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提督、犬になる
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恐ろしいのは、何もかも覚えているという事だ。
ジークハルト・リヒター海軍中将は、ベッドの縁に頭をゴンと叩きつけながら唸った。
「……ご気分は?」
「良いわけないだろう!」
「でしょうね」
至極冷静な声色でそう言ったのは、旗艦リアリードの艦長グロームだ。
海軍大学時代から同期で、任官も同時期、似たようなキャリアを積み上げてきたにもかかわらず、彼の階級はまだ大佐。
それはグロームが無能だからというわけではなく、リヒターが皇帝陛下の血縁者だという理由が大きい。
「寛大な処置に感謝し、誠心誠意謝罪するしかありませんね」
妾妃を悪しざまに罵倒したものの、自身も貴族としての立場から出世し、誰もがうらやむほどの地位を享受している。そのあたりの水兵にくらべると着るもの食べるものすべて高価なものだし、家に戻ればいかにも貴族らしい館と、政略結婚で娶った身分の釣り合う妻がいる。
毎週のように茶会を開き、シーズンごとに大量のドレスを購入し、きらびやかな夜会に欠かさず出席している妻に対しては、一片の苦言も呈したことはないのに、恐れ多くも陛下の寵愛する妾妃へ暴言を吐いてしまった。
きょとりと見開かれた黒い大きな目を思い出し、喉の奥でくぐもったうめき声を漏らした。
進退を問われる状況になっていてもおかしくはなかった。
首筋に突き付けられた剣で、そのまま喉笛を裂かれていても文句は言えなかった。
「副長が何度も謝罪に行っていますが、面会はかなわないようです。まだ相当に熱が高いそうですよ」
ベッドだけ置かれた狭い寝室で、初めてまともに見た陛下の愛妾は、想像していたよりも随分と若い少女のような女だった。本当にこの娘が? と疑いたくなるほどに、ごく普通の、街中のどこかにいてもおかしくないような娘。
容貌の美しさで言うと、傍付きのメイドや女官のほうが勝っている。身体つきもひどく華奢で、妖艶さとかふくよかさとは程御遠い。
「普通の貴族の御令嬢でも、寝室に踏み込むなど即責任を取らされる案件ですよ。ましてや体調不良で臥せっているにもかかわらず……お付きの方々のお怒りも当然です」
リヒターはもう一度、ゴツンとベッドの縁に頭をぶつけた。
冷静に考えればわかるのだ。皇帝陛下の寵妃であり、国内随一の大貴族の娘である彼女が、ただの一介の商人の娘などを気に留める訳がない。
たしかに嫋やかで稀に見る美しい女だ。いつものように食指が働き、ちょっと親切にしてあげたら懇ろになれるかもしれないという下心はあった。
しかし、地位も名誉も妻をも捨ててまで欲しいかと問われると、答えはどう考えても否だ。
まして、主君に直接任された仕事をおろそかにするなどと……
己の口から吐いた台詞を思い返すたびに、ドスドスと胸にくさびが撃ち込まれていく気がする。
あの大きな黒い目が熱で潤み、困惑したように揺れる様が記憶にこびりついて離れない。
「いい加減にしてください。お馬鹿な頭が更に救いようがないほどお馬鹿になるではないですか」
ゴンゴンと額を打ち付け続けていると、旗艦艦長が呆れた声でそう言った。
「原因はわかっているのですから、今度こそ惑わされないでくださいよ」
「……もちろんだ」
金の指輪をはめていた中指に触れてみる。
取り上げられるとき、ありえないほどの醜態をさらし半狂乱になった。
今思えば異常だとわかるが、その時は命と同じぐらい大切なものが奪われるかと思い、必死だったのだ。
正直に言えば、いまだにそこに指輪がないの事に違和感がある。あの白い石の埋め込まれた金色の指輪は、己のものだと思ってしまっている。
もちろん今は、そんな心理状態こそ異常だと理解しているし、指輪をリヒターに着けさせたクリスティーナ・ホーキンズに対しては怒りすら感じているが。
「彼女は……どうしている?」
「それがホーキンズ嬢についてでしたら、女官殿の指示通りに気づかれないよう居住区に押し込めつつ監視しています。提督を呼んでほしいと真っ赤な目をして懇願しているそうですよ。そうやってお願いすれば、海軍中将たるあなたがホイホイと言う事を聞きに来てくれると思ってるようですね」
「うっ」
リヒターは胸を手で押さえた。
「下手な色気を出すからこんなことになるんです。貴方は昔からそうでした」
ベッドの脇に仁王立ちになったまま、グローム大佐が片頬を歪める。
「いつか大失敗するのではないかと思っていましたよ」
もう二十年近い付き合いで、何度も向けられた表情ではあるが、いつも明らかにこちらが悪いので文句も言えない。
くどくどと続くお小言に背中を丸めながら、「……すまん」とくぐもった声で謝罪した。
「何ですか? 良く聞こえませんでしたが」
「だから、すまん!」
「ええ、ええ、大迷惑を被りましたよ。大切な任務を放棄して、女の尻ばかり追いかけて……指揮権を剥奪して営倉に転がしてやろうかと何度思ったか」
「……」
「海賊の盗伐? 遭難者の探索? そんなものブリケート艦数隻を残して当たらせればよかったんです。下手な反発をあんな小娘に煽られて……」
「……すまなかった」
「一応魔道具に洗脳されていたということで納得してあげましょう。謝罪は私にではなく、あの御方にするべきです」
リヒターは、唇をへの字に引き結んで己の旗艦長を見上げた。
「大切な陛下にまとわりつく悪女だと最初から色眼鏡でみていましたよね。あの陛下がそういう女に心を寄せると本気で思っているんですか?」
「……いや」
陛下の身辺には、侍従長や憲兵師団長などの、恐ろしく有能な者たちが目を光らせている。彼らの厳しい目をかいくぐって、例えば今回の指輪事件のような事態が引き起こることはまず不可能と言ってもいい。
「皇妃でもないお妃さまが、公務を担って里帰りするなど聞いたこともないですよ。しかも随行員の女官、あれはただ者ではありません。身辺警護の騎士たちすべてが女性で、おそらくは後宮近衛。相当の腕利きをよこしています。それだけ見ても、陛下が相当にあの御方に入れ込んでいるのがわかります。今回のご公務に何かあるのでしょう。ただの我儘などではないと思います」
容赦なく突き付けてくる言葉に、ドスンと再びベッド枠に額をぶつける。
「あなたが一番見るべきだったのは、あの御方のお召し物です。ほぼ紫一色、小物は黒。高い階位を示す色を下賜され、陛下のお色である黒を身に着けることも許されている。何より、御自ら船着き場まで見送りに出ておられた。……これほどの寵愛など聞いたこともないですよ。あなたごときがどうこう言えないレベルです」
「ごときって言うな、ごときって」
「どう見ても『ごとき』としか言いようがないですよね。そういう態度と行動でした」
なおもゴンゴンと額をぶつけ始めたリヒターに、グローム大佐はあきれたようにため息をついた。
「とにかく、真摯な謝罪が第一です」
「……わかっている」
脳裏に過るのは、少年のように短い黒髪と、大きな黒い目。
色で男を溺れさせるような雰囲気など皆無で、むしろ庇護欲をわき起こさせるような幼げな容姿だ。
リヒターは己が、何を躊躇っているのか理解できていなかった。
頭を下げる。謝罪をする。非を認める。小さな少女の前で、膝をついて赦しを乞う自身を想像してみる。……いや、傷つけ怖がらせてしまった彼女に謝るのは吝かではない。
ふと脳裏に、冷ややかな女官の視線が蘇った。
普段はリヒターに忠実に付き従っている副官のディオンに、異議をとなえ逆らうよう仕向けたのは間違いなく彼女だ。
彼だけではない、旗艦リアリードの次席以下の将校たちの目を、言葉巧みに妾妃への同情にすり替えた。
確かに彼女は有能だ。嫌になるほどに。
ドンドン! と個室の前の歩哨が来客を知らせる合図をする。
「入れ」
部屋の主でもないグロームが、ベッドにめり込む勢いのリヒターに代わって返答する。
「失礼いたします、提督」
入室してきたのは、今考えていた副官のディオン大佐と……まるで氷のような印象の、ほっそりとした女官だった。
唐突に理解できた。
この女に頭を下げることが嫌だったのだ……と。
ジークハルト・リヒター海軍中将は、ベッドの縁に頭をゴンと叩きつけながら唸った。
「……ご気分は?」
「良いわけないだろう!」
「でしょうね」
至極冷静な声色でそう言ったのは、旗艦リアリードの艦長グロームだ。
海軍大学時代から同期で、任官も同時期、似たようなキャリアを積み上げてきたにもかかわらず、彼の階級はまだ大佐。
それはグロームが無能だからというわけではなく、リヒターが皇帝陛下の血縁者だという理由が大きい。
「寛大な処置に感謝し、誠心誠意謝罪するしかありませんね」
妾妃を悪しざまに罵倒したものの、自身も貴族としての立場から出世し、誰もがうらやむほどの地位を享受している。そのあたりの水兵にくらべると着るもの食べるものすべて高価なものだし、家に戻ればいかにも貴族らしい館と、政略結婚で娶った身分の釣り合う妻がいる。
毎週のように茶会を開き、シーズンごとに大量のドレスを購入し、きらびやかな夜会に欠かさず出席している妻に対しては、一片の苦言も呈したことはないのに、恐れ多くも陛下の寵愛する妾妃へ暴言を吐いてしまった。
きょとりと見開かれた黒い大きな目を思い出し、喉の奥でくぐもったうめき声を漏らした。
進退を問われる状況になっていてもおかしくはなかった。
首筋に突き付けられた剣で、そのまま喉笛を裂かれていても文句は言えなかった。
「副長が何度も謝罪に行っていますが、面会はかなわないようです。まだ相当に熱が高いそうですよ」
ベッドだけ置かれた狭い寝室で、初めてまともに見た陛下の愛妾は、想像していたよりも随分と若い少女のような女だった。本当にこの娘が? と疑いたくなるほどに、ごく普通の、街中のどこかにいてもおかしくないような娘。
容貌の美しさで言うと、傍付きのメイドや女官のほうが勝っている。身体つきもひどく華奢で、妖艶さとかふくよかさとは程御遠い。
「普通の貴族の御令嬢でも、寝室に踏み込むなど即責任を取らされる案件ですよ。ましてや体調不良で臥せっているにもかかわらず……お付きの方々のお怒りも当然です」
リヒターはもう一度、ゴツンとベッドの縁に頭をぶつけた。
冷静に考えればわかるのだ。皇帝陛下の寵妃であり、国内随一の大貴族の娘である彼女が、ただの一介の商人の娘などを気に留める訳がない。
たしかに嫋やかで稀に見る美しい女だ。いつものように食指が働き、ちょっと親切にしてあげたら懇ろになれるかもしれないという下心はあった。
しかし、地位も名誉も妻をも捨ててまで欲しいかと問われると、答えはどう考えても否だ。
まして、主君に直接任された仕事をおろそかにするなどと……
己の口から吐いた台詞を思い返すたびに、ドスドスと胸にくさびが撃ち込まれていく気がする。
あの大きな黒い目が熱で潤み、困惑したように揺れる様が記憶にこびりついて離れない。
「いい加減にしてください。お馬鹿な頭が更に救いようがないほどお馬鹿になるではないですか」
ゴンゴンと額を打ち付け続けていると、旗艦艦長が呆れた声でそう言った。
「原因はわかっているのですから、今度こそ惑わされないでくださいよ」
「……もちろんだ」
金の指輪をはめていた中指に触れてみる。
取り上げられるとき、ありえないほどの醜態をさらし半狂乱になった。
今思えば異常だとわかるが、その時は命と同じぐらい大切なものが奪われるかと思い、必死だったのだ。
正直に言えば、いまだにそこに指輪がないの事に違和感がある。あの白い石の埋め込まれた金色の指輪は、己のものだと思ってしまっている。
もちろん今は、そんな心理状態こそ異常だと理解しているし、指輪をリヒターに着けさせたクリスティーナ・ホーキンズに対しては怒りすら感じているが。
「彼女は……どうしている?」
「それがホーキンズ嬢についてでしたら、女官殿の指示通りに気づかれないよう居住区に押し込めつつ監視しています。提督を呼んでほしいと真っ赤な目をして懇願しているそうですよ。そうやってお願いすれば、海軍中将たるあなたがホイホイと言う事を聞きに来てくれると思ってるようですね」
「うっ」
リヒターは胸を手で押さえた。
「下手な色気を出すからこんなことになるんです。貴方は昔からそうでした」
ベッドの脇に仁王立ちになったまま、グローム大佐が片頬を歪める。
「いつか大失敗するのではないかと思っていましたよ」
もう二十年近い付き合いで、何度も向けられた表情ではあるが、いつも明らかにこちらが悪いので文句も言えない。
くどくどと続くお小言に背中を丸めながら、「……すまん」とくぐもった声で謝罪した。
「何ですか? 良く聞こえませんでしたが」
「だから、すまん!」
「ええ、ええ、大迷惑を被りましたよ。大切な任務を放棄して、女の尻ばかり追いかけて……指揮権を剥奪して営倉に転がしてやろうかと何度思ったか」
「……」
「海賊の盗伐? 遭難者の探索? そんなものブリケート艦数隻を残して当たらせればよかったんです。下手な反発をあんな小娘に煽られて……」
「……すまなかった」
「一応魔道具に洗脳されていたということで納得してあげましょう。謝罪は私にではなく、あの御方にするべきです」
リヒターは、唇をへの字に引き結んで己の旗艦長を見上げた。
「大切な陛下にまとわりつく悪女だと最初から色眼鏡でみていましたよね。あの陛下がそういう女に心を寄せると本気で思っているんですか?」
「……いや」
陛下の身辺には、侍従長や憲兵師団長などの、恐ろしく有能な者たちが目を光らせている。彼らの厳しい目をかいくぐって、例えば今回の指輪事件のような事態が引き起こることはまず不可能と言ってもいい。
「皇妃でもないお妃さまが、公務を担って里帰りするなど聞いたこともないですよ。しかも随行員の女官、あれはただ者ではありません。身辺警護の騎士たちすべてが女性で、おそらくは後宮近衛。相当の腕利きをよこしています。それだけ見ても、陛下が相当にあの御方に入れ込んでいるのがわかります。今回のご公務に何かあるのでしょう。ただの我儘などではないと思います」
容赦なく突き付けてくる言葉に、ドスンと再びベッド枠に額をぶつける。
「あなたが一番見るべきだったのは、あの御方のお召し物です。ほぼ紫一色、小物は黒。高い階位を示す色を下賜され、陛下のお色である黒を身に着けることも許されている。何より、御自ら船着き場まで見送りに出ておられた。……これほどの寵愛など聞いたこともないですよ。あなたごときがどうこう言えないレベルです」
「ごときって言うな、ごときって」
「どう見ても『ごとき』としか言いようがないですよね。そういう態度と行動でした」
なおもゴンゴンと額をぶつけ始めたリヒターに、グローム大佐はあきれたようにため息をついた。
「とにかく、真摯な謝罪が第一です」
「……わかっている」
脳裏に過るのは、少年のように短い黒髪と、大きな黒い目。
色で男を溺れさせるような雰囲気など皆無で、むしろ庇護欲をわき起こさせるような幼げな容姿だ。
リヒターは己が、何を躊躇っているのか理解できていなかった。
頭を下げる。謝罪をする。非を認める。小さな少女の前で、膝をついて赦しを乞う自身を想像してみる。……いや、傷つけ怖がらせてしまった彼女に謝るのは吝かではない。
ふと脳裏に、冷ややかな女官の視線が蘇った。
普段はリヒターに忠実に付き従っている副官のディオンに、異議をとなえ逆らうよう仕向けたのは間違いなく彼女だ。
彼だけではない、旗艦リアリードの次席以下の将校たちの目を、言葉巧みに妾妃への同情にすり替えた。
確かに彼女は有能だ。嫌になるほどに。
ドンドン! と個室の前の歩哨が来客を知らせる合図をする。
「入れ」
部屋の主でもないグロームが、ベッドにめり込む勢いのリヒターに代わって返答する。
「失礼いたします、提督」
入室してきたのは、今考えていた副官のディオン大佐と……まるで氷のような印象の、ほっそりとした女官だった。
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