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第14章 最後の夏空

第260話 夏の別れ(1)

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殺人的な忙しさ、とはこのことだろうか。

火曜日から、将のスケジュールは早朝から深夜まで仕事でびっしりと埋まった。

もともとは7話だった予定で移動した、将が中心になる8話の収録だけでも出番が多いのに、6話、7話の残り収録もある。

台本は休みの間に読んで覚えていたものの、細切れ度はさらにひどくなり、

同じ場所と同じ役が揃う場面では、衣装だけ変えて7話と8話の同時進行というものもあり、混乱した。

そして、あいかわらず野外ロケが多いが、なにせ例年以上の猛暑である。

内出血の黒い瞼を隠すためのコンシーラーやドーランがすぐに汗で流れ落ちる。その塗りなおしも大変だった。

それでも肌の色はなんとかメイクでごまかせたが、監督は、

「やっぱり、むくんでるね。目のあたりとか」

と撮ったばかりの画を見て言った。

それは将も武藤も感じていたことだった。

痣があるほうの瞼の腫れぼったさは、やはりメイクでは誤魔化せなかったのだ。

ちなみに手首の傷は抜糸したものの、まだ傷を隠すための肌色のテープを貼っている。

まだ今撮影している分がオンエアされているわけでもないのに、これらは、すぐにネットに書き込まれてしまった。

『顔がむくんでいるのは整形?』

『手首に傷があった。例の彼氏に振られて自殺未遂したのかなw』

もちろん将はそんなものを見る暇はない。だが、事務所のスタッフは神経を尖らせた。

先日毛利が見つけた例の記事も、先に事務所で削除させようとしていたのだが、そこのサイトの管理人は出版社のようにバーター関係がないせいか強硬で

『確実に嘘だという証拠がない限り、削除はしないようにしています』

と突っぱねられたのだ。

それでも、毛利が手をまわして、専門の弁護士から裁判をちらつかせたことでようやく削除してくれた。

だが、将が大物政治家の息子であることは、ネット世界ではあっという間に広まり、誰の息子かということでもちきりになった。

もちろん『大物』『その年齢に近い息子がいる』という条件だけで、鷹枝康三の名前は最有力とされた。それを知った康三は頭を抱えた。

将が自分の息子であることが世間にバレるのは、もう少し時間が経って、将の過去の『やんちゃ』が薄れてからのほうが……できれば、来年の総裁選のあとになるのが望ましかったからだ。

 
 

康三や裏方の苦労をよそに、将はエアコンをきかせた車の中でメイクを塗りなおしてもらいながら、今ごろ巌はどうしているかを考えていた。

あれから、仕事漬けになっているうちに、あっという間に1週間が経ってしまった。

暇を見つけて帰るといったけれど、暇などないも同然だった。

せいぜい、電話をするぐらいだが、そのたびにあゆみが出て

「巌さんは、お休みになっておられます」

と答えるばかりだった。

何でも、大磯に戻ってきた安心感なのか、それともやはり疲れがたまったのか、巌は1日の大半を眠ってすごしているというのだ。

「容態が悪いというわけではありませんのでご安心ください。脈拍も安定していますし……」

あゆみはそういったものの、将は心配だった。

だから休んでいた間にたまった仕事が一段落したその翌々日、夜11時に仕事が終わったのにもかかわらず、ミニを飛ばして将は大磯を訪れた。

次の日の仕事は正午からだから、朝までは巌の顔を見ることができる。

大磯に着いたのは、夜12時をすぎていたが、あゆみは起きて将の到着を待っていてくれた。

土と木が多い巌の邸宅付近は、東京のように夜も汗ばむような暑さがまとわりつくこともない。

将は襖を開けてそっと巌の部屋をのぞいたが、暗くて目の前の蚊帳ばかりが反射して巌の寝台はほとんど見えなかった。

ただ、耳をすますと、虫の声の中に幽かに寝息が聞こえた。

「将さん、お疲れでしょう。お風呂用意しましたから、お休みなさいませ……」

あゆみが囁くように背後で呼びかけた。

「ヒージーは、朝は何時に起きるの?」

「まちまちですけれど最近は……8時とか9時でしょうか。前のようにお早くお起きになることはないです」

以前、夏場なら朝5時には起きていた巌としては信じがたいことだ。

「それでも、土曜日の将さんのドラマは、お起きになってご覧になられていましたよ。よくお笑いになっていました」

あゆみは、だから大丈夫だ、と将にもう休むようにと促した。

 
 

翌日、疲れているのに将は7時前に起きてしまった。

寝巻きのまま、巌の寝室をのぞいたのだが、障子からの柔らかな朝の光りの中、巌はまだ眠っていた。

「あら将様、おはようございます」

朝食の支度を始めようとしたハルさんが、襖をのぞきこむ将に気付いて挨拶した。

「ヒージー、いつも遅いの?」

「ええ。最近のお目覚めは9時すぎですよ」

やはり、あゆみの言うとおりらしい。

「ハルさん。ヒージーのおかゆ、かまどで作っていい?……俺、火炊くから」

「将さま」

「な?……俺、着替えてくる」

小柄なハルさんは、真上を向くようにして将を見上げた。

巌がかまどで炊いたご飯を何より愛していることを知っている将は、自分がいるときぐらいそれをしてやりたいと思ったのだ。

将は着替えると、使わないまま積んである薪を鉈で細めに割った。

そして炊き口にしゃがみこみ、新聞紙にマッチで火をつけた。

夏の湿気を吸い込んだ薪は、なかなか乾かず、煙ばかりがもくもくと立ち込めたが、将は咽ながらも辛抱強く火を起こし続けた。

『最初は、木の皮の部分から燃やすんじゃ』

やっと赤い色で踊り始めた火のなかに子供の頃にならった巌の声が蘇る。

パリと東京、といった都会育ちの将に、火の起こし方を教えたのは巌だった。

火が燃えるのが面白くて次々と太い薪をくべようとする8歳の将をたしなめるように、巌はそう言った。

事実、将がくべた太い薪は、燃えずに火勢を弱めるばかりだった。

『空気が入るように、薪を組むんじゃ。湿気た薪は少し外側に置いて辛抱強く乾かして……そうじゃ』

18になった将は巧く火を起こすことができる。鉈だって思ったところに振り下ろせる。それを教えてくれた巌は……もうすぐ逝ってしまうだろう。おそらく。

煙にむせて涙が出るフリをしながら、将はいつしか思い出に涙を流していた。

 
 

おかゆがようやく出来上がった。

「お起きになられましたよ」

土間の方の台所にいる将に、起きてきたあゆみが声をかけた。

将は、ハルさんが用意してくれた細かく刻んだぬか漬けや、みそ汁と共におかゆをお盆に載せて巌の部屋に入った。

「将か。……今朝は薪の匂いで目覚めた。おかげでいい目覚めだった」

巌は可動式ベッドに寄りかかったまま、将に微笑みかけた。

先週より、その姿はいちだんと小さく、声は弱弱しくなった気がした。

「寝坊になったな、ヒージー」

将は、そんな風に生命力が弱った巌を認めたくないから、いつも通りにふるまう。

将の後ろから入ってきたハルさんと西嶋は素早く、かつそっと将が座る食卓を準備している。

「年をとると……日いちにちと、赤ん坊に戻っていくようだ。眠っても眠っても、飽きない……。眠ると楽しい夢ばかりを見る」

「森村先生の夢?」

将は元気付けたくて、わざと茶化すように口にした。

「お前の夢も見るぞ。小さくて可愛かった頃のな」

巌はいつものように悪戯気な顔で笑って見せた。

「どうせ今はバカでかくて、憎たらしいけどな」

将が応酬してみせる向こう側であゆみが、将の炊いた粥をふうふうと冷まして「少し熱いですよ」と巌の口に近づけた。

粥を口に入れた巌は、その熱さが嬉しいとばかりに、はふはふと顔をほころばせた。

「……うまい。同じ粥でも、やはりかまどで炊いたものは違う。甘くてふっくらしておる」

巌は嬉しげに顔をくずした。

「将よ、ありがとう。本当にありがとう。今生のよい想い出じゃ……」

美味しい、美味しいと繰り返しながら粥を味わいつつも、巌の食欲は、将が知っているそれより目に見えて細くなっていた。

そして、食べ終わると再び眠り込んでしまった。将はまだ、食事の途中だった。

「これでも今日はずいぶんお食べになったほうですよ。ねえ」

あゆみはハルさんを見た。ハルさんも、うなづいた。

「今日は、おかゆをぜんぶ召し上がりましたもの。最近は1口、2口は残されますから……」

将は、満腹したのか気持ちよさそうに眠っている巌を見つめた。

本人がいったとおり、赤ん坊を思わせる無心な表情だった。

皺だらけの老人でありながら、わずかに残るまっ白な髪をはじめ、眉毛や睫も白くなったその顔は、どことなく無垢な趣があった。

巌はそのまま、将が東京へ発つときも起きなかった。

将は、まっ白なシーツと掛け布団にくるまれて赤ん坊のようにすやすやと眠る巌に

「じゃ、ヒージー、また来るよ」

と語りかけて、大磯を後にした。

それが……将が生きた巌を見た最後だった。

翌日の未明、巌は100年の生涯を静かに終えたのだった。
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