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最終章 また春が来る

最終章・また春が来る(12)

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――そうだ。この笑い方。

香奈のノートパソコンの中では、将が昔に出演したドラマの映像が再生されていた。

パソコンの中の将は、大きな口をあけてゲラゲラと笑い転げている。

または歯をむき出しにしてニィっといたずら気に微笑み。

そうかと思うと、はにかんでくしゃっと顔を崩す。

香奈はノートパソコンの画面に見入った。

仕事の、ゲラチェックなど今はどうでもいい。それより確かめたいことがあった。

北海道の自然の中でのびのびと呼吸する18才の若い将。

くったくのないさまざまな笑顔と、救いようのない陰を感じさせる寂しげな瞳。

このドラマで将は、単なるイケメンというだけではない、将そのものの魅力を世間にあますことなく見せつけたものだった。

しかしこのドラマの直後に刺されて重体に陥り、1年後にどうにか復帰したものの、以前のような輝きは、もはや見られることはなかった。

香奈は、映像をリピートした。

少女のころから繰り返し見ている映像だから、将がいずれの場面でどんな表情をしているか、手に取るようにわかる。

その、将の笑顔に香奈は注視した。

そしてその笑い方があきらかに変わっていることに、いま、香奈は気付いた。

今の将の笑い方を思い浮かべようとしたとき、階下に将が帰宅した気配があった。

香奈は反射的に立ち上がると階段を降りる。

その途中でリビングに入ってきた将と目が合う。

反射的に出るはずの言葉が喉につかえて声がでない。

「ただいま」

「……おかえりなさい」

将の声にようやく、応じながら……心の中ではその笑顔を比べている。

そうだ。香奈が見慣れた将の笑顔はこの顔だ。

よく言えば、静かで穏やかな微笑み。

よく言えば? では悪く見るならどういう微笑みなのだろうか。

「……何か食べる? 海の受験が終わったご褒美に、今日はさっそくチーズフォンデュにしたのよ」

香奈は少し怖くなって、その先を考えるのをやめた。

「チーズフォンデュか……。そっちは?」

将はレンジにかかっている土鍋に目をとめた。

「こっちはお義母さんのための雑炊」

「じゃ、雑炊をもらうよ。で、お義母さんの具合は?」

「熱は下がったから、たぶん大丈夫」

そんなふうに何気ない会話を交わしながら、香奈は気づいている。

笑いの強弱はあるにしても、今の将の笑顔は……あの、18才の将とはまったく異なる笑顔であるということを。

「これ、香奈が作ったの?」

「そうよ。いちおうお義母さんが好きな炙ったアゴ(※トビウオ)でダシを取ったの」

「うまい。本当にうまいよ、サイコー」

目を細めて熱い雑炊をすする夫。

この笑顔は嘘の――いくらなんでも作った笑顔ではないだろう。

だけど、あのドラマの中の笑顔とは違う。

なんで違うんだろう。

香奈はダイニングテーブルに頬杖をついて将を観察しながら考える。

「もしかして、仕事の邪魔しちゃった?」

「ううん、いいのよ。飽きてきたところだから」

総理なのに、妻の仕事を気遣う優しい夫。

思えば将はずっと優しかった。

友達から聞く夫の愚痴のような――たとえば

『家事を何1つ手伝わない』とか

『疲れているのか、ムッツリと黙り込んでいる』とか

『仕事の愚痴ばかり聞かされる』とか。

将にはそのようなことが何1つなかった。

子育てや研究に忙しかった香奈には都合がよすぎたせいで、気づかなかったけれど。

今になってその違和感が香奈の足元を揺らがせる。

将は、本当の姿を……香奈に見せていないのではないだろうか。

「ねえ、あなた」

香奈は将に問いかけてみる。

「ん?」

将は土鍋に向き合ったまま目だけをあげてみせる。

よほど雑炊の味が気に入ったんだろうか。そのユーモラスな表情に、揺らいだ足元が少しだけ安定して香奈は小さく微笑んだ。

「つらいこととか、嫌なことがあったら、何でも言ってね」

「何だ、急に」

将は顔をあげて笑って見せた。だけど、あの18の時の笑顔ではない。

「急にってわけじゃないけど。ほら、あなた、仕事の愚痴とか何にも言わないじゃない? 我慢してるんじゃないかと思って」

香奈は自分の言葉にハッとした。

将は我慢、つまり何かにずっと耐えてきたのだ。

その何か、の重大な1つが、おそらく……。

「愚痴かぁ……。仕事上のことは、仕事で納得するしかないからね」

将はあいかわらず、香奈の見慣れた笑顔で答えた。

穏やかな、大人の笑顔。

「でもさ、吐き出すだけでスッとするって言うじゃない?」

「俺の場合は、吐き出してもあんまり変わらないからなあ……。ていうより、吐き出すようなことはないよ」

そういうと将は、自分で立ちあがってお代りをよそいはじめた。

実はかなり空腹だったらしい。

いつもどおり、普段は気にならなかった動作だが、香奈は少し不満に思う。

もっと、甘えてくれてもいいのに。

決して甘えない夫。自分にいつも厳しく、子供たちにも理想的な態度の……。

香奈はふと思う。

将は、理想的な夫を、そして理想的な為政者を、ずっと演じてきたのではないだろうか。

何か隠したいことがあるとか、そういう悪意のためではないことはわかる。

だけど、目の前にいる将は、もうずっと前から本当の将ではないのでは、と香奈の疑念は大きくなっていく。

『いなくなったら、死んでしまうくらい好き』

あのときの、若い将の瞳が香奈の中にフラッシュバックする。

詳しい事情はわからないが、あのときの彼女と将は別れた。

だけど、将は彼女を忘れることはなかった。

そのさみしさを耐えてきたんだろうか。

いや。

彼女を失って。

将は、将の心は死んでしまったのかもしれない。
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