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第16章 運命
第293話 不安(2)
しおりを挟む「子供……、あきらめる?」
将の声に聡の体がぴくっと動いて震えが止んだ。
将の手はあいかわらず聡の背中を撫でている。
「しょう……」
聡はおそるおそる目をあげた。
「ごめん、アキラ。……俺、アキラが今、どんなにつらいか考えてなかった」
顔をあげた聡は、そこに、いままで見たこともない将の顔があるのを見た。
聡をいたわり、心配するは……苦しげで、哀しそうにさえ見えた。
将はまるでそんな顔を見られまいするように、聡を胸に押し付けるように抱き寄せた。
「でも、信じて。俺……アキラを愛しているんだ。だから子供が出来たのも、すごく嬉しかったんだ」
苦しいほどの抱擁に苦しそうな声。聡は将のぬくもりにすっぽりと包まれる。
「だから……どんなことでもしようと思ったんだ。乗り越えられると思ったんだ。……だけど」
将の声が少し震えている。聡は腕の中で気付いた。
「アキラが苦しいなら……つらいなら。俺もつらいから」
「将」
聡は将の腕を振りほどいた。やっぱり将は泣いていた。真っ赤になった目から涙が頬を伝っている。
聡はもう一度将の名前を呼ぶと、その濡れた頬を聡の両てのひらで包む。
「だから、残念だけど、子供は……」
泣きながら、なおもつらいことを口にしようとする将の唇に聡はそっと自分の唇を押し当てて制した。
いったん離れた聡の唇に、今度は将のほうが押し当てる。
涙で腫れぼったくて熱を帯びた唇。涙交じりの塩辛い味。
泣きながら、言葉の代わりに唇を交わす聡は、下腹が小さく脈打っているのを感じた。
だけど、将の本当の涙の理由を、聡は知らなかった。
将は、自分で自分を恥じていた……。
『子供……、あきらめる?』そう切り出したとき、将の心は、たしかに自分の抱えた重荷が軽くなる、と感じてしまっていたのだ。
聡とその子供への裏切り行為……。将は聡を抱きしめながら、自分を責め、そして聡に詫びていた。
いつしか、部屋は薄闇になり、静かなはずの雨音が二人を包んでいた。
将と抱き合いながら、聡は下腹の……かぼそい脈が途切れないのに気付いていた。
将の血を受け継いだ命が、とうとう脈を打ち始めたのだ。
「乗り越えられるかな……。あたし」
思考を経由しないで、ぽつりと言葉が出た。
さっきまで、子供を産むなんて考えられない。……いっそ堕ろしたほうがいい、と考えていたのに。
思わず出た、産むことに前向きな言葉を、聡はまるで後悔していないのだった。
――これが、美佐が言ってたことなんだろうか。
ぼんやり考える聡の至近距離にある将の瞳が聡へと動いた。白眼が薄闇の中で揺れる。
「……アキラ」
聡を呼ぶ将の声がかすれている。
「……将。愛してる」
脈絡もなく呟いた聡の思考は、次第にぼんやりから、明晰に将来を想像し始める。
子供を産む将来のことを。将はああ言っているが、東大に合格などするはずがない。
やはり、聡のことまで含めているのかは置いといて、将のこの時期の結婚を反対していることは明確だ。
それを押して、聡が子供を産めば……いったいどうなるんだろうか。
聡はお腹の中の子供にそれを問うように……自らの手を下腹に添わせた。
将の視線が、聡の手にいざなわれるように下腹に移動する。
いとおしい、とまではまだ思えないお腹の生命体。
だけど一生懸命に脈打っているこの小さな命を……殺すことはできない、と聡は感じた。
「アキラ、何考えてんの」
虚ろな聡の瞳を将がとうとう指摘した。
「おなか、どうかした?」
「なんでもない」
将の質問をかわして、聡は思考を進める。
子供を産んだ場合……そう考えて聡はハッとする。
将は芸能人だった。人気俳優の地位を確立しつつある将が、自分の学校の担任に子供を産ませる。
これがスキャンダルでなくて何だろうか。
さらに、芸能活動をしながら東大なんか目指せるはずがない。
聡は視線を将に戻すと、
「将……。東大目指すっていっても……、芸能活動はどうするの?」
と訊いてみる。
「やめる」
将はいとも簡単に、だが力強く答えた。
聡は気付いていないが、それは将の……罪滅ぼしだった。
一瞬でも、子供を殺し、聡の体を傷つける方法を、ちらりとでも望んだ自分への。
「明日、仕事だから、武藤さんに言う」
「そんなに簡単に……」
「大丈夫だよ。いざとなったら、ここだけは親に頼らせてもらう」
つまり康三の政治家としての力でゴリ押してでも聡のために勉強を優先する、というのだ。
「お父様は……」
「プロダクションとの話がこじれたら、相談しろって言ってくれたよ。アキラ……オヤジは、俺を俳優より政治家にしたいんだ。
東大のことは、アキラのことを認める代わりに政治家を目指せってことなんだ。べつにアキラのことを反対するために言ってるわけじゃないよ」
将は聡にゆっくりと説明した。
将が政治家を目指す。
聡の脳裏になぜか、テレビで見た曽祖父の巌の古い映像が蘇った。
外務大臣だった曽祖父の巌。総理だったという祖父、そして父は現官房長官。
そこに将が加わる。
卓越したIQに、正義感と行動力を併せ持つ将に、それは向いているだろうと聡も思う。
だけど……政治家というのは、票を取るために、より規範的な行動を求められる仕事でもある。
そんな立場になる将に……18歳で担任を妊娠させたという過去は……やはり重い十字架となりえるのではないか。
――やっぱり産めない。
この子は闇に葬るしかないのだろうか。
――いいや。
すでに、何がなんでも子供を守りたい聡の本能は、思考をフル回転させて、次々と案を出して来る。
――将の子ではないことにすればいい。
――つまり、一人で産んで育てるってこと?
――できる?
――やるしかない。
それが将への愛の証しになるかもしれない。
そこへ冷徹な理性が割って入る。
――ダメ!本能の言いなりになっちゃ。産んだところで結婚できるかどうかわからないのよ。
――結婚できなくたって、将を愛していることは変わりないでしょう。
心の中に、さまざまな聡が生まれ、かまびすしいほどに議論をする。
その中に沈み込んだ聡の意識を、ユーモラスな鈍い音が連れ戻した。
「……ごめん。おれの腹」
考えてみればもう夕食を食べてもおかしくない時間だった。
微笑んだ将は、言葉を続けた。
「オヤジがさ、言ったんだ。……お前も家族を持つのなら、家族を信用しろって。
だから俺はオヤジが、俺が東大に受かったらアキラと結婚していいって言ってるのを信じようと思うんだ。だから……」
そこで将は腕を伸ばしてもう一度聡を抱き寄せた。
聡は脈打つ下腹ごと再び将のぬくもりに包まれた。
雨はあいかわらず降り続いている。そんな湿った黄昏に将の肌だけが温かい。
「アキラ。アキラは俺の家族だろう。俺を信じてくれないか」
――家族。
将の肌以上に温かい言葉に、聡は思わず目をあげて将の顔を見つめた。
将も……それがわかっていたように細めた目を聡に向けていた。
「俺を信じて、二人で乗り越えないか」
温かい声だった。
「あのときみたいに。……乗り越えたあとには、きっとすごい幸せがあるって信じて」
あのときを思わせる雨音。
冷たい雨に打たれて真っ暗な道をあてどもなく、二人で寄り添って歩いた。
今、聡は……そして将も人生において同じ状態なのだ。
自分が確実に将の未来の汚点になる、という事実はいまだに聡を苦しめていたが、
今は将の温かい愛情を生きるよすがにしたい……聡は再びにじみ出てきた涙を将のTシャツにこすりつけた。
だが将は……聡には自分を信じろといいながら、自分で自分が一番信じられなくて……彼もまた聡を受け止めながら、その実、彼女に縋っていた。
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