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皇帝、マジ切れする
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長身の近衛騎士が執務室の扉に手を掛けるとほぼ同時に、外側からノックの音がした。
二回、少し間をおいて二回。その几帳面で正確なリズムは聞きなれたものだ。
近衛騎士の茶色の目が伺うようにハロルドを見てきたので、頷き返す。
開かれた扉の向こうに立っていたのは、案の定、エルネストだった。
侍従長は思いのほか近くにいるハロルドを見上げ、次いでさっと視線を室内に巡らせる。
ソファーの脇に立つハーデス公爵とその息子を見て、何かを納得したように唇を引き結び、するりと入室して優美な礼の姿勢を取った。
「宰相閣下を角の部屋にご案内しました」
「……そうか」
「お会いになる前に、ご報告しておいた方がいいと思われることが」
それがハーデス公に聞かれて障りがある内容であれば、そもそも話題にしなかっただろう。
幾分強張って見えるエルネストの表情に、それがメルシェイラに関してだと察した。しかも、あまり良くない話のようだ。
不意に、足元がおぼつかないほどの恐怖を覚えた。強敵と直接対峙しても、優れた技量の暗殺者に寸前の距離まで迫られても、ここまで背筋が震えた経験はなかった。
「……聞こう」
掠れそうになる声を押さえ、ぐっと奥歯を噛み締める。
あってはならない想像に血の気が下がった。症状は安定しているように見えたが、もしかすると命に障る危険な状態なのかもしれない。
……聞きたくなくとも、聞かねばならない事だった。
「毒の種類が判別しました」
一瞬、目を閉じる。
メルシェイラの体調不良ゆえの嘔吐であるという可能性もゼロではなかった。それが完全に否定され、何者かが彼女を害そうとしていたことが確実になったのだ。
「堕胎薬です」
「……なんだと」
「強力な堕胎薬で、一度飲めば子は即座に流れ、大量に出血するので次の子を孕むことが難しくなるものだとか」
カッと目の前が真っ赤に染まった。
敵は、もしかするとその腹に居たかもしれないハロルドの子を狙ったのか。そのせいでメルシェイラの身体に取り返しのつかない後遺症が出るのも構わず。いやむしろ、そうなるように仕向けられたと言ってもいい。
「幸いにも口にされたのはごく少量で、しかも直後に吐き出された為にお身体に影響はないだろうというのが匙殿の見解です。すぐに解毒の術を掛けることができたのも幸運でした。もし毒が効いていれば、ご懐妊しておられなかったとしても出血や紅斑など独特の症状が出るのだそうです」
腸を焼く怒りの感情に噛み締めた奥歯がギリリと鳴った。
「毒見役が見過ごしたのは、殺害を目的としたものではなかったからでしょう。今後はより一層の警戒に努めさせます」
「混入経路は」
喉から零れたのは、地を這う程に低く、唸り声に近かった。
エルネストは一瞬気づかわし気に眉を寄せたものの、そのままの口調で言葉を続ける。
「実行犯を突き止めました」
どこにいる、と問いただそうとして、一見穏やかに見える男の目の奥に熾火のような強い光があるのに気づいた。
「毒を塗布されていたのは桃ではなくフォークでした。持ち込んだのは配膳方の寡婦です。頑なに黙秘を貫いていますが、彼女には三人の子供と病気の親がいます。騎士であった夫亡き後、家庭の経済状況は相当に苦しく、借金も多かったようです」
冷静で落ち着いて見える己の侍従長が、見た事もないほどに激怒している。
それは、すぐにでも実行犯の首を切り落としに行きかねないハロルドに、わずかばかりの理性を取り戻させた。
皇帝の私的な事柄はエルネストの差配下にある。彼の目をかいくぐっての凶行に、思うところがないわけがないのだ
「吐かせろ」
「もちろん。それほどお待たせ致しません」
荒事とは縁遠そうな温和な見てくれをしているが、必要であれば手を汚すこともいとわない。長年ハロルドの侍従長を務めてきたエルネストとは、そういう男だった。
もともとは憲兵の諜報士官だったことを知る者は少ない。しかもいまだに現役で、ハロルドの私的な影者を取りまとめているのは彼なのだ。
「憲兵の第七諜報小隊が面白い情報を拾ってきました。総督府の公的な資金が、薬物生成に熟練した魔女とやらに相当額流れています」
「……メルシェイラを救出したあの連中か」
ふと思い出すのは、小さな彼女を大切そうに懐に抱いていた黒髪の隊長の顔だ。
その男のことは、前々から知っていた。彼は市井に紛れ情報収集をしている憲兵諜報部隊の小隊長で、出自が定かでないことから騎士としての出世は見込めず、影働きに特化してキャリアを積んできた。
その部下たちがメルシェイラの情報を掴んできたからこそ、彼女はハロルドの腕の中に戻ってくることができたのだ。
役に立つ者たちだという事はわかっている。有能で、忠誠心も高い。
しかし、当たり前のようにメルシェイラを抱きしめていた。彼女と同じ黒い髪の……男。
思い出して不愉快な気持ちになり、そんな狭量な己に苛立つ。
「堕胎薬はその魔女の作かもしれません。とはいえ、薬を製作すること自体は罪でも何でもありませんし、口を割らせることは難しいかと思います。もう少し調べさせてください」
「いいだろう。二日だ」
ハロルドは内心の怒りを丹念に腹の中に納めながら言った。
「二日以内に結果を出せ」
「御意」
本心では、疑わしい輩の首は全てはねてしまえば簡単なのだと思っている。むしろ感情の赴くまま、メルシェイラを傷つけた者をことごとく始末してしまいたい。
しかし、いずれそうしてやるにしても、闇雲に動くのは悪手だとわかっていた。
いまだ全貌の把握ができておらず、その真意も憶測することしかできない。
万が一にも敵を見誤り、取りこぼしがあってはならないのだ。
「宜しいでしょうか」
不意に背後から、ジワリと肝が冷えるような声が聞こえた。
存在を忘れていたわけではないが、あえて見ないようにしていた方向に顔を向けると、黒々とした氷のような目がこちらを見ていた。
まるで蛇のように、陰湿かつ粘着質な目の色だった。
二回、少し間をおいて二回。その几帳面で正確なリズムは聞きなれたものだ。
近衛騎士の茶色の目が伺うようにハロルドを見てきたので、頷き返す。
開かれた扉の向こうに立っていたのは、案の定、エルネストだった。
侍従長は思いのほか近くにいるハロルドを見上げ、次いでさっと視線を室内に巡らせる。
ソファーの脇に立つハーデス公爵とその息子を見て、何かを納得したように唇を引き結び、するりと入室して優美な礼の姿勢を取った。
「宰相閣下を角の部屋にご案内しました」
「……そうか」
「お会いになる前に、ご報告しておいた方がいいと思われることが」
それがハーデス公に聞かれて障りがある内容であれば、そもそも話題にしなかっただろう。
幾分強張って見えるエルネストの表情に、それがメルシェイラに関してだと察した。しかも、あまり良くない話のようだ。
不意に、足元がおぼつかないほどの恐怖を覚えた。強敵と直接対峙しても、優れた技量の暗殺者に寸前の距離まで迫られても、ここまで背筋が震えた経験はなかった。
「……聞こう」
掠れそうになる声を押さえ、ぐっと奥歯を噛み締める。
あってはならない想像に血の気が下がった。症状は安定しているように見えたが、もしかすると命に障る危険な状態なのかもしれない。
……聞きたくなくとも、聞かねばならない事だった。
「毒の種類が判別しました」
一瞬、目を閉じる。
メルシェイラの体調不良ゆえの嘔吐であるという可能性もゼロではなかった。それが完全に否定され、何者かが彼女を害そうとしていたことが確実になったのだ。
「堕胎薬です」
「……なんだと」
「強力な堕胎薬で、一度飲めば子は即座に流れ、大量に出血するので次の子を孕むことが難しくなるものだとか」
カッと目の前が真っ赤に染まった。
敵は、もしかするとその腹に居たかもしれないハロルドの子を狙ったのか。そのせいでメルシェイラの身体に取り返しのつかない後遺症が出るのも構わず。いやむしろ、そうなるように仕向けられたと言ってもいい。
「幸いにも口にされたのはごく少量で、しかも直後に吐き出された為にお身体に影響はないだろうというのが匙殿の見解です。すぐに解毒の術を掛けることができたのも幸運でした。もし毒が効いていれば、ご懐妊しておられなかったとしても出血や紅斑など独特の症状が出るのだそうです」
腸を焼く怒りの感情に噛み締めた奥歯がギリリと鳴った。
「毒見役が見過ごしたのは、殺害を目的としたものではなかったからでしょう。今後はより一層の警戒に努めさせます」
「混入経路は」
喉から零れたのは、地を這う程に低く、唸り声に近かった。
エルネストは一瞬気づかわし気に眉を寄せたものの、そのままの口調で言葉を続ける。
「実行犯を突き止めました」
どこにいる、と問いただそうとして、一見穏やかに見える男の目の奥に熾火のような強い光があるのに気づいた。
「毒を塗布されていたのは桃ではなくフォークでした。持ち込んだのは配膳方の寡婦です。頑なに黙秘を貫いていますが、彼女には三人の子供と病気の親がいます。騎士であった夫亡き後、家庭の経済状況は相当に苦しく、借金も多かったようです」
冷静で落ち着いて見える己の侍従長が、見た事もないほどに激怒している。
それは、すぐにでも実行犯の首を切り落としに行きかねないハロルドに、わずかばかりの理性を取り戻させた。
皇帝の私的な事柄はエルネストの差配下にある。彼の目をかいくぐっての凶行に、思うところがないわけがないのだ
「吐かせろ」
「もちろん。それほどお待たせ致しません」
荒事とは縁遠そうな温和な見てくれをしているが、必要であれば手を汚すこともいとわない。長年ハロルドの侍従長を務めてきたエルネストとは、そういう男だった。
もともとは憲兵の諜報士官だったことを知る者は少ない。しかもいまだに現役で、ハロルドの私的な影者を取りまとめているのは彼なのだ。
「憲兵の第七諜報小隊が面白い情報を拾ってきました。総督府の公的な資金が、薬物生成に熟練した魔女とやらに相当額流れています」
「……メルシェイラを救出したあの連中か」
ふと思い出すのは、小さな彼女を大切そうに懐に抱いていた黒髪の隊長の顔だ。
その男のことは、前々から知っていた。彼は市井に紛れ情報収集をしている憲兵諜報部隊の小隊長で、出自が定かでないことから騎士としての出世は見込めず、影働きに特化してキャリアを積んできた。
その部下たちがメルシェイラの情報を掴んできたからこそ、彼女はハロルドの腕の中に戻ってくることができたのだ。
役に立つ者たちだという事はわかっている。有能で、忠誠心も高い。
しかし、当たり前のようにメルシェイラを抱きしめていた。彼女と同じ黒い髪の……男。
思い出して不愉快な気持ちになり、そんな狭量な己に苛立つ。
「堕胎薬はその魔女の作かもしれません。とはいえ、薬を製作すること自体は罪でも何でもありませんし、口を割らせることは難しいかと思います。もう少し調べさせてください」
「いいだろう。二日だ」
ハロルドは内心の怒りを丹念に腹の中に納めながら言った。
「二日以内に結果を出せ」
「御意」
本心では、疑わしい輩の首は全てはねてしまえば簡単なのだと思っている。むしろ感情の赴くまま、メルシェイラを傷つけた者をことごとく始末してしまいたい。
しかし、いずれそうしてやるにしても、闇雲に動くのは悪手だとわかっていた。
いまだ全貌の把握ができておらず、その真意も憶測することしかできない。
万が一にも敵を見誤り、取りこぼしがあってはならないのだ。
「宜しいでしょうか」
不意に背後から、ジワリと肝が冷えるような声が聞こえた。
存在を忘れていたわけではないが、あえて見ないようにしていた方向に顔を向けると、黒々とした氷のような目がこちらを見ていた。
まるで蛇のように、陰湿かつ粘着質な目の色だった。
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