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最終章 また春が来る

最終章・また春が来る(30)

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5年の間、子供ができなかった博史と聡の間には、いまや否が応でも倦怠が漂っていた。

博史は自分に原因があるのかとひそかに検査にも行っていた。

しかし、悪いところは見つからなかった。

世間的には、二人の間にはたしかに陽がいるのだから、二人の身体に欠陥があるなどとは思われていない。

しかし、このところ聡は、博史のいらだちをことあるごとに感じていた。

幸い……陽にはそれを出さないでくれるのがせめてもの救いだったが、それは同時に博史に対する申し訳なさにつながる。

家庭がどこか張り詰めていた分、聡には仕事と、それからロマーヌとのおしゃべりが救いになっていた。

そんな矢先だったから、新たな妊娠に聡は心の底からほっとした。

もちろん博史の喜びはひとしおだった。

聡の健康を第一に考えた博史は、まだ出産には間があるにも関わらず、学年末の6月で学校を辞めるよう言い渡した。

博史自身も、大学の研究を6月で終了することにし、はりきって就職を探しだした。

「だって、子供ができるんだろ。稼がないと」

そういって

「陽は弟と妹とどっちがいい?」

と陽に頬ずりする博史は明らかに高揚していた。

聡はひさしぶりに明るくなった家庭に喜びつつも、将との絆がいちだんと薄れゆくのを感じていた。

その将は。

大学を卒業するとほぼ同時に、司法試験に受かり、世間の注目を浴びていた。

しかし、弁護士や判事になるわけでもなく、仕事を選びながら芸能活動を続けるらしい――すべてネットで得た情報だ。

元総理の子息で芸能人である将の情報は、地球の裏側に近い場所にいても、こうやって知ることができる。

聡はしばしばこっそり将の消息をネットで調べては、その検索履歴を念入りに削除していた。

博史に知られないためでもあるけれど。

――もう、これが最後。

履歴を削除しながらいつも、聡はそう思う。

だけど、時間をおくと決意が薄れ……、再びその近況が気になってしまう。

ちゃんと、自分の道を歩いているのか。幸せなのか。

聡の中にはあいかわらず――将が住んでいた。

その将が……もしかしたら聡の妊娠を阻んでいるのではないか。

妊娠できないで悩んでいた頃、聡の心の中にはいつも後ろめたさがあった。

それでも。

聡は博史に対して申し訳ないと思いつつ、将の行方を知りたい欲求に抗えずにいたのだ――。

 
 

博史は7月より日系の企業に就職し、東海岸のボストンから西部のサンノゼへ移ることになった。

「しばらく一人で大丈夫。お腹の子が心配だから、引っ越しは安定期に入ってからにしろよ」

と聡の体を気遣った博史は、まず単身赴任する形をとった。

8月になって、博史の仕事もお腹の胎児も安定してから引っ越す心づもりだった。

やがて7月になり、陽の面倒をみてくれたロマーヌは2年間の留学を終え、フランスに帰って行った。

聡も学校を辞めたのであまり支障はなかったが、将とのつながりが、またひとつ離れていくことに聡はさみしさを覚えた。

妊娠してから、将の夢を見ていない。

せめて夢の中だけでも逢いたいのに。

夫の留守の今、仮に寝言で将の名前を呼んだとしても誰も聡を責めはしない……。

そんなことを思いついては、聡は自分を恥じる。

いつまで。いい加減に。

聡自身を諌める理性は確かにある。だけどだめなのだ。

聡は、夫のいない家で、検索してしまう。

画面の中には、24歳になった将が映しだされる。

何かの賞を受賞したのだろうか、スーツを着た将の微笑みは、以前聡に向けられたものとまるで違っていた。

……将は大人になった。

記事を読むと、傍らに立っている共演女優と噂になっているらしい。

垢ぬけて、聡明そうなひと。

そうだ。

将にとっては、もう自分のことなど、とうに過去になっているだろう。

それこそ聡が望んだ本望なのだから。

なのに。

聡は、陽にも内緒で涙をこぼしてしまうのだ……。

美しい共演女優に嫉妬しているわけではない。

将との距離が、少しずつ離れていくことに……納得はしているはずなのに、心は何年たっても聡に涙を流させるのだ。

 
 

サンノゼへの引っ越しを控えたある夜、聡はひさしぶりに将の夢を見た。

ああ、将の夢だ。

聡には、これが現実ではないと、すぐにわかった。

夢だとわかっていて、夢にずぶずぶと浸っていく。

こんな感覚は久しぶりだ。

ネットの、画面の中の将ではない。

17才の将。

聡がその体温までよく覚えている将。

彼は、聡をいとおしげに抱きしめた。

二人は抱き合ったまま、いつのまにか吹雪の中にいた。

あの、ニセコ山頂。

抱き合ったままの二人を、吹雪が縛り上げる。

今は夏のはず。どうして吹雪が。

夢の中で聡はふと疑問に思う。

そのとたん、胸が苦しくなる。

『将?』

いつのまにか将は消えていた。

聡を締め付けているのは、得体のしれない何かだった。

まっ白な吹雪の中、聡はまったく温かくない何かに締めあげられている。

体中が縛り上げられたように痺れていく……。

聡は目をあけようともがいた。

これは夢だ。目をあければ終わる。

だが。

目をあけても、あけてもそこはまっ白な吹雪。

覚めない悪夢が次々と幕を開けるように展開する。

聡はそこから逃げるよう、必死で瞼をこじ開け続ける。

何度繰り返しただろうか。

「おかあさん」

陽の声。

悪夢から聡を救いあげる、いとおしい娘の声。

やっと目を覚ました聡は、体中に汗をかいていた。

「おかあさん」

起き上った陽が心配そうに聡をのぞきこんでいる。

博史が留守の間、聡は陽と一緒に眠っていたのだ。

「大丈夫?」

「……大丈夫よ」

娘の額をなでてやろうとした聡だったが、まだ手がこきざみに震えているのに気付く。

汗をかいているのに……体がやたらに寒い。

もう朝だ。

起きなくては。

暖かい夏の朝のはずなのに、寒気がとまらない。

体を起こそうとした聡は、お腹に重い違和感をおぼえた。

ベッドの上に上半身を起したとたん、腹部の重みははっきりとした痛みに変わった。

と。

……何かが流れる感覚。

――あ。だめ!

聡は、急いでタクシーを呼び、病院に駆け込んだ。

だが……遅かった。

子供は流れてしまった。
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