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第21章 卒業
第361話 卒業(8)
しおりを挟むみな子を乗せた新幹線がいってしまった。
将は、軽くため息をつくと、今一度、ホームの上に見えている青空の切れ端に目をやった。
昼下がりのそれは春霞に少し白んで見えるようだったがかえって眩しいようだ。
将はホームを階段に向かって歩きながら、自分の心に新しくあいた穴の感触を確かめている。
その穴は、自分が思っていたよりずっと大きかったことに将は驚きながらも、みな子との日々を振り返る。
思えば、聡のカモフラージュ役を引き受けてくれたみな子は……、大悟を失った将にとって貴重な『友人』だった。
――友人か。
友人ってなんだろう。
井口やカイトは……一般的に友人といえるやつらだろうけど、離れ離れになってもこんな風に心に穴はあかないと思う。
離れても、失ったわけではないと思うから。
そう。将は、みな子を失ったのだ、ということに気付いた。
なぜなら今まで、こんな風に心の一部が抜け落ちたような経験があったとすれば。
ある日突然、死んでしまった瑞樹。
病院に無理やり連れて行かれた大悟。
100年の人生をひっそりと終わらせたヒージー。
……皆、将に予期する暇も与えずに、手の届かないところにいってしまったひとばかりが思い浮かぶ。
みな子も……おそらく、将の手が届かないところに去ってしまったのだ。
帰りは、久しぶりに山手線に乗ってみることにした。
真昼間だというのに、山手線のホームは雑踏のようなのは、将が芸能人になってここから遠ざかっていた間もかわらないらしい。
入れ替わり立ち代りに列車から人が吐き出され、乗り込んでいく。
すれ違う人が……無視するようなそぶりを見せながら、将に注目していることがわかる。
電車に乗りこんだ将は、人々の注目を、耳からこめかみの皮膚に感じつつも……ドアに寄りかかって窓の外をぼんやりと眺める。
工場と住宅と市街地が入り混じったカオスな風景は、春の陽射しの中にやや霞んでいる。
その下で活動しているたくさんの人々の熱気が放射されたように空もろとも白っ茶けている。
こんなにたくさんの人が生きている中で。
ほんの少しでも、将の寂しさを埋め、心に温かさを与えてくれた人々。
それが……一人ずつ手の届かないところにいってしまうことが、今の将は寂しい。
そんな、人と人との邂逅をいとおしむ自分に、将は少し驚いている。
昔……2年ほど前まで。……人は、人付き合いは。あぶくのようにその場で発生し、消費するものだった。
夜な夜な遊びにいって……その場の楽しさだけを共有する。
一夜明ければ、顔も名前も覚えていない「トモダチ」の多く。
互いに抱えるどうしようもない問題と、虚しく過ぎてゆく時間をなかったことにできれば上々。
そんな自己都合の……うたかたのような「トモダチ」、「カノジョ」を消費していく毎日。
それを大転換させたのは。
『先生が、一番大事なんでしょ……』
みな子の声が蘇る。
みな子の言ったとおり、聡そのひとだ。
聡だけは、離れられない。絶対に。
将は、カーブした列車に遠慮なく降り注ぐ春の陽射しに思わず目を細める。
もしも……聡がいなくなったら、心に穴があくどころではない。
自分の存在意義さえ、見つけられなくなってしまうだろう。
聡がいなければ、生きられない……。
それを思い出した将は心の中で聡に詫びていた。
みな子への思いやりとはいえ、『聡がいなかったら』なんて口に出してしまったことを。
聡がいない、という仮定は、今の将にはありえないのに。
聡がいなくなったら――。
来週、月曜には前期試験の発表がある。
もし不合格だったら、同じ週の週末に後期試験が行われる。……それももしダメだったら。
将は一瞬よぎった暗い考えを、無理やりどこかへ押しやる。
――全力は尽くしたのだ。
――きっと大丈夫。自分は合格して、聡と二人で幸せになることができる。
将はカオスの街に降り注ぐ陽だまりに聡を思い描いた。そして、信じるしかない。
聡がいるこの現実の世界が、このままずっと続くことを……。
聡の中で、時は、止まっていた。
呼吸をするのも忘れ、血流すらも止まってしまったよう。
あるいは、この瞬間がいつか来ることを、聡はずっと前から知っていた気がする。
康三と対面したときには、はっきりと予想していた。
いや……将の子供をみごもったときから、予期していた。
もっと前……将に惹かれ出した頃から、かすかに予感していたのかもしれない。
「ひどいことを言っているのは、百も承知です。……本当にすまない。いや、……すみません」
将と別れてくれ。
聡に懇願する康三の苦しげな瞳に、罪悪感と……聡へのいたわりがよぎっていくのを見て聡は自分が涙を流していることに気付いた。
「ですが……あれの、将来のためを思ってのことなんです」
康三は苦しい表情のまま、さらに訴える。
「担任の先生を……卒業前に妊娠させた、という事実を……世間が許すはずはない」
聡は……本当はずっとわかっていた。
将の未来にとって自分の存在こそが暗雲になりえることを。
わかっていながら……薄氷を踏んでいる自覚がありながら……ここまで来てしまった。
あまりに強すぎる将の愛情に、目くらましをかけられたように。
その目くらましは、とてつもなく幸せな日々を聡にもたらしたのだけれど。
「本来なら……こんな風にお願いするのは、半年前にすべきだった。はんぱな親心から、あれの我がままを受け入れてしまい……、その結果、あなたにこうしてひどいことをお願いする羽目になってしまいました。本当に申し訳ない」
康三はさらに苦しげ眉をゆがめると、再度頭を下げた。
ぐるり、とおなかの中で「ひなた」が動いた。
自分は本来消される命だった――そんなことを感じ取った「ひなた」が聡のお腹にしがみついたのかもしれなかった。
そう……育ち始めた「ひなた」をお腹に感じるようになってからは。
母性のおもむくままに、この子を殺すことなど考えられなくなっていた。
聡は涙で濡れた下瞼を指先でなでるようにぬぐった。
涙を止めなくては。涙があると、どうしても感情に飲み込まれてしまうから。
「将は……」
聡は顔をあげてこうべを垂れたままの康三に向かって声を発する。
「いえ、鷹枝くんは……納得するでしょうか……」
きっと将は、納得しない。
口先で、いくら別れてほしいなどといっても、将は笑って……きっと信じない。
あなたの未来の邪魔になる、と身をひこうとしたら、そのまま抱きしめてくるだろう。
「わかっています……」
康三はやっと顔をあげた。
「あれの……将の、あなたへの強い気持ちは、よくわかっています……」
さっきまでのように、眉をゆがめてはいないものの、その瞳はせつなく光って聡の姿を映し出していた。将によく似ている目の形。
康三は視線を一瞬クロスに落として、深く息を吐いた。
「だから」
そして意を決したように視線を再浮上させ、それを聡の瞳に集める。
「あなたが、将を捨ててください」
康三の声は、わずかに震えていた。
「将を捨てて……、姿を消してください。お願いします」
康三は言い切ると、三たび、頭を下げた。
聡はそんな康三をせつなく見つめた。
――わかってない。
将はきっと……聡の別れの言葉など一笑に付すだろう。
置手紙をして姿を消したとしても、どこまでも自分を探すだろう。地の果てまでも。
目の中には窓の形に切り取られたような春の陽射しが映っているのに、聡はそこに猛吹雪を投影させていた。
あの北海道・ニセコアンヌプリ頂上の……不透明なまでの白い嵐を逃れての真っ暗な避難所の夜。
『もしも聡がいなくなったらどうする』という問いに、将は即答した。
『探す。世界の果てから新聞の陰まで。俺……アキラが小さくなっても絶対に見つけ出してやるよ』
ほんの、寒さと飢えしのぎの……たわむれのような言葉なのに、どうして今、こんなに沁みるのだろう。
そして、将にまつわることを思い出すとき……こんなときなのにもかかわらず……聡はしびれるような歓びに指先からひたされていく。
このうえなく、愛されている。
『アキラのためなら、なんだってできる』
その言葉の通り、殺されかけてまで自分を助けた将。
吹雪の中、助けに来てくれた将。
そして……死にもの狂いで勉強し、たった4ヶ月で偏差値を25もあげた将。
聡はハッとした。
将は、東大に合格すれば、自分との結婚を許可してもらえると思って、頑張ってきたのだ。
それが叶わないとわかったら。聡は思わず問いを発していた。
「もしも……もしも将が東大に合格したら」
「不合格でした」
康三は顔をあげると厳粛に宣言した。
「え……」
発表は来週の火曜日のはずだ。なのにどうして。聡の疑問に答えるように
「発表は来週の火曜ですが、今日の段階で合格者は確定しています。大学の内部のものに極秘で問い合わせましたところ、不合格だったそうです。大変惜しいところまで漕ぎ付けていたそうですが」
康三は淡々と説明した。
「……そうですか」
聡はがっくりと肩を落とした。
やはり、たった5ヶ月やそこらでは、準備が足りなかったのだ……。
あんなに努力していたのに。将がふびんだった。
自分とのことはさて置いても、合格させてあげたかった……。
いや。
人間、どんなに努力しても報われないことだってあるのだ……。
むしろ、報われないことのほうこそ、多いのかもしれない。
自分たちの愛も……そんな報われない一つになのだろうか。
どんなに努力しても。
どんなに愛し合っていても。
その人生が縒りあわさって同じ方向に進むことはない……。
そのとき。
「ひなた」がお腹を蹴っ飛ばした。
まるで、違う、と叫ぶように強く。
聡は思わず袴に覆われたお腹に手を置いた。
それを目にしたせいか、康三はさらに続ける。
「先生の生活も……生まれてくる子供のことも、何一つ心配はいりません。金銭面その他、こちらで出来る限りのお世話をさせてください」
別れてくれという懇願から、その後の具体的な方策に話が移って、康三の話し方は、いくぶん滑らかになる。
「……もしも働きたかったら、仕事もその内容も最大に配慮してご用意いたします。ですから……将の前から、消えていただきたい」
康三の表情は、さっきのように苦しげではなかった。
親として、これが最善の決断であるという自信さえ見えていた。
「消えるって……どこへ」
なかば諦めながらも……聡の心の奥深くは、なおも将の愛情にすがっている。
どこへ行っても無駄だ。
自分を抱きしめるために1300キロを寝ずに運転しきったその情熱で……きっとどこへでも追ってくる。
「ボストンに居心地のよい家を用意しました」
「……ボストン?」
思いがけない、アメリカ東海岸の都市。
聡とは何のかかわりもない町。
わかっているのは東京から見て、ほぼ地球の裏側にあるという事実だけだ。
地球のむこうとこちらに二人を隔てても……将はきっと諦めない。諦めるはずがない。
沈み行く聡の睫から、その心の中を悟ってか、康三はさらに言葉を追加する。
「……もちろん、一人でではありません」
意外な提案に、聡は俯きかけていた顔をあげた。
「生まれてくる子供には、私のほうでふさわしい父親を探しました」
――ふさわしい父親?
――この子の父親は将しかいない。それはいったい……。
聡が問い掛けるまえに、康三はドアに向かって声をあげた。
「毛利。入っていただきなさい」
扉が開いて……入ってきた男を見て聡は思わず立ち上がった。
……博史だった。
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