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最終章 また春が来る

最終章・また春が来る(16)

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「お母さん。鷹枝総理よ」

陽にうながされて、聡が顔をあげた。

最初、とまどっていたような瞳が、何かを覚悟したように力が入るのがわかった。

覚悟に光る黒い瞳が、あらためて将に向けられる。

「ご挨拶が……遅れました。総理就任おめでとうございます」

聡は『恩師』として、ごく自然に頭を下げた。

深々とこうべを垂れたうなじのあたりが……若い頃よりいっそう細くなっている。

それに気をとられそうになりながらも、

「ありがとうございます。先生も、お元気そうで」

三島たちの手前『教え子』としての態度を、将はなんとか保つことができた。

演説する時よりも、緊張しているのが、自分でもわかる。

「お席のご用意ができています。さあ、どうぞ」

給仕長がにこやかに個室のダイニングへと案内する。

「陽……。あなたにとって大事な人って……」

そのすきに、聡もまた陽に小声で問いかけた。

「私にとっても大事な人でしょう?」

振り返った陽は、微笑みを母に向けた。

その微笑みは、優しげだけれど絶対的で……聡は娘に向かって何もいえなくなった。

 
 

ダイニングテーブルをはさんで、二人は無言だった。

陽は、二人が席に着くのを見届けると、仕事があるからと立ち去ってしまった。

ドアを隔てた待合室には、秘書の三島やSPも控えているが、このダイニングには将と聡だけである。

聡は病み上がり、将もまだこれから公務があるということで、グラスに注がれたのはペリエである。

それでも将は

「せっかくですから、乾杯しましょうか。先生」

と目をあげた。

「ええ」

それでようやく聡も、儀礼的ではあるけれど……小さく微笑んだ。

「先生のご快復に」

「鷹枝くんの総理就任に」

二人はグラスを掲げた。

ダイニングのテーブルは、一流レストランの最高の部屋だけあって大きく……18の誕生日のときのように、シャンパンフルートがかろやかな音を鳴らすこともない。

もしも――向かい合う二人が昔のような関係だとしてもテーブルの上で互いに手を取り合うこともできないだろう。

そんな物理的な距離よりも、二人を隔てているのはそれぞれの25年という歳月である。

それでも、万感の思いを抱えているのは二人とも同じだった。

長いこと隔てられていたひとが、今、目の前にいるのだから……。

 

「前菜の、フォアグラと柔らかく煮た蕪のミルフィーユでございます」

給仕長自ら、前菜を運んできた。

フォアグラには春らしく菜の花があしらってある。

「……あのときを思い出しますね」

二人を隔てる、薄い膜のような沈黙。それを破るべく、将は努めて明るい声を出してみる。

初秋の海でびしょぬれになるまで遊んだあと、二人がはじめて、ここにやってきたとき。

塩でバリバリに固まったみっともない二人にもかかわらず、デギュスタシオンでオーダーした。

その前菜の1つが、フォアグラと柔らかく煮た大根をあわせたものだった。

『あのとき』という単語に、将は祈るように思いを込める。

目の前にいるひとが、それを覚えていれば……と。

覚えていたからといって、どうなるというわけでもない。

それはわかっているけれど……将は、何かの願いを込めるように聡の答えを待った。

「ええ」

聡はカトラリーを手にしたまま、皿の上に伏せていた視線を、いったん将の顔にあげた。

その視線は将のそれにからめとられて、動けなくなる。

「……よく覚えているわ。あのときは、大根だった」

やっぱり、聡は覚えていた。

ワインを飲んだわけでもないのに、将は胸の奥が熱くなった。

同時に、せつなさがこみあげてくる。

26年、いやあれは17才のときだから27年前にもなる。

長い年月を経ても……そんな些細なメニューですら覚えている。お互いに。

なのに、どうして――。

二人はここまで隔たってしまったのだろうか。

もう、戻れないことはわかっているのに。

ふいに将は、25年前、自分を捨てた聡に取りすがりたい衝動にかられた。

お互いにかけがえのない存在だったのに。

どうして、捨てることができたのか。

思いは、どんどん記憶の深みへと降りていくのに、総理としての将は、如才なく話を取り繕っている。

――「兵藤くんの店に、陽さんと一緒に、いったそうですね。とても喜んでました」

――「井口に孫ができるのをご存知ですか?」

二人の『関係』に触らないように、さも懐かしげに交わす思い出話。

そんなものを交わしながら、将の中でもどかしさがつのる。

こんなことを話したいわけではない。

――自分の25年を伝えたい。そして聡の25年を知りたい。

少し逡巡したのち、やはり将は、思いきることにした。

このまま、表面だけの挨拶を交わし合って別れてしまうことは、できない。だから。

「陽さんから、お話をうかがったときはびっくりしました」

将はさりげなく、話題を核心に近づけてみた。

聡は、黒目がちの瞳に微笑みを浮かべたまま、『お話』が何を指すのか慎重に考えているようだ。

聡が答えられないのは無理はない。

そういった将も……漠然といろいろなことを指していたからだ。

食事の席で、聡の病気の話をするのはあまりに不調法というものだし、かといって陽が自分たちの娘だった、という話も……総理としての態度を崩すきっかけをつかめない将としては、唐突すぎる気がする。

「陽さんは……4月生まれなんですね」

25年前の――本題に近い時点の話を取り出す。将の真意を感じたのか、聡の瞳が再び見開かれた。

「先日、テレビの収録でお会いした際に、プロフィールを拝見したんです。……確か、予定日は5月でしたよね」

将だから知っている、本来の陽の誕生日。

聡はカトラリーを置いた。そっとため息をついたのが、胸元の動きでわかる。

「……1ヶ月、早産したんです」

低い声でゆっくりと話す声は、少し苦しげだった。

「その陽さんの、誕生日に」

聡の言葉の後に、将はすかさず続ける。

「僕は、ようやく目覚めたんです……意識不明の状態から。……目覚めるまで僕は、知らなかった」

聡の瞳はせつなげに見開かれている。

将はそれに訴えかけるように続ける。

「まさか、あなたが僕を捨てていたなんて」
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