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最終章 また春が来る
最終章・また春が来る(13)
しおりを挟む「ね、お義母さまに聞いたんだけど」
できるだけ何気ない様子を装う小道具として、香奈は食後のほうじ茶を入れる。
将がお代りした雑炊も、もはや終わりがけになっていた。
「あなたが高校時代にお世話になった先生が、ご病気なんですってね」
何気なさを装いながら……まばたきをする間も逃すまいと、香奈は将を観察していた。
香奈からそれを聞くことはないと思っていたのだろう、将は驚いて目を見開いた。
それは一瞬だったけれど、将の見開いた瞳にさまざまな色が浮かぶのを、香奈は見逃さなかった。
「ああ」
箸を置きながら将は短く返事を返した。お椀の中に目を落としたのでその表情は見えづらくなっていた。
「お見舞いに……行かなくてもいいの?」
怖いとわかっているのに、足を踏み入れてしまうような感覚。
それでも香奈はつい踏み込んでしまう。
もし、本当に会いにいったらどうするのだ。
忘れられなかった人に会って……将はどうするのだろう。
将はたぶん、彼女に会わないだろう――あのとき、純代はそう言った。
その上でこんなふうに付け加えた。
『だけど……だけどね。もし会うとわかっても、見ないふりをしてあげてほしいの。……乱暴なお願いだと思う、だけどどうかお願い』
……そういって純代は香奈に頭を下げた。
25年前に無理やり断ち切られた(であろう)恋。忘れられないひと。
そして、自分と二人の息子との……温かい家庭。築き上げてきた14年間。
いまの夫がどっちを取るかなんて、明白じゃないか。
香奈は自分に言い聞かせる。
言い聞かせないと冷静でいられないほど心が揺れているのも、すでに自覚している。
「……別に、入院しているわけじゃないからね」
将は立ち上がると食べ終わったお椀と箸を流しに運んだ。
「お元気なうちにお会いしておかなくていいの?」
暗に余命宣告のことも知っていると言葉に含ませながら、香奈は自分がわからなかった。
どうして、追い打ちをかけてしまうのか。
会わないなら会わないで……家庭に波風が立つ可能性がなくなるだけだ。
なのに、何故。
なぜ自分は……将をかつての彼女と再会させようとしているのか。
「どうしようもなく悪かったあなたを立ち直らせた先生なんでしょ」
わからないままに香奈は将の背中になおも浴びせる。
あるいは、その背中を試しているのだ、と香奈は思う。
自分たちの絆を。築き上げてきたものを。
恐れながら……香奈は確かめたくて仕方がなかったのだ。
今わかる。
過去と現在(いま)と。将と香奈が築いた現在が盤石であることを確かめたくて。
裏を返せば、不安が潜んでいたのだ。
引きちぎられた愛が戻ってきたとしたら、彼はどうするのだろう――。
振り返った将の瞳は、静かだった。
さっきのように動揺はしていない。
「お会いしなくてはと思うけれど、忙しいからね」
極めて落ち着いた声で、そつのない答えが返ってきた。
「3月の首脳会議までスケジュールはぎっしりだよ。……風呂に入る」
張り詰めていたものが一気にほどけて――将がバスルームに消えるなり香奈は座り込んだ。
再び書斎に戻った香奈だが、仕事は一向に進まなかった。
かといって。
仕事を放棄して横になったとしても眠れそうにない。
香奈は何十回目かのため息をついた。
安堵すべき答えが返ってきたのに、心の中では違和感が刺さっていた。
――あれは、夫の本心ではない。
あるいは、将本人は本当にそう思っているかもしれないが――香奈にはわかっている。
彼女を忘れたわけなどでは、決してない。
簡単に忘れてしまえるような人だったら、香奈は将を愛さなかった、と思う。
将はきっと、心の柔らかい部分――彼女にまつわる部分に意図的に血を通わさないようにして自分を守ってきたのだ。
そうやって――いち社会人としての体面を保ってきたに違いない。
最も愛する人への思慕ごと、心の一部を殺してしまうことで、将は政治家としての使命に邁進してきたのだ。
そんな風に考えないと、若い将と今の夫を結びつけることはできなくて、香奈は悩んだ。
一方で、悩む必要もないという声も、こだましている。
なぜなら、将は総理に登りつめることで敬愛する曾祖父の意志を継いでいる。
さらに二人の子の父親として温かい家庭を持っている。
将は傍目に見れば十分に幸せなのだ。
このまま、黙っていれば……幸せは揺らぐことなく続くだろう。
将の妻としてはその声を支持するべきなのに。心の違和感はどんどん大きくなる。
違和感だけでなくそれは痛みを伴ってきた。
それでいいのだろうか。
夫は……将は、心の一部を殺したまま生きていいのだろうか。
それで幸せといえるだろうか。
香奈は目をつむった。
あの夕陽の中の将は、香奈の瞼の裏に完全に貼りついてしまっていた。
――いなくなったら死んでしまうほど好き。
おそらく。
その言葉通り彼女とひきさかれて、将の心は死んでしまったのだ。
その相手が今度は、この世を去ろうとしている。
この世とあの世に引き裂かれて――将の心は一生死んだままになるのだろうか。
一瞬、たった一人で闇に対峙する、将のさみしい背中が見えた気がした。
その横顔は能面のように青白くて……香奈は震えた。
香奈はかつて……冗談めかして誓った。将との結婚式の直前に。
『お兄ちゃんは、私が幸せにしてあげるからね』
『それ、普通は俺がいうセリフだろ』
ウェディングドレスを着た晴れがましさと、それを将に初めて見せた照れ臭さから。
冗談で装いながらそれは香奈の本心だった。
思えば、あの頃から香奈は気づいていたに違いない。
将が本当は――心の底では、幸せではないことを。
幸せでないことがわかっていたから、少しでも慰めたかった。笑ってほしかった。
将を愛していたから。
香奈は、少女のころからずっと将だけを見つめていた。
仲のいい従妹として、明るくふるまいながらも……心のどこかに穴があいたような将を心配していた。
見合いの話が来た時は、天にも昇る心地だった。
これで、将を……誰よりも近くで支えられる。
香奈は政略結婚を持ってきた祖父に心の中で感謝したものだ。
もちろん、今も愛している。
若い恋人たちのように愛の言葉を囁いたり、抱き合ったりはしなくても。
将には、心から幸せになってほしい。
生きた心で……。
今がもし、幸せなら。どこかが死んだ状態ではなくて、生きた状態で感じてほしい。
将はあの彼女に会うべきだ。
答えははっきりとしている。
彼女に会って。断ち切られた終わりを確認すべきなのだ。
二人の間に横たわる、別々の時間を見つめれば……きっと止まっていた時間は流れ出す。
死んでいた部分に血が通い出すかもしれない。
だけど、香奈は悩む。
止まっていた時間が流れ出したなら。
将はもしかして、すべてを捨ててしまわないだろうか。
すべてを捨てて彼女の元に走ってしまわないだろうか……。
――ばかな。
香奈は冷静になろうと努める。
自分はともかく……将が二人の子供を捨てるはずがない。
次男が生後半年で亡くなったときも、誰よりも嘆き悲しんだのは将だった――。
それに。
香奈は女としての私情を押し殺して、考えを進める。
このまま、彼女に会わないままに、彼女が死ねば、将はきっと後悔するだろう。
将の幸せを願うということは。
それは、悔いのない人生を送ってほしいということではないのか。
一睡もできなかった香奈だが、早朝のうちに秘書の三島に電話をかけた。
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