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第20章 遠い春
第350話 遠い春(5)
しおりを挟む「あのさ、アキラ。今日……」
将が切り出したのは、電話とネットを使った英語の個人授業が終わり際だった。
聡が退院してから、英語の個人授業は元通り復活した。もう前期試験まで2週間しかない。
苦手の英語を少しでも克服するため、聡も最大限に協力していたのだ。
「何?」
いいよどんだ将に、聡は何気なく訊き返しつつ、将がさっき大量にもらっていたチョコレートについて弁解するのだろうと予想していた。
もちろん、聡に目くじらを立てるつもりはない。
連続ドラマに出るような俳優の将だから、下級生にチョコレートをもらうのはあたりまえだからだ。
「今日……、みな子……いや、星野さんとは、単なるクラスメートに戻ることにしたから」
一言一言、区切るようにして将ははっきりと宣言した。
「いや……もともと単なる友達なんだけど……、アキラのカモフラージュも、もういいって言っといた」
さらに付け加える将の口調に……未練の片鱗を探してしまう自分に、聡はハッとする。
まだ嫉妬している自分の醜さに、聡はそれを覆い隠すべく、とりあえず冗談を投げかけてみる。
「いいのぉ?」
「うん……いいんだ。やっぱり嘘でもアキラを裏切れないよ」
聡の返事が冗談だなんて、将は思いもしないらしい。いたって真面目に届く電話の中の将の声に、聡は胸がいっぱいになる。
「それで、星野さんは?」
しばらくの沈黙ののちに、将はただ、わかってくれたよ、と答えた。
答えるまでと……答えたあとの沈黙に、聡はすべての状況が透けて見えるような気がした。
人一倍、柔らかい心を持っている将は、みな子を傷つけてしまった自覚に、自らも傷ついているのだろう……。
「紙袋はあれで足りた?」
――話題を変えるべく聡は、せいいっぱいおどけて質問を投げてみた。
「いっぱい、もらったんでしょ?チョコ」
「……うん」
あいかわらず重い将の口調にかまわず、聡は続けてみる。
個人授業のあとは……いつもならできるだけ無駄話をせずに、電話を切るべきところだが、将を少しでも元気付けたいと、今日は思ったのだ。
「いくつもらったの?」
「……学校では10個かな。でも事務所にも結構届くだろうって、武藤さんが言ってた」
「芸能人だったら、たくさんもらうよね。……そういうチョコって、どうするの?」
「そのまま引き取る業者がいるんだって」
「ふーん。……そう」
話題はそこで途切れて、聡は次の話題を探すべきか、それとも電話を切るべきか迷った。
まだ回線をつなげておきたい……今日の聡は、なんとなくそう思って……息をひそめながらそのまま切らずに……お腹をなでながら黙っていた。
もう11時になるせいか、『ひなた』はとっくに寝たらしい。彼女も静かにしている。
「だけどさ」
切り出したのは将のほうだった。
「俺が一番ほしいのは……アキラのチョコなんだけど」
そのとき二人とも去年の同じ記憶をたぐっていた。山梨から帰ってきた聡が将に渡した手づくりのチョコ。そして観覧車でのキス。
去年……急な山梨の転勤は寂しかったけど、あの期間は教師と生徒の関係から解放されていた。
それになにより、芸能人ではない将は、自由だった。
チョコレートより甘い思い出に聡は、ほんのりと当時の幸せな気分を取り出して浸ってみる。
「そんなこといったって、今年は無理でしょ」
それに対して、二人の関係が露見するのを恐れなくてはいけない、今。
手づくりのチョコレートを渡すわけにはいかない。
「なんとかならないかなあ……」
将は背もたれに寄りかかりながら呟いた。
難しいとなるとよけいに、それがかけがえのないものに思えてくる。
ひいては合格するための、特効薬のようにまで思えてくる。……どうしても聡のチョコがほしい将は頭をめぐらせた。
「そうだ」
寝不足で回転が悪い頭ながら、妙案を思いついた将ははずんだ声をあげた。
日曜日の午前中、聡はひさしぶりに商店街に来ていた。
以前アルバイトしていた弁当屋がある……つまり将が前に一人で住んでいたマンションがある商店街。
バイトしていた頃は自転車で通っていたが、妊娠8ヶ月の今の聡にそれは無理だからバスを使う。
聡は、まっすぐに将のマンションのエントランスに足を踏み入れた。
そして地味な……学校名の入った封筒を取り出す。
中には、昨日1日がかりでつくったチョコレートが入っていた。
金曜日の夜、将は提案したのだ。
「俺の……前に住んでたマンションの郵便受けにチョコ入れといてよ」
「郵便受け?」
「うん……俺、月1くらいで郵便物チェックしにいってるんだ。学校の書類みたいに地味な封筒にいれておけば、自然だろ」
アイデアを思いついた将の得意そうな顔が透けて見えるようだった。
ゴディバよりも、ピエール・マルコリーニよりも、聡がつくってくれたチョコがいい。
聡のチョコを食べながら、英語を頑張ったらきっとご利益がある……。
むりやりこじつけながらも熱心に乞う将のために、聡は去年つくったやり方を思い出しながらチョコレートをつくったのだ。
郵便受けに入るよう、薄めにラッピングしたチョコは学校の封筒に入れてある。
部屋番号を確かめながら、聡はそれを用心深く将の部屋の郵便受けに落とした。
将によると、日曜日の今日は岸田教授の家で論述の個人指導を受けて、そのあと、ここに寄って郵便物を拾って帰るという。
ひとしきり、自分のアイデアに満足しながらも、
「……だけど、ほんとは、二人で逢いたいな」
最後に将はぽつりと言った。
急にこみあげてくるせつなさを堪えるように聡は
「毎日、学校で顔を見てるじゃない」
とことさら明るい声を出す。
「違うよ。アキラと二人っきりになりたいんだ」
電話から響く将の声は、聡の心に沁みこんで……かわりに温かい何かが体の奥から遡ってくる。
「早く、二人で気兼ねなく逢えるようになりたいな……」
後期試験はちょうど1ヵ月後だ。つまりもう50日も経たない内に、二人の運命は決まるのだ。
激しい泳ぎを休んで、ぽっかり浮かんでつぶやくような将の声。
今、聡には将の気持ちがそのまま入り込んできた。まるで心の一部を共有しているように、鮮明に。
「うん……そうだね」
目の奥に達した何かに押し出されるように……ふいに湧き出てきた熱い物を聡はこぼさないようにしきりに瞬きをするしかなかった。
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