月誓歌

有須

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修道女、にっちもさっちもいかなくなる

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 まだ日も登りきらぬ早朝。
 踝まで覆う長丈のマントを羽織り、フードを深くかぶり。
 メイラは体格の良い女性騎士たちに囲まれて部屋を出た。
 バラ園を抜けて、西の庭園の更に奥、木々が生い繁り昏い影を作っている場所にそれは建っていた。ひっそりと、まるでその場の空気に溶け込むような雰囲気で。
 古い小神殿だと聞いていたので、屋外で祈りをささげるタイプかと思っていたのだが、小さいながらもしっかりとした造りの礼拝堂だった。 
 長らく大々的な修繕はなされていないのだろう。風雪をしのぎ丸みを帯びた石レンガには蔦が這い、屋根には一部雨漏りを簡易的に直したらしい箇所が見てとれる。
 メイラはその小さな神殿の入り口で立ち止まり、年代を感じさせる佇まいをじっと見上げた。
 ダハート一等神官が管理していると聞いたので、あえて近づくのを控えていたのだが、ここ最近の心労は神様に愚痴……いや、告解をせずには晴れそうになかった。
 昨日も白薔薇宮に招かれ、お見舞いの返礼ということで手づから紅茶を淹れて頂くことになった。
 いかにも体調が悪そうな妊婦を立たせ、それを座って見ていることに罪悪感を抱き、結局はメイラが紅茶を淹れたのだが、メイドどもよ、それを当たり前だという目で見ているぐらいなら、最初から皇妃を止めて欲しかった。
 しかも入れた紅茶はメイラがひとり、自分で飲んだ。皇妃は悪阻でご気分が優れず、それでも手には取ろうとしたのだが、得体のしれない女が淹れたものを飲ませるか! という雰囲気で筆頭メイドが取り上げてしまったので結局口もつけず。
 お世辞にもいい雰囲気だとは言えないが、招かれてお断りする身分でもなく……メイラはあの日から連日のように白薔薇宮に招かれている。
 これって第二皇妃派の派閥に入ったと考えていいのだろうか? それにしては皇妃との距離は遠く、腹心のメイドからの敵意が半端ないが。
 メイラだけがお茶を飲みながらの会話は、皇妃の体調のこともあって非常に短い。話している内容も、陛下のことや、生まれてくる子供のこと、産着の刺繍のことなど、要するに女性らしいよもやま話に終始していて、特に気負うものではないのだが……なんだかものすごく胸が塞ぐのだ。
 大きな窓を背にしたミッシェル皇妃の姿は、まるで後光が差しているように美しく、穏やかで優し気な声を聴くだけでも恐れ多い気がしてくる。
 子供のような体形で容姿も平凡なメイラなど、端から比べるまでもない。
 いや、どうして比べようと思ったのか。同列に並ぶどころか、足元にも及ぶまい。
 濃い隈をはりつけていた陛下の顔を思い出す。
 こういう美しい方を妻としているのに、その他大勢の妃をも閨に召さなければならないご苦労がわかるというものだ。
 小神殿を見上げながら、ため息をつく。
 これまでの人生、飲み込み切れないことはすべて神に預け、苦しい事も悲しいことも乗り越えてきた。吐き出すことは生きていく上での救いだった。
 まだ三年という期限の最初の一か月も過ぎていないのに、もはや心くじけそうになっている己を戒めたくて。
 後宮中の警備が厳重な今だからこそ行っても大丈夫かもしれない、と頼んでみたところ、後宮近衛隊の隊長は快く了承してくれたのだ。
 迷惑をかけるようならあきらめるつもりでいたのだが、隊長曰く、たいした労でもないらしい。
 その日メイラは早朝に起き、手持ちの衣装で一番シンプルで装飾が少なく、首元から手首までしっかり覆う美しいレース仕立てのものを選んで身にまとった。
 アクセサリーは、ハーフアップにした黒髪に差した紫色の玉飾りひとつ。
 添えられていた手紙によると、もとは陛下の御生母さまの持ち物であるらしい。普段使いにしてくれとのことで、要するにずっと身に着けていろという勅命なのだとユリたちは言う。
 皇室の紋章はもちろんの事、亡き御生母さまの品だというだけでも恐れ多い。
 しかし勅命だと言われてしまえば従わないわけにもいかず、早速その場で髪に差された。以後ずっと、メイラの髪を飾っている。
 小ぶりなものなので重さはさほど感じない。時には存在すら忘れてしまう程。
 皇室の紋章も、髪に刺してしまえばほとんどわからなくなる。
 しかし時折メイドたちの視線がそちらに向く。そのたびにドクリと心臓が大きく波打って、何か大きな塊でも呑み込んでしまった気がするのだ。
 女性近衛騎士の手により礼拝堂の鍵が開けられ、両開きの扉が左右共に押される。
 彼女たちが内部の安全を確認するのを待ってから、メイラは入り口までの数段を昇った。
 古びた風情ある教会の主聖堂に足を踏み入れると、独特の匂いがした。
 ろうそくと、香木と、古い家屋の匂い。
 祭壇のある部分だけ吹き抜けになっているが、そのほかは天井が低く、木製の長椅子が左右にひとつずつ並ぶだけのコンパクトな作りだった。
 ふと覚えた違和感を、なんと表現すればいいのだろう。
 メイラは長椅子の間を通って祭壇の前まで歩いた。
 歩くと言っても、十歩にも満たない距離だ。
 祈りのための準備は整っていて、あらかじめ小神殿が清められていたのはわかる。
 きょろり、と周囲を見回して首を傾ける。
 改めて見てみると、違和感を覚えたものが何かどころか、そう感じた事すらわからなくなった。
 初めて訪れた場所だからかと頭を振り、祭壇を見上げながら膝を折った。
 育った修道院内にある教会とは違い、祭られた十字架は重厚感のある鋳型造りだった。中央には青く煌めく宝石がはまっている。
 すごい、一体幾らぐらいするのだろう! と瞳を輝かしかけて、宝石では飯は食えないことを思い出す。こんな、祈りに来る人もほとんどないような神殿には不必要なものだ。いやだからこそ、あんなに大きなサイズの宝石を飾ることができるのだろうが。
 ちなみにメイラの教会にもともとあった十字架はそんなに豪華なものではなかったが、もう何十年も前に盗まれてしまったらしい。今あるのは、当時の担当司祭さまが木で作った質素なものだ。
 己にはその位が似合いだと思いながら、修道女としての祈りの言葉を心の中だけで唱える。今は還俗した身なので、神職としての祝詞を声にすることは許されていないのだ。
「……?」
 ふと、見上げた十字架の下の方に陰になっている部分があることに気づいた。
 そういう装飾なのだと言われてしまえばそうかと思ってしまいそうなほどにさり気ない造りだが、膝を折った視線の高さから見ると、奥の方にご神体らしき神像があるのがわかった。
 どこかで見た事のある白い像だった。
 どうしてあんなくぼんだ目立たない場所に祭られているのだろう。
 メイラがいたのは修道院なので、祈りの場は教会だった。ご神体を祭る神殿と、教徒が祈りを捧げたり結婚や葬儀を執り行う教会とは造りが違う。
 違和感の正体はそれかと思い至り、跪かないと見えない位置にある真っ白な神像に向かい胸の前で聖印を刻んだ。
 瞼を伏せて、さて何から愚痴ろうかと神に告げる言葉を探す。
 あまりにもいろいろなことがあり過ぎて、何から話すべきかわからない。
 いまだに続く嫌がらせからだろうか。後宮内の警戒は厳重になっているはずなのに、相も変わらず低俗な嫌がらせは止まない。今のところメイドと女官、近衛騎士隊のところでシャットアウトされているが、こうも延々と続くと気分が滅入ってくる。
 いや、実害はないのでそれはまあいい。
 一番に愚痴るとするならば、メイドのベリンダの態度だろうか。
 もともとミッシェル皇妃以外は誰でも気に入らない気質のようだが、憲兵の件で口をはさんだことで徹底的に嫌われてしまった。
 やりたくてやったことじゃないのに。……もし背中から刺されたらネメシス閣下を怨んでやる。
 あの女官長もいただけない。好きになれないタイプだ。いやこんなことを考えてはいけない、彼女にもきっとどこか愛するべきところはある。父のように神の御手に委ねても真っ白になりそうにない輩と同列にしては気の毒だ。
 そもそも……そうだ、そもそもの原因である父が悪い。
 妖怪じみた外見といい、いかにも底意地の悪そうな顔つきと言い、あれが己の血の半分を作り上げたものだと思いたくない。何よりメイラをこんな状況下に放り込んだ事自体を全力で罵りたい。
 ひとしきり悪口というよりも悪態に近い苦情を申し立て、彼らの心を神様どうか安らかで清らかなものにしてくださいと願ってみる。……無理だろうが。
 ふっと、ままならないこの世への文句ばかり繰り返していた脳裏に、骨を震わせるほどに低い含み笑いが蘇ってきた。
 一瞬、神様に笑われたのかと錯覚するほどリアルだった。
―――ああどうか。
 メイラは込み上げてくるものを飲み込み、ぎゅっと瞼を閉ざした。
 本当は、他人への愚痴以上に祈りたかったことがある。
 神に縋りすべてを預けてしまいたい想いがある。
―――どうか何事にも乱されることのない鋼のような心を下さい。
―――陛下の寵愛を受ける皇妃と、その御腹にいる尊い和子さまをお守りできる強さを下さい。
 抱きしめられた屈強な腕を思い出す。尻に敷いた太腿の感触を思い出す。あの美しいクジャク石のような双眸を、笑うと少し垂れる目じりを。
 大丈夫。まだ大丈夫。
 心の中で蓋をした瓶がカタコトと鳴る。
 それを両手で包み込み、音が漏れ聞こえないように抱き込む。
 メイラは一心に祈った。
 それはいつしか、心の澱を吐き出すものではなく、もっと純粋に希うものになっていた。
 どれぐらいそうやって祈っていただろう。
「熱心にお祈りですね」
 ふっと、耳に届いた穏やかな声に我に返った。
 聞き覚えのあるその声は男性のもので、低音がよく響き温和な印象を抱かせる。
 誰だったかと思い出すより早く、白いシンプルな神官服と紫色のストラが目に入った。
「ダハート一等神官さま」
 狭い屋内にいると、縦も横も大きなかの人は更に巨躯に見える。メイラが立ち上がろうとするのを大きな手を振って制して、にこりと穏やかに微笑んだ。
「神への祈りは尊いものです。お続けください」
 やわらかな声色は心地よく、説法をしたら上手そうだ。
 メイラは己よりはるかに階位の高い神職に向けて丁寧に頭を下げた。
「申し訳ございません。もしかしてわたくしが参拝すると聞いてこんなに早い時間に……」
 神官であろうとも男性なので、後宮内に入ることが許されているのは決められた時間だけのはずだ。いや本音を言えば、彼が来ることができない時間帯を選んだつもりなのだが。
「いいのです。敬虔な神の使途に祝福を」
「ありがとうございます」
 ダハート神官は朗らかに破顔して、祭壇の方へ回った。
 大柄な彼と並び立つほどのスペースはないので、自然とメイラは長椅子のほうまで下がることになる。
 やがて彼は朗々とした声で高位神官にしか許されない祝詞を唱え始めた。
 十字架を見上げるその背中はとても大きく、日頃枯れ枝のようにシワシワな司祭としか付き合いがないメイラの目には、ひどく眩く頼もしく見えた。
 そういえば、この方は陛下の従兄なのだと聞いた。
 顔立ちはあまり似ていないが、声質には近いものがあるのかもしれない。
 長椅子の脇に両膝をついて、目を閉じる。
 少し意地悪い表情で笑う、陛下の顔を思い浮かべながら。
 だから知らないのだ。
 ダハート神官の目が神の愛とは大きくかけ離れた冷ややかさでメイラを見ていたことを。
 閉ざされた扉の向こうで、女性近衛たちが何者かの襲撃を受けていたことを。
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