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第15章 夢一夜

第276話 夢一夜(2)

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お湯に顎まで沈むと、ふう、と空気が体から押し出されるようにため息が出た。

聡は一人、元民宿だというこの家の風呂に裸身を沈めている。

川のせせらぎと優しい雨の音に、脱衣所で洗濯機が回る音が混じる。

さっきまで下着までびっしょりだった二人の服をまとめて放り込んでいるのだ。

ここに泊まることが決まったとき、民宿の奥さんはまず言った。

「それにしてもその濡れ方じゃあ……。まず二人一緒にお風呂に入っちゃったらどう」

「え」

二人は止まった。

「……やーねえ。いい仲なんでしょう。恥かしがらなくたって」

奥さんは笑いながら二人を風呂に案内した。

すりガラスの引き戸を開けると、そこは洗濯干し場を兼ねたような、雑然とした脱衣所になっていた。

天井からはのれんの様にタオルが干してあり、床には色のさめたバスマット、

その脇には孫用なのか、バケツに入ったカラフルなじょうろやアヒルといった風呂用おもちゃが置いてある。

比較的新しい洗濯機と乾燥機(それでもよく見ると時間が掛かる旧型)、一昔前のピンク色のシャンプードレッサーが木の窓枠とあきらかに異質だ。

「浴衣は大と中でいいね。それと、ハイ。タオル。バスタオルは本来は貸さないんだけど、今日は特別。洗濯機も乾燥機も自由に使ってね」

と奥さんは使い古された柄物のバスタオルを差し出してにっこりと

「じゃ、ごゆっくり」

とすりガラスを閉めてしまった。

思わず聡は、唾をごくっと飲んだ。将の顔をまともに見れない。

「ちょっと……。将、あたしここで洗濯してるから、先に入ってきてよ」

聡は濡れた将のパーカーを脱いで洗濯機に入れながら俯いた。

「えー、なんで。せっかくだし、一緒に入ろうよ」

将は明るく誘った。

「ダメ」

「なんでー」

「ダメったらダメ。……恥かしいもん」

聡はくるりと後ろを向いた。

「いいじゃーん。もう裸のつきあいなんだし」

「とにかく、いやなの」

将は口を尖らせながらも、それ以上無理強いはしなかった。

聡に背を向けると、さっさと濡れた服を脱いで風呂場に入った。湯上がりも

「ぱんつ穿いてないとスース-するな」

などといいながら浴衣を着てしまうと、脱衣所を出て行った。

「ご飯、先に食べてていいから」

その背中に向かって聡はやっと言えた。

ムリにお願いして食べるものを用意してもらっているのだ。

洗濯物は聡が上がった頃に脱水が終わるだろうから、今度は乾燥機に放り込んでおけば明日には着れるだろう。

 
 

まだ8月だけれど、窓の下を川が流れるこの風呂では、体を洗うのももどかしいほどお湯のぬくもりが恋しかった。

しかし、ひとたび湯に入ってしまえば、窓からの川の風はほてりがちの頬と額を冷ましてくれてそれがなんとも気持ちいい。

鉱泉風呂だという湯も、キュッキュッと肌が音をたてそうな独特の柔らかさだ。

2間続きのうちの1部屋を譲ってくれた常連客・高橋が

「ここはお風呂がいいからね。安い上に下手な温泉よりゆっくりできるのがいい」

と絶賛していたのがわかる。

岐阜中をまわる営業マンだという高橋は、ここの鉱泉風呂が気に入って、

民宿を廃業したあとも頼み込んでビジネスホテルの代わりに泊まらせてもらっているということだった。

 

すっかり温まると、聡は髪を洗うべくお湯からあがった。

ちなみに浴槽も床も、今では珍しい昔ながらの凝ったタイルばりだ。

洗い場に置かれたピンク色のプラスチックの腰掛が少し不似合いだが、『ケロリン』の黄色い洗面器とは調和しているかもしれない。

聡はそこに腰掛けると、まとめていた髪をほどいた。

『○○工務店』とくすんだ金文字で書いてある鏡の中に、湯で桜色に染まったなまめかしい女の裸体が映し出された。

聡は思わず鏡から視線を落として、お湯をケロリンの中に勢いよく出した。

すると、こんどは鏡像ではない、自分の乳房、そして陰毛がじかに目に映った。

乳房の先端は、すでに尖って固まっているのは見ないでもわかる。

今日何度目かのため息をついた聡に、洗濯機の振動が風呂場まで響いてきた……おそらく脱水に入ったのだろう。

さっき、下着を脱いだ聡は、それがべったりと汚れているのに気付いた。

聡はそれが……将と同じ部屋に泊まるということが決まったゆえの期待、そして淫らな想像にによるものだということがわかっている。

尖った乳房も、同じ原因だ。

聡は、欲情が素直すぎるほど露骨に現れてしまう自分の敏感さを恥じた。

何を、期待しているんだろう、とも思う。

自分たちが泊まるのは、あの人のよさそうな高橋と襖1枚隔てた隣なのだ……だから何も起こるはずはないのだ。

そう言い聞かせているはずなのに、体はすでに将に反応している。

聡は備え付けのリンスインシャンプーを頭の上で思い切り泡立てながら思い出す。

思えば。

この冬……同棲していた頃は、将と毎日のように抱き合って眠っていた。

あのとき、抱き合うだけで何もしなかったのが奇跡のように思える。

と。将の肌を思い浮かべた連鎖か、唐突に、聡の中で、そのときの感覚が蘇った。

4月に……傷ついて酔った将に身を任せたときの……。

聡は目をぎゅっとつむって、頭皮に置いた指を掻き毟るように曲げて俯いた。

――恥かしい。あさましい。おぞましい。

聡は男である将に対して暴走する雌の自分を抑えるのが苦しくて泣きそうになった。

夜に響くせせらぎだけが、清らかだった。

 
 

「あ、アキラー。先に食べてるよー」

いちはやく将が聡の浴衣姿を見つけて、ビールのコップを持った手をあげた。

将は台所から続く食堂のテーブルに高橋と一緒にいた。

「やあ奥さん。ご一緒させていただいてます。おかげでおつまみが豪華になりましたよ」

高橋が機嫌よく会釈した。

ビニールクロスがかかったテーブルの上には漬物と残り物の煮物、それにたぶんいそいでつくってくれたのだろう卵焼が乗っていた。

『奥さん』という慣れない呼び名に聡は思わず目を見開いたが、おそらく将が嘘をついたのだろう。

聡はあいまいに笑顔をつくった。

下着はすべて乾燥機の中なので、こうして他人と同席するのは物理的にも、気持ち的にもスースーして落ち着かない。

聡が席につくと同時に、民宿の奥さんが温かいみそ汁とご飯を持ってきてくれた。

みそ汁は、空腹を癒しただけでなく、その味はしみじみと臓腑に沁みて、野性的な欲望と反対側に位置するほのぼのした部分を急速に満たしてくれた。

「アキラも飲めよ」

将が機嫌よくビール瓶を差し出した。

「うん。もらう」

気持ちが和らいだ聡はそれを素直にコップで受けた。そこへ民宿の主人が顔を出した。

「もう、お風呂は抜いて掃除するけど、いい?」

つまり、夜中に風呂は使えないという意味だ。

「はい。お掃除をおそくさせてしまって、どうもすいません」

聡の返事をロクに聞かないうちに、ご主人はとうに風呂に向かってしまっていた。どうやら、聡が出るのを待ちあぐねていたようだ。

そこへ高橋が

「朝5時にはお湯、溜まるけど。夜明けの一番風呂がまた、いいんだ」

とコップに残ったビールを飲み干した。そして

「のぞき趣味はないから、安心して、お二人さん。……じゃ、おやすみ」

と早々に部屋に引き上げていった。きっと気を利かせたに違いなかった。

民宿の奥さんも聡にご飯とみそ汁を出して、将にお代わりをよそうと

「終わった食器はそのままにしておいていいからね」

と引き下がってしまい、蛍光灯に照らされた食堂は、急に静かになってしまった。

居間も電気が消されていて、そこにあるテレビを点けるのは憚られた。

それでもしばらくは、空腹のほうが心に騒がしかったので二人はもくもくと夕食を腹に納めていく。

「将、あたしたちのこと夫婦だって言ったの?」

ようやく落ち着いた聡がお茶を淹れながら訊いてみる。

静かになると、川のせせらぎがここまで届いているのがわかる。

雨が少し弱くなったのか、耳を澄ませば何かの鳥が『ホッホッホッホッホ……』と鳴くのすら聞こえるようだ。

「うん。宿帳にも鷹枝聡って書いておいた。いいだろ。いつか本当になるんだし」

将はご飯をかき込みながらにんまりと笑った。

聡は茶を啜りながら「もう」と将を軽く睨む。

でも、それが本当になるとしたら、いつなのか、果たしてどれだけ遠くなんだろう……と少しだけ途方に暮れた。

 

「それにしても、みんな寝ちゃったんだなあ」

料理をぜんぶ平らげてしまった将は、自分の食器を重ねながらあたりを見回した。

電気がついているのはこの食堂と階段だけで、あとは見事に電気が消されているらしい。

廊下や玄関も薄暗い。

早くもどこからともなく鼾が聞こえてくるのはご主人のものだろうか。

「まだ11時すぎだぜえ。年寄り、夜早すぎ」

将は茶をも飲み干してしまうと頬杖をついた。

「でも将だって、昨日あんまり寝てないでしょ」

聡のいうとおり、将は昨日SAで休憩した3時間程度しか眠っていない。

考えてみたらロクに休憩もしないで、ずっと運転していたのだ。

「そうだな。……じゃあ、そろそろ寝る?」

将は、『寝る』という単語をいやに強調させると、黒目をぐるりと聡に向けて、にやっと笑った。

たかが冗談なのに……聡の心臓は、血をばくっと一気に吐き出すと忙しく動き始めてしまった。

それを隠すように、聡は唇を尖らせて見せた。
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