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第16章 運命
第300話 意外な救い(3)
しおりを挟む『どけよ』。
怒鳴りつけるべく将は反射的に目の前にいる純代を睨みつけた。
「先生のお部屋だったら、こちらよ」
意外な純代の声に、将は逆に立ちすくんだ。
どういうわけかスーツの上にエプロンを着けた純代は、歩いて来たらしき方向に踵を返しながら、将をいざなう風をした。
付いていくべきか逡巡する将の後ろから、毛利の抗議が純代へと投げかけられる。
「奥様。そんなことをなさると先生が困ります」
もちろん毛利が言っている『先生』とは、将の父の康三のことである。
「あら」
純代はいったん立ち止まると振り返った。
「保護者同伴で、担任の教師を見舞うことに、何か問題がありますか?」
それでも何か反論しようとする毛利だったが
「それにここは将がお世話になった病院です。お礼をしにくるのは至極自然なことでしょう」
純代は凛とした声で圧倒してしまった。
思いがけない展開に呆けたような将に、純代は目配せをすると先に歩き始めた。
「アキラ!」
純代の前だというのに、聡の姿を目にした将は、いとしいその名前を叫んでベッドに駆け寄った。
聡はいっそう痩せてしまっていた。痩せて小さくなった顔に、黒目がちの目がいっそう大きく見える。
「鷹枝くん」
それでも将を見つけた聡は一瞬顔を輝かせた。
しかし純代の前だから、その微笑みは遠慮がちに小さくなった。
ベッドの上の聡と、その脇で立ちつくす将は、今はただ見つめあった。
そんな二人に
「じゃあ、わたくしは30分ほど、お昼の準備をしますから」
と純代は声を掛けると、自らはそっとドアの外に出た。気を利かせたに違いなかった。
純代の魂胆はわからないが、将は一歩進むとベッドの上の聡に手を延ばした。
二人は久しぶりに、お互いのぬくもりをむさぼるように抱きしめあった。
「アキラ、つわりはひどいの?入院するなんて」
聡は将の腕の中で首を振った。
「でも……すっごい痩せた」
もともと華奢なのに、少しでも力を込めると壊れてしまいそうな聡だ。
その体の中に子供が宿っているなんて……将はさらに脂肪が薄くなった聡の背中をそっとなでた。
「あいつは、何しに来たの?……アキラに何かひどいことを言ったんじゃ」
聡は将の腕の中で顔をあげると、その黒い瞳を将に向けた。そしてかぶりを振ると、ゆっくりと微笑む。
「質問ばっかりね。将」
その、低めで温かい声は将の中の何かを溶かしていく。
「今日はね……つわりはだいぶよくなったの。お義母さまが魔法をかけてくださったみたい」
将には何があったのかわからなかった……だがそこで、病室にかすかにただよう香りに気付いた。
それは昨日から自宅に漂っていた香りと同じ、カツオだしの香りだった。
1時間ほど前。
聡は思いがけない来訪者に、固唾を飲み込んだ。
「先生。今日は将の母として、お見舞いにあがりました」
現れたのは、将の義母の純代だった。
去年……風邪を引き込んだ将と口づけしている現場を見られ、なじられたことがある聡だから、身を硬くした。
もう終りだ、と覚悟した。
きっと、子供を堕ろしてほしい、と乞われるのだ……。
あれほど迷っていて……自分でも何度も堕ろすべきだ、という方向に向かいかけているにもかかわらず……聡はそれを想像する聡は腹をえぐられるような痛みを想像する。
しずしずと病室に入ってきた純代は深々と礼をした。
聡はさらにとまどった。
礼を尽くした態度に、何と返事をしていいかわからないが、謝らなくてはならないことは確かだろう。
聡はベッドの上に座り直した。まだお腹が大きいわけじゃないから正座して居を正す。
「このたびは申し訳ありません。……担任として、いえ、教師としてあるまじきことをしてしまいました」
担任として……将の未来を台無しにしかねないことをしてしまった。
聡は本心から、布団に頭をすりつけんばかりに臥すと声を絞り出した。
だから、子供は……自分で責任を取ります――口にすることのできない責任が聡の胸で焼けつくようだ。
そしてこみ上げる吐き気。以前だったらすぐに手洗いに駆け込むほど強いそれを聡は必死で耐える。
結ばれてはならない教え子の残した……愛の証は、殺さないでくれ、守ってくれと聡に必死で訴えているのだろうか。
社会への責任感と、将の子供を守りたい母性は聡の中ではみ出すほどに激しくせめぎあう。
「今日は……あなたを責めにきたわけじゃないんですよ」
吐き気をこらえながら純代の言葉を待っていた聡は、優しく抱き起こされた。
抱き起こすだけでなく、純代は聡を見つめた。
その視線には、聡が想像していた『責め』とか『断罪』といった尖ったものが一切なかったので、聡は逆にとまどった。
「だけど……」
「今日はね。あなたに味を見てもらいたいものを持ってきたの」
純代は、聡を楽な姿勢にさせると、風呂敷包みを解いてそこに入ったタッパーのうちの1つを取り出した。
蓋を取ると琥珀色に染まったゼリーのようなものが入っていた。
「桜島大根よ。味を見ていただくだけでいいの」
よくテレビなどで見る、巨大な姿ではなく切り分けた一部らしい。
聡は見た目だけでその柔らかさと味の染み具合がわかるものと、純代の顔とを見比べた。
「薩摩藩時代から鷹枝家に伝わる味なのよ。私も今は亡きお姑さまに教えていただいたの……。あなたにも、将来教えられればいい、ってわたくしは思っていますの」
聡にはわけがわからなかった。
ただ、今しがた強烈にこみ上げていた吐き気は急速におさまり、目の前のものから発せられるカツオだしの香りは聡を苦しめてはいない。
「……先生。わたくし、将から一切の信頼を失っていますの」
純代の口調は、旨そうな煮物を手にしているのには似合わない寂しげなものだった。
前に将から聞いた、家を爆破された事件のことだろうか。
聡は立ったままの純代にやっと気付き、とりあえず椅子を勧める。
純代は微笑むと、それに腰掛けた。
「聞いて頂けるかしら。将とわたくしに何があったか……」
今から9年半前。名門・岸田家の息女である純代は、前妻の一周忌を待ちかねたように鷹枝家に後妻に入った。
政治家によくありがちな閨閥関係を築くための政略結婚である。
しかし名門に生まれた純代のほうは、いつかはそれをするのがあたりまえだと思っていた。
それに、親の決めた結婚相手で13歳も年上の再婚者とはいえ、政界きっての美貌を持つ鷹枝康三が相手である。
男としての魅力で結婚相手を選ぶことなど叶わないと思っていた純代は、ひそかに自分は幸運だと喜んだ。
1ヶ月に満たない短い新婚生活ののち、康三自身が見合いの席で告げたとおり、前妻の子供が預けられていた曽祖父の家から戻ってきた。
その春から小3になるその男の子……将は、新しい母である純代を親しげに見上げると
『鷹枝将です。よろしくお願いします』
と教えられたのか、ぺこりと頭を下げた。
『親の私が言うのもなんだが、素直でとてもいい子なんだ。だが、母を亡くしたことはどうしてやることもできない。私も忙しくてめったに面倒をみてやれないんだ。だから、どうか可愛がってやってほしい』
前の日に康三は、純代に頭を下げた。
自分のことに関しての要望はそれまで一切せずに、純代のやり方を見守っていたような康三だ。
その康三が初めて純代に頼みごとをしたのが、将のことだったのだ。
もともと、岸田家の息女として代議士の妻を立派に務めることが自分の生き方だと自覚していた純代である。
もちろん前妻の子供をきちんと育てるのはその一環として当たり前だと思っていた。
だが頭を下げる康三に、さらにその決意を新たにした。
もし自分に子供が生まれても、分け隔てすることなく可愛がろう……純代は自分に誓っていた。
康三は、それだけ純代に対しても誠実な夫だったのだ。
だが、9歳になる男の子が、果たして自分になついてくれるのか不安だった。
ことあるごとに前の母と比べて……康三の前の妻の影をちらつかせるのではないか……そんな暗い予想は見事に外れた。
将はその日から純代を『おかあさん』と呼んで、反抗することもなく慕ってくれたのだ。
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