の礼よりもなお一層深く、両膝をつき両手をつき、額を床に押し当てている。
メイラは逃げ出したくなった。
もちろん、彼女の背後にはやけににこやかな女官やメイド、後宮近衛の女騎士たちがいるので退路はない。
ど、どうしろというのだ。
最近身近に多いS系の方々とは違い、メイラは至極まっとうな感性の持ち主だ。
他人を、しかも己よりはるかに年齢が上の男性を這いつくばらせる趣味はない。
これだけの人数が同じ場所にいるというのに、誰も何も言わない全くの沈黙がその場を支配した。
もしかしなくとも己が何か言わねばならないのだろうかと、メイラの冷や汗の量が増す。
「……ごきげんよう、皆さま」
間違えた。普通に挨拶してどうするのだ。
びくりと引きつった背中が、なお一層低くなるのを見下ろして、メイラの方が焦る。
「床は冷たいでしょう? どうかお立ちになって」
いや、本当に立ってください。
本気で懇願しそうになったが、ギリギリのところで堪えた。
躊躇いがちに顔を上げたのは、あのものすごく背が高く顔に傷のある将校と、見た覚えはあるが紹介されたことのないアッシュ色の髪の男性だった。
ふたりとも促されても立ち上がろうとはせず、仰ぎ見るようにメイラを見上げる。
「今更名乗る非礼をどうかお許しください。リヒター提督の副長を務めております、アダル・ディオンと申します」
「お初に御意を得ます。旗艦リアリードの艦長リチャード・グロームと申します」
どうやら指揮系統的にはディオンのほうが上位だが、グローム艦長のほうが弁が立ちそうだ。
そう思ったのは、ディオンは見るからに武官だが、グロームのほうはやけにほっそりとスレンダーな体形で、片眼鏡をかけていたからだ。
視線が合って、それが片眼鏡ではなく隻眼を隠すための眼帯だと気づいた。
「……ご丁寧に」
「御方さまの行く先を塞ぐとは何事か!」
反射的に礼を返そうとしたメイラを制したのはルシエラだ。
「下がれ」
危うく二人の手を踏みそうな位置まで踏み出したのは、騎士服のマデリーン。
「申し訳ございません! どうか謝罪の機会を頂きたく!!」
「必要ない。御方さまに時間を取らせるな」
「お待ちくださっ!」
あ、踏んだ。
マデリーンが意図的にディオンの大きな手を踏んだのが見えた。
息を飲み悲鳴を堪える大男。
ものすごく冷ややかにそれを見下ろす大柄な女騎士。
すっとメイラの横から前に出たルシエラが、強張った表情のグローム艦長の前に立った。
あの、ルシエラさん。その手の扇子は何でしょうか。どこから出したのでしょうか。
シンプルな、メイラが持つものより実用的な色と形の扇子は、おそらく女官用だ。
「ルシエラ」
ものすごく嫌な予感しかしなかったので、メイラは深く考える前に口を開いて止めた。
「早く外の空気を吸いたいわ」
今、その扇子で艦長の横っ面を叩こうとしていませんでしたか?!
駄目駄目駄目! いくら相手が許容しているように見えても、暴力沙汰はいけない。
……マデリーンに手を踏まれたディオンの伏せた顔は何故か赤い。片眼を大きく見開いて、ルシエラの扇子を凝視している艦長の表情もちょっとおかしい。
いやきっと気のせいだ。うん、気のせい。
「謝罪はお受けしました。どうかお立ちになって」
取り急ぎ場を収めなければとんでもないことになりそうで、メイラは内心必死になっていた。
二度目の催促にも立ち上がろうとしない二人に、まさか「そこにいたら通れないから退いてくれ」とは言えずに眉を下げる。
「提督はどうされていますか? お加減はいかがでしょう」
「……はい、お気遣い感謝いたします」
今、ものすごく未練たっぷりにルシエラの扇子を見ませんでしたか、艦長。
グローム艦長は一度顔を伏せ、それからもう一度メイラを仰ぎ見た。
「お沙汰の通り、通常業務に戻っております。決して御方さまには近づけませんので、ご安心ください」
ふと、どこか遠いところを必死の形相で眺めていた歩哨たちの顔が、同時に右側に動いたのに気づいた。
メイラもつられてそちらに視線を向けてしまったのだが、彼らと同じように、即座に何も見なかった振りをした。
いや本当に何も見なかった。
艦内は薄暗い。等間隔にランプが並び、ある程度は照らしているが、どうしても暗がりというものが存在する。
だからきっと、見間違えたのだ。
真っ白な提督服を着た男が、曲がり角から顔半分を出しこちらを見ているなど。
しかもその顔の位置がおかしく、土下座しているかのように床すれすれだということも。
部屋から出なかったので、余計なものはメイラの目に触れなかったからだ。
航海もあと二日を切り、相も変わらず過保護な面々に体調も回復してきたので外の空気を吸いたいと言ってみたところ、返ってきたのが険しい表情。
まだ何か問題があるのであれば、どうしても出たいわけではないと即座に前言を撤回したのだが、ユリたちはあからさまな目配せをしあっている。
メイラは再び大人しく籠っていますと言ったのだが、数時間後に甲板に上がっても良いと告げられた。
やっぱり行きたくないとは言えなかった。
彼女たちが認めたのだから、問題はないのだろうと思うが、すでにもうこの艦の上ではいろいろなことが起こり過ぎていたので、これ以上は勘弁して欲しい。
言い出せないままに着替え、ベールをかぶり、「お外は良いお天気ですよ」と普段通りのユリの声に安心できないままに扉の前に立つ。
貴族の女性の外出着は、それなりに華やかなものではあるが、夜会などで着る正式なものより丈が短い。成人していなければ脹脛丈、成人後は地面にすらない程度の踝丈が基本で、その年齢に応じたスカートのタイプがある。
ちなみにメイラの場合、成人しているがまだ十代、しかし既婚。丈は踝で、襞の数が少なめだが可憐さも残したエレガントなデザインのドレスである。
色はやはり紫色を基調にしている。
今日のドレスは普段のように淡い色合いではなく、強く青みを帯びた濃い紫で、派手さはないが既婚者らしい……つまりは地味目なもの。
普段は年齢に見合ったパステルカラーが多い中、外出着に選ぶには意外な色味だ。
あきらかに何か思惑がありそうだが、メイラ的にはむしろこの地味さがいいので特に何も言わなかった。
まだ船室にいるというのに念入りにベールの位置を確認され、しっかりと扇子を握らされる。
そこでまず「?」と小首を傾げた。
明らかに普段使っているものより重い扇子だったからだ。
ルシエラと視線があって、彼女の薄い唇がくっきりと等分に弧を描くのを見て、寒いはずなのに背中に汗がにじんだ。
もしかして武器ですか? これ、武器なんですか?
「不埒ものは遠慮なく打擲してください」
やっぱり武器だった!!
ぶんぶんと首を左右に振ると、マデリーンがにやりと非常に引っかかる表情で笑った。
「駄犬どもは蹴飛ばしても構いませんよ」
出ました犬発言。
もしかしたら彼女の例のあのお仲間たちがいるのかもしれない。いや、彼らは非常に礼儀正しく、メイラに近づいてこようとはしなかった。
そんな彼女たちの意図するところはすぐにわかった。
何故なら、分厚い木の扉を押し開けた時、真っ先に這いつくばる男性の姿が目に入ったからだ。
「……」
扉を閉めてください。今すぐに。
メイラは思いっきり引いた。
狭い通路を占領しているのは、やけに真顔で背筋を伸ばして立っている二人の歩哨と、彼らより階級が高い将校の軍服をきた男性たちの丸まった背中だった。
丸まったというのは語弊がある。
騎士の礼よりもなお一層深く、両膝をつき両手をつき、額を床に押し当てている。
メイラは逃げ出したくなった。
もちろん、彼女の背後にはやけににこやかな女官やメイド、後宮近衛の女騎士たちがいるので退路はない。
ど、どうしろというのだ。
最近身近に多いS系の方々とは違い、メイラは至極まっとうな感性の持ち主だ。
他人を、しかも己よりはるかに年齢が上の男性を這いつくばらせる趣味はない。
これだけの人数が同じ場所にいるというのに、誰も何も言わない全くの沈黙がその場を支配した。
もしかしなくとも己が何か言わねばならないのだろうかと、メイラの冷や汗の量が増す。
「……ごきげんよう、皆さま」
間違えた。普通に挨拶してどうするのだ。
びくりと引きつった背中が、なお一層低くなるのを見下ろして、メイラの方が焦る。
「床は冷たいでしょう? どうかお立ちになって」
いや、本当に立ってください。
本気で懇願しそうになったが、ギリギリのところで堪えた。
躊躇いがちに顔を上げたのは、あのものすごく背が高く顔に傷のある将校と、見た覚えはあるが紹介されたことのないアッシュ色の髪の男性だった。
ふたりとも促されても立ち上がろうとはせず、仰ぎ見るようにメイラを見上げる。
「今更名乗る非礼をどうかお許しください。リヒター提督の副長を務めております、アダル・ディオンと申します」
「お初に御意を得ます。旗艦リアリードの艦長リチャード・グロームと申します」
どうやら指揮系統的にはディオンのほうが上位だが、グローム艦長のほうが弁が立ちそうだ。
そう思ったのは、ディオンは見るからに武官だが、グロームのほうはやけにほっそりとスレンダーな体形で、片眼鏡をかけていたからだ。
視線が合って、それが片眼鏡ではなく隻眼を隠すための眼帯だと気づいた。
「……ご丁寧に」
「御方さまの行く先を塞ぐとは何事か!」
反射的に礼を返そうとしたメイラを制したのはルシエラだ。
「下がれ」
危うく二人の手を踏みそうな位置まで踏み出したのは、騎士服のマデリーン。
「申し訳ございません! どうか謝罪の機会を頂きたく!!」
「必要ない。御方さまに時間を取らせるな」
「お待ちくださっ!」
あ、踏んだ。
マデリーンが意図的にディオンの大きな手を踏んだのが見えた。
息を飲み悲鳴を堪える大男。
ものすごく冷ややかにそれを見下ろす大柄な女騎士。
すっとメイラの横から前に出たルシエラが、強張った表情のグローム艦長の前に立った。
あの、ルシエラさん。その手の扇子は何でしょうか。どこから出したのでしょうか。
シンプルな、メイラが持つものより実用的な色と形の扇子は、おそらく女官用だ。
「ルシエラ」
ものすごく嫌な予感しかしなかったので、メイラは深く考える前に口を開いて止めた。
「早く外の空気を吸いたいわ」
今、その扇子で艦長の横っ面を叩こうとしていませんでしたか?!
駄目駄目駄目! いくら相手が許容しているように見えても、暴力沙汰はいけない。
……マデリーンに手を踏まれたディオンの伏せた顔は何故か赤い。片眼を大きく見開いて、ルシエラの扇子を凝視している艦長の表情もちょっとおかしい。
いやきっと気のせいだ。うん、気のせい。
「謝罪はお受けしました。どうかお立ちになって」
取り急ぎ場を収めなければとんでもないことになりそうで、メイラは内心必死になっていた。
二度目の催促にも立ち上がろうとしない二人に、まさか「そこにいたら通れないから退いてくれ」とは言えずに眉を下げる。
「提督はどうされていますか? お加減はいかがでしょう」
「……はい、お気遣い感謝いたします」
今、ものすごく未練たっぷりにルシエラの扇子を見ませんでしたか、艦長。
グローム艦長は一度顔を伏せ、それからもう一度メイラを仰ぎ見た。
「お沙汰の通り、通常業務に戻っております。決して御方さまには近づけませんので、ご安心ください」
ふと、どこか遠いところを必死の形相で眺めていた歩哨たちの顔が、同時に右側に動いたのに気づいた。
メイラもつられてそちらに視線を向けてしまったのだが、彼らと同じように、即座に何も見なかった振りをした。
いや本当に何も見なかった。
艦内は薄暗い。等間隔にランプが並び、ある程度は照らしているが、どうしても暗がりというものが存在する。
だからきっと、見間違えたのだ。
真っ白な提督服を着た男が、曲がり角から顔半分を出しこちらを見ているなど。
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