月誓歌

有須

文字の大きさ
上 下
86 / 207
修道女、船にも悪意にも酔わず

2

しおりを挟む
 ものすごく手間のかかった衣装を解くのは、想像ほどには時間はかからなかった。
 メイラはほとんど座っているだけでよかったし、装飾品が外されてしまえば、自分でも脱げそうな軽くシンプルなドレスだ。
 もちろん、メイドたちの仕事を奪うようなことはせず、黙って脱がされるに任せる。
 下着姿になって、次に着せられたのは、すみれ色の室内着だった。室内着とは、いわゆるコルセットのような補正具がほとんどないドレスのことで、身分のある女性が普段家の中で着ているものだ。
 来客や晩餐には適さないが、形は正式なドレスに近く、コルセットで締め付けられていないのでかなり楽な服装である。
「失礼いたします」
 例のドンドンと踵を慣らす海軍式の立礼は、どうやらノックの代わりでもあるらしい。
 ようやく慣れ始めた合図にキンバリーが出入り口の扉を開くと、そこからぬっとあらわれたのは巨大な花束を持ったマローだった。
「陛下よりの贈り物です」
「……まあ」
 少なくとも船旅の間はないと思っていた。
 両手で向かい入れてその花束を受け取って、かぐわしく漂う匂いに顔を寄せた。
「陛下にお礼を申し上げる事ができないのがつらいわ」
「お手紙を書かれてはいかがでしょうか」
 微笑むと、マローの顔立ちはぐっと女性らしく優しくなる。
「きっとお喜びですよ」
 メイラに字を教えたのは教区の司教であり、手紙の代書を頼まれる程度には正確に書ける。
 しかしあくまでも市井の者としては、というところで、貴族界でよく用いられる優美な筆記体になると、どうしても苦手意識が高くなる。
「文面を仰っていただければ、代わりにお書きしましょう」
 貴族の中では代筆は当たり前、祐筆という仕事まであるぐらいだから、マローに代わりに書いてもらっても何ら問題はないのだろう。
 しかし、愛する夫への手紙を、誰かに代わりに書いてもらうというのは抵抗があった。
「……いいえ、自分で書いてみるわ。レターセットはあったかしら」
「はい、こちらに」
 ユリがサイドボードの引き出しから取り出したのは、薄紫色の小花が透かし模様になった便箋と、同色の封筒だった。
 言ってすぐ出てきたことに戸惑っていると、有能なメイドがにっこりと有無を言わせぬ感じで微笑んだ。
 疑問を持ってはいけないらしい。
 おそらく貴族の旅行の支度に含まれるのだろうと納得し、受け取った。
 陛下にお渡しする手紙の形式など、出だしからどう書けばいいのかわからなかったので、そのあたりはアドバイスしてもらう。
 便箋一枚に収まる短いものだったが、清書し終わるまでにものすごく時間がかかってしまった。
「いつ頃どくのかしら」
 おそらくはザガンに寄港した後に出されるのだろう。帝都に届くまで一週間といったところだろうか。
「大至急お届けしますよ。……それより、キンバリーから聞いたのですが」
 美しい薄紫色の封筒に手紙を入れながら、低く穏やかな口調のマローを見上げる。
「リヒター提督に非礼があったようですね」
 小首を傾げると、短い黒髪が頬で揺れた。少し考えて、甲板での悪口にもならない皮肉だと思い当たる。
「……あったかしら」
 とっさに、よくわからないふりをした。
 マローの表情はむしろ優し気と言ってもいいものだが、ニコニコと微笑んでいるのがなんとなく駄目な気がした。
 ユリも、フランも、シェリーメイも笑っていた。
 普段ものすごくツンと冷ややかな表情のルシエラまでもが、いまだかつてない笑顔で顔全体をほころばせている。……怖い。
 唯一笑顔でないのは、二等女官のマロニアだけだった。彼女の引きつった表情がすべてを物語っている気がした。
「何もなかったわ」
 メイラは、はっきりと彼女たちに伝わるようにその目を見ながら言った。
 お願いだから、船旅の全責任を担う提督に喧嘩を売らないでほしい。
 脳裏に過るのは、練度が高そうな海軍の男たち。あんなものを敵に回すなど、いくら有能な彼女たちと言えども荷が重いのではないか。
「海軍ではよく水が腐り腹下しが横行するようですよ。恐ろしいですね」
 ルシエラの含み笑いにぞっとした。
 やめてください。まさか貴重な飲み水を駄目にするなんてことは……
 言外に重犯罪をほのめかす一等女官にドン引きなのは、メイラと常識人マロニアだけだ。
 出入り口で控える後宮近衛たちまで平然としているから、きっと冗談なのだと思いたい。
「わたくしたちも使う水でしょう? 何事もないことを願うわ」
 やんわりと、犯罪行為は絶対にダメと言い聞かせてみたが、ちゃんと伝わっただろうか。
 巨大軍艦に勤務するあれだけ大勢の男たちの腹が下される事を思うと、ぞっとするどころではなかった。
「……そうですね。御方様はほんとうにお優しい」
 違います。あなたが怖いんです。
 いちいちあの程度の皮肉を気にしていては、後宮どころか市井で生きていく事もできない。
 メイラは若干ひきつった笑みを浮かべ、ルシエラから目を逸らせた。
「お茶が冷めてしまいましたね」
 何事もなかったかのように、紅茶を淹れなおしてくれるシェリーメイ。
 絡まりそうな装飾品を丁寧に箱に納めていくユリ。
 その箱を隣室に続くドアの向こうへ運んでいくのはフランだ。
 彼女たちがまったく普段通りに見えるので、ルシエラの不穏な言葉などきっと気のせいだと流しそうになる。
 にっこりと三日月形に瞳をほころばせている一等女官と再び目が合った。
「……絶対だめです」
 どうしてそこで残念そうな顔をする。や、やっぱりなにかする気だったの!?
 メイラは冷や汗の浮いた額を指で抑えながら、こくこくと首を上下させるマロニアに強い仲間意識を抱いた。
しおりを挟む
感想 94

あなたにおすすめの小説

病弱な幼馴染と婚約者の目の前で私は攫われました。

恋愛
フィオナ・ローレラは、ローレラ伯爵家の長女。 キリアン・ライアット侯爵令息と婚約中。 けれど、夜会ではいつもキリアンは美しく儚げな女性をエスコートし、仲睦まじくダンスを踊っている。キリアンがエスコートしている女性の名はセレニティー・トマンティノ伯爵令嬢。 セレニティーとキリアンとフィオナは幼馴染。 キリアンはセレニティーが好きだったが、セレニティーは病弱で婚約出来ず、キリアンの両親は健康なフィオナを婚約者に選んだ。 『ごめん。セレニティーの身体が心配だから……。』 キリアンはそう言って、夜会ではいつもセレニティーをエスコートしていた。   そんなある日、フィオナはキリアンとセレニティーが濃厚な口づけを交わしているのを目撃してしまう。 ※ゆるふわ設定 ※ご都合主義 ※一話の長さがバラバラになりがち。 ※お人好しヒロインと俺様ヒーローです。 ※感想欄ネタバレ配慮ないのでお気をつけくださいませ。

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

はずれのわたしで、ごめんなさい。

ふまさ
恋愛
 姉のベティは、学園でも有名になるほど綺麗で聡明な当たりのマイヤー伯爵令嬢。妹のアリシアは、ガリで陰気なはずれのマイヤー伯爵令嬢。そう学園のみなが陰であだ名していることは、アリシアも承知していた。傷付きはするが、もう慣れた。いちいち泣いてもいられない。  婚約者のマイクも、アリシアのことを幽霊のようだの暗いだのと陰口をたたいている。マイクは伯爵家の令息だが、家は没落の危機だと聞く。嫁の貰い手がないと家の名に傷がつくという理由で、アリシアの父親は持参金を多めに出すという条件でマイクとの婚約を成立させた。いわば政略結婚だ。  こんなわたしと結婚なんて、気の毒に。と、逆にマイクに同情するアリシア。  そんな諦めにも似たアリシアの日常を壊し、救ってくれたのは──。

婚約破棄まで死んでいます。

豆狸
恋愛
婚約を解消したので生き返ってもいいのでしょうか?

処理中です...