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第17章 クリスマスの夜、二人

第306話 未曾有の大雪(2)

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一晩明けて24日。

いつもより少し早く起きてカーテンを開けた聡は、思わず口を丸くあけていた。

一面降りしきる雪で霜降りのようになったクリスマス・イブの街は、どこか日本海側の都市にいるようだった。

家々の屋根はいずれもこんもりと綿帽子をかぶったように白い雪が乗っかっている。

聡の部屋の狭いバルコニーにも軒から降り込んだ雪が10センチにも積もり、ミントの鉢は可哀想に雪に埋もれている。

せめてミントの鉢に積もった雪をはらってあげようと窓をあけた聡は、突き刺さるような空気に身震いした。

綿のように柔らかそうな雪とはまるで質感の違う湿った冷たい空気。

聡はいったん部屋の中に取って返すとカーデガンを羽織り、しまっておいたつっかけを玄関から持ってきてミントの雪を払った。

白い雪とミントの葉はまるで何かのデザートのような美しさだったが、放って置くと枯れてしまうだろうから。

パイプの手すりの上にも、こんもりと昨晩の雪が積もっている。

ほうきで手早くバルコニーの雪を履きながら、聡はその清浄な雪を思わず手にとりたくなる。

雪に手を延ばした聡は、手すりの下に見えた歩道を見て仰天した。

道はまっ白だった。

朝早い人が踏んで通ったあとが線状に残っているが、舗道にアスファルトの色は見えない。

車道にしても、轍に少々黒ずんだ色が透けてみるだけで、白い部分が大半だ。

東京がこんなふうになるのを、聡は見たことがなかった。

しかも雪は、まだ止むことなく、しんしんと降り続いているのだ。

 
 

聡の出勤時間には、雪の舗道は踏み固められた部分が増えていたものの、固まった路面と新雪との高さの差は20センチもあった。

つまり、長靴を履いていないと、新雪の部分は歩けない。

初めてここを通った人はさぞ苦労しただろうなあ、と聡は、去年北海道へ履いて行った靴で、踏み固められた雪を、ギュッギュッと慎重に踏みしめる。

妊娠5ヶ月の聡は転ぶわけにはいかないのだ。

降る雪の勢いはおさまらないものの、交通は昨日に比べると少しはましになっていた。

バスやタクシーは、ジャリジャリとチェーンの騒音を立てながら果敢にも走っている。

ニュースによればJRは日本海側から除雪車を運んでくるなどして、一部徐行運転を始めたものの、視界が悪くてダイヤは乱れっぱなしだという。

聡はチェーンをつけたバスに乗って、なんとか学校に出勤することができた。

今日は2学期の終業式がある。教え子たちに通信簿を渡さなくてはならない大切な日なのだ。

「ああ、アキラ先生。おはようございます」

「おはようございます。多美先生」

聡が職員用入り口にさしかかったとき、ちょうど多美先生たち屈強教師が校門に出るところだった。

ただし今日は竹刀でなく、おのおの大きなスコップを持っている。

「学校の前だけでも、雪かきです」

権藤が四角い顔をほころばせた。寒さで鼻が少し赤くなっている。

「私も手伝いましょうか?」

気を遣う聡に、

「アキラ先生は赤ちゃんがいるんだから、じっとしていてください」

と多美先生が降りしきる雪に目を細めながら笑ってみせた。

長いコートに毛糸の帽子を被った姿は、なんとなく彼をロシア人のように見せている。

聡はうなづきながら、こっそりと微笑んでしまった。

 
 

驚いたことに、この大雪だというのにほとんどの生徒が出席した。

それにはわけがある。

今年から卒業時の残留ポイントによって、キャッシュバック額に差がつくという決まりが加わったのだ。

自主中退者を増やす作戦が失敗に終わった学校側は、なんとか予算削減を実現すべく、そういう決まりを急遽作ったらしい。

生徒たちは不満ながらも、少しでもポイントを減らしたくない、と必死で学校に来るはめになった。

 

「ね、先生。赤ちゃん動いた?」

「先生、それマタニティ?」

HR前だというのに、チャミとカリナは職員室から離れようとしない。

少しでも暖をとりたいのだろう。この学校の教室には暖房がない。

晴れることの多い関東地方だから、窓を閉めて置けばサンルームのように温かくなり、暖房は必要ないともいえるが、今日のような日は地獄だろう。

スカートの下にジャージを着込み、見た目などどうでもよくなっている女生徒さえいる中で、この二人のミニスカートの下はどうやら生足らしい。

鳥肌が立ち、網目状に紅くなっていかにも寒そうな太もも。

それを見ると、聡は可哀想になって咎める気になれない。

聡はといえば、今日は初めて身につける冬用のマタニティの下に、パンツを重ねて着ている。

そのとりあわせは、まだお腹がさほど大きくなっていないということもあり、意外にお洒落に見えたらしくチャミは『カワイイ~』を連発する。

「センセイ、今日イブだね」

「ダンナさん帰って来るんだよね?」

若い女の子には、今日のイブの過ごし方はとても重要なのだろう。だから

「ううん」

と聡が答えたとたんに二人は職員室にいることも忘れたように、揃って『えー!』と大声をあげた。

聡はあわてて、シーと口の前に指を立てる。

「超さみしくない?」

カリナが不満げに顔を斜めにしている。

「お友達と過ごすから大丈夫よ」

聡は嘘をつき笑顔をつくる。嘘に慣れていく自分が一瞬だけひっかかる。

それにもだいぶ慣れたのがやるせない。

「そうだよね。ケッコンしてるんだし。イブは今年だけじゃないもんね。ずっとあるもんね」

チャミの言葉にうなづきながら、聡は本当の相手……将を思う。

朝のニュースでは飛行機はあいかわらず欠航しているらしい。

将から新しく連絡が入らないということは、北海道から帰れる目途も付かずに往生しているのだろう。

あるいはホテルかどこかにとまって寸暇を惜しんで勉強しているのかもしれない。

――今日は、もしかすると一緒に過ごせないかもしれない。

それは昨日から覚悟していた。なのにやはり寂しい。

来年。将と一緒にすごすクリスマスイブは果たして本当にやってくるんだろうか。

子供はもう引き返せないところに来てしまっていたが、将との未来については、あいかわらず聡は見通すことができないでいる。

 
 

全校集会と、通知表を渡してしまうと、2学期の終業式はおわり、解散になる。

だが、3年の進学希望の生徒は、残って自習をすることを許されていた。

ただあまりにも寒いので、いつもの教室に代わって今日は暖房が効く図書室を開放している。

教師たちは、自習する生徒たちの質問に答えるべく、職務をしながら午後も残ることになっているのだ。

学食から戻った聡は、1枚残った将の通知表をもう一度開いた。

英語だけは星野みな子に首位の座をあけわたしているものの、他はすべて学年でトップになっている。

だが……あいかわらず東大には遠い。

北海道ロケに入る直前に受けたS予備校のセンター・プレ試験では、足切りですらきわどいレベルだった。

英語の成績が一番厳しいのは……やはり準備時間不足なのだろうか。

しかし、学校に来ていなかった将は、つい最近まで英語はやっと中学生レベルだったのだ。

そこから考えると飛躍的な進歩をとげたといえるが、依然東大には届かない。

何かのおりに、将がフランス語がかなりできることを知った聡は、いっそフランス語で受験してみることを勧めてみた。

しかし将は

『絶対英語で受ける。聡の科目だもん。聡に教わりたい』

と、頑として受け入れなかったのだ。

英語が他の科目の足を引っ張っている状況に、将よりもむしろ聡が焦っていた。

 

聡は携帯をあけた。将からの返信はあいかわらずない。

さっき、こっそりかけた電話も

『ただいま、電話をとることができません』というメッセージが流れるばかりだった。

それを、集中して勉強している、と聡は理解するしかない。

この図書室にも20人あまりの3年生が図書室に残って、一心に勉強している。

わからないところがあったら、すぐに教師に聞ける、学校での自習は、受験生たちには好評だった。

皆、昨年の卒業生に比べると、数段成績があがっているといえる。

将やみな子を始め……今年こそは低偏差値校としての悪評を払拭できる進学実績が残せるかもしれない、と校長や教頭も期待しているのだ。

生徒から頼まれた採点を終えた聡は、窓から空を見上げた。

午後3時をすぎたばかりだというのに薄暗い空からはあいかわらず塵のように雪が舞い降りている。

そのとき、図書室の扉が開いて、多美先生が入ってきた。

天気があいかわらずよくならないので、暗くなる前に、生徒達を帰そうということだった。

聡は了解すると、残っていた20名ほどの生徒たちに帰るよう促した。

 

聡が校門を出た4時には、もうあたりの雪が紫色に見えるかのような暗さだった。

さした傘が重くなっていくような雪。白く立ち上った吐く息が、すぐに落ちてきそうな寒さだ。

「ホワイトクリスマス、どころの騒ぎじゃないわね」

聡は小さくつぶやくと、ため息をついた。

昨日、急いで仕上げたマフラーは今日は将に渡せないだろう。

「今日の晩御飯、何、食べようか」

聡は、下腹の小さな命に向かってそっとつぶやいた。

そのとき、夕闇色に染まった雪の舗道を踏みしめる聡を、車のヘッドライトがカッと照らした。

ヘッドライトに切り取られたように、道路上に雪が舞うのが照らし出されている。

振り返った聡は、その国産車と……運転している男を見て、あっと叫んだ。
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