月誓歌

有須

文字の大きさ
上 下
71 / 207
修道女、これはきっと夢だと思う

1

しおりを挟む
 ゆっくり瞼を開ける。
 ぼんやりと瞬きを繰り返し、目の前にある筋肉質の胸板に焦点を合わせる。
 ああ……陛下だ。
 そう思った瞬間、安堵の念が沸き上がってくる。
「おはよう」
 耳元に落ちてくる少し掠れた低音に、すっかり慣れてしまった自分が怖い。
「……おはようございます」
 今日も今日とて陛下は下ばき一枚のほとんど裸だった。いい加減乙女との同衾に気を使ってほしいのだが。
 もちろんそんなことは口に出しては言えないので、ほんのり顔を上気させ視線を泳がせた。
「熱はだいぶ下がったな」
「はい、陛下」
「辛いところはないか?」
「はい」
 メイラのほうはさすがに夜着を着ているが、かなり薄手なので、布越しに陛下の高めの体温がはっきりと伝わってくる。
 腕枕をしていた手が動き、そのままそっと髪を撫でる。
 耳に触れ、頬をたどり。軽く顎を持ち上げられたところできゅっと目を閉じた。
 低く男性的に笑う声がした。
「今朝も愛いな、妃よ」
「……っ」
 軽く唇をついばまれる。
 遠慮もなく舌が潜り込んできて、まったりと咥内をまさぐり、更に深く食もうと角度が変わったところで、ごほんと場違いな咳払いがした。
「……無粋な真似をするな。少しぐらい良いだろう」 
 大きな手が腰を、尻を撫でる。
「なりません。御方様はまだご本復されておりません」
 陛下はともかく、寝起きにエルネスト侍従長の声を聴くのはまだ慣れない。
 その「陛下はともかく」という部分に自分でも突っ込みどころ満載だったが、あえて深く考えないようにした。
 太腿を撫でる手の動きに、ふるふると全身が震える。
 見られている。
 侍従長に、壁際で空気のようになって控えているメイドたちに、護衛の騎士たちに。
 陛下にとって閨事はそういうものなのかもしれないが、市井育ちのメイラには耐えがたい羞恥だった。
 悲鳴を上げて、頭から毛布をかぶってしまいたい。枕をぶつけ、こっちを見ないで! と大声で叫びたい。
 ……もちろん、そんなこと出来るはずもないのだが。
「本日の予定を申し上げます」
 エルネスト侍従長の、淡々と続く口調がありがたかった。その調子で何事もなかったかのようにスルーしてほしい。
 陛下も! 怪しげに手を動かすのはやめて下さい!!
 クックっと笑う喉の動きを睨むと、おそらく真っ赤になっているのだろう頬を撫でられた。
「早く良くなれ」
「……はい、陛下」
 若干不貞腐れた声でそう言うと、更に機嫌が良さそうになるのは何故だろう。
 陛下が大きな掛布をめくると、ひんやりとした空気に身体が震えた。
 メイラのそんなささやかな仕草をも敏感に察知して、空気がもれないようぎゅっと包みなおしてくれる。
「見送りはいいからもう少し寝ていなさい。まだ朝も早い。」
 そう言いながらメイラの髪を撫で、こめかみに口づけをひとつ。
 ベッドの脇に立つその姿は、下ばき一枚、つまりはほぼ裸。どこも隠そうとはしない。少しも恥ずかしがる素振りがないのは、その見事な肉体美を誇示したいからなのか。
 恨みがましくそう思ってしまう程、陛下の身体には不要なぜい肉などみあたらなかった。
 メイラは掛布の下で、やわらかな己の脇腹を摘まんでみた。
 美しいプロポーションとは程遠い体形だ。あばら骨が浮くほどに貧相で、腹はたるんでいる。せめてこのたるんだ肉が胸に回ってくれたらいいのに……。
 エルネスト侍従長にガウンを掛けられた陛下が、最後に一度、メイラの方を振り返る。
 その深い色合いの瞳が好きだ。優しく綻ぶ唇が好きだ。
 陛下の後ろ姿が扉の向こうに消えるのを見送って、ぐいぐいと枕に額をねじ込んだ。
 ……ああそうだ、認めよう。
 メイラはもはや言い訳しようもないほど、陛下を愛してしまっていた。
 あまりにも簡単で、あまりにも単純な恋の落ち方だった。
 確かに陛下は夫だ。しかしメイラは、数いる妻たちの一人にすぎない。
 さして美しいわけでも、可愛らしいわけでも、特出した才能があるわけでもない。ごく平凡な、貴族を名乗るのもおこがましい、育ちの悪い小娘だ。
 今はそばに居てくださるが、いつかは遠くに去ってしまうだろう。メイラより美しい、たとえば第二妃殿下のような方のもとに帰られるのだろう。
 枕に頭をうずめたまま、じわりと瞼が緩むのを許した。
 覚悟をしておかねばならない。決して自分だけの夫にはならないのだと。
「……メルシェイラさま?」
 しばらくそのままじっとしていると、ユリの気づかわし気な声がした。
 これ以上心配をかけたくはないが、顔を上げることはできそうになかった。
「どうされましたか? ご気分でも?」
「少し眠いの」
「さようでございますか。では部屋を暗くしましょう」
 目を閉じると、くらり、と眩暈がした。
 確かにまだ熱がある。あまり食事をとっていないので、体力も落ちている。このまま患ったままでいれば、陛下はずっとお優しく気遣ってくださるだろうか。
 それぐらいしか陛下を引き留めておく手段を思いつけない自分が、たまらなく情けなかった。
 とはいっても、元来健康体なので数日とかからず回復してしまうだろう。無理やり吐かされたせいで喉が少し痛むが、今ある熱もおそらく微熱程度だ。
 回復してしまえば、後宮に戻ることになるのだろう。
 そうすれば、陛下は他の妃のもとへ行ってしまう。簡単には会えなくなる。
 最初から分かっていたことなのに、それは嫌だと心が叫ぶ。
 ずっとそばに居て、ずっとそばで笑っていて。
 わきまえなければいけない立場なのに、浅ましいそんな思いが胸を締め付ける。
 静かにカーテンが引かれる音がした。ベッドの天蓋布まで下げられて、腕で覆った視界の外が薄暗くなる。
 今だけは、ベッドの上の限られた空間にメイラただ一人。誰からの視線も気にすることなく居られる。
 ユリのその気遣いに感謝しながら、涙で枕が湿ってくるに任せた。
しおりを挟む
感想 94

あなたにおすすめの小説

【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

王子殿下の慕う人

夕香里
恋愛
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。 しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──? 「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」 好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。 ※小説家になろうでも投稿してます

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。

五月ふう
恋愛
 リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。 「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」  今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。 「そう……。」  マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。    明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。  リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。 「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」  ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。 「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」 「ちっ……」  ポールは顔をしかめて舌打ちをした。   「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」  ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。 だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。 二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。 「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。

鶯埜 餡
恋愛
 ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。  しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが

(完結)嘘をありがとう

七辻ゆゆ
恋愛
「まあ、なんて図々しいのでしょう」 おっとりとしていたはずの妻は、辛辣に言った。 「要するにあなた、貴族でいるために政略結婚はする。けれど女とは別れられない、ということですのね?」 妻は言う。女と別れなくてもいい、仕事と嘘をついて会いに行ってもいい。けれど。 「必ず私のところに帰ってきて、子どもをつくり、よい夫、よい父として振る舞いなさい。神に嘘をついたのだから、覚悟を決めて、その嘘を突き通しなさいませ」

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

1度だけだ。これ以上、閨をともにするつもりは無いと旦那さまに告げられました。

尾道小町
恋愛
登場人物紹介 ヴィヴィアン・ジュード伯爵令嬢  17歳、長女で爵位はシェーンより低が、ジュード伯爵家には莫大な資産があった。 ドン・ジュード伯爵令息15歳姉であるヴィヴィアンが大好きだ。 シェーン・ロングベルク公爵 25歳 結婚しろと回りは五月蝿いので大富豪、伯爵令嬢と結婚した。 ユリシリーズ・グレープ補佐官23歳 優秀でシェーンに、こき使われている。 コクロイ・ルビーブル伯爵令息18歳 ヴィヴィアンの幼馴染み。 アンジェイ・ドルバン伯爵令息18歳 シェーンの元婚約者。 ルーク・ダルシュール侯爵25歳 嫁の父親が行方不明でシェーン公爵に相談する。 ミランダ・ダルシュール侯爵夫人20歳、父親が行方不明。 ダン・ドリンク侯爵37歳行方不明。 この国のデビット王太子殿下23歳、婚約者ジュリアン・スチール公爵令嬢が居るのにヴィヴィアンの従妹に興味があるようだ。 ジュリアン・スチール公爵令嬢18歳デビット王太子殿下の婚約者。 ヴィヴィアンの従兄弟ヨシアン・スプラット伯爵令息19歳 私と旦那様は婚約前1度お会いしただけで、結婚式は私と旦那様と出席者は無しで式は10分程で終わり今は2人の寝室?のベッドに座っております、旦那様が仰いました。 一度だけだ其れ以上閨を共にするつもりは無いと旦那様に宣言されました。 正直まだ愛情とか、ありませんが旦那様である、この方の言い分は最低ですよね?

【完結】愛も信頼も壊れて消えた

miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」 王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。 無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。 だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。 婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。 私は彼の事が好きだった。 優しい人だと思っていた。 だけど───。 彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。 ※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。

処理中です...