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第14章 最後の夏空

第250話 遺言(2)

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「俺……知らないよ」

将は金色が徐々に赤みがかっていく空が見える縁側でつぶやいた。傍らには渦をまく蚊取り線香が置かれている。

打ち水で立ちのぼった土の香り、そして蚊取り線香の香り。これらは夏の夕暮れの気配をより濃厚にしている。

康三らは帰り、もとどおり縁側に沿うようにして巌のベッドは置かれている。

日が落ちてからは、待ちわびたようにいったんエアコンは止められ、蚊帳がつるされた。

夕風は、それで充分なほど、昼間の暑さを黙らせて、涼やかさを連れて来た。

いつも巌の傍らに寄り添うあゆみは風呂をもらっているところで、今、ここには巌と将の2人だけだ。

「生まれた順番だから、跡取なんて言われても……そんなのおかしいよ」

将は時間の経過につれ浮かび上がるような蚊取り線香の赤い火を見つめながらつぶやいた。

巌は、ふ、と笑みを浮かべて縁側にシルエットになった将の背中をみやった。

「わしの目はそれほど節穴ではないぞ」

夕食を終えたばかりで力がみなぎってきたのか、しっかりとした声で将に語りかける。

将は蚊取り線香と同じ色の蚊帳の中にいる巌を振り返った。

こちらが暗いのと、ベッドのわきに行燈があるから、中は透けてよく見える。

「だって……寺の系図に。長男が相続するって……」

将は、母の命日に菩提寺で見た、系図のことを口にしてみる。

「あれは、たまたまじゃ。もしお前の代で変えたければ、変えてもかまわん。ただし」

巌は意外にもそんなことを言ったあとで、

「長幼の序というのは、一理ある」

と付け加えた。腑に落ちない顔をしているであろう将に巌は続ける。

「早くに親の乳離れを強いられ、幼い弟妹の世話をしているうちに、おのずから強い忍耐力と統率力が鍛えられるのだ。

……もっとも最近は甘やかすばかりで長男をダメにする親も多いがな。お前の母の環さんは違った」

母の名前が出て、将は蚊取り線香の渦巻きの中に必死でおぼろげな母の顔を思い出そうとした。

しかし将が母のことで思い出すことといったら、ロマと一緒に出奔した際に、思い切りぶたれたこと、そしてあと抱きしめられたこと、それと病床のアネモネぐらいだ。

片手で数えられるほどの記憶を将はたぐりよせてみる。

「環さんはお前を厳しく躾けた。お前は生まれつき大変優秀な子供だった。普通の親だったら褒めてダメにするところだ。

『褒めて育てる』などというが、それは並みの子供を並に育てる際にすることじゃ。

学校で褒められるような優秀な子ほど、社会に出るまでは親が厳しくして精神力を鍛えてやらねば、社会の厳しさに挫折してしまう。

社会は勉強や運動が出来るだけでは渡っていけないからのう。

引きこもりやら、ニートなんてのは得てして、精神力と能力がアンバランスに育ってしまい、社会の厳しさに負けたよい例じゃ」

巌は持論を展開しつつ、将の実母の環を称えた。

「……自信をつけてやるのと甘やかすのは別の話じゃ。環さんはそれをよくわかっておった」

確かに、将は母親に甘やかされた記憶がない。

もっとも、フランスにいた将は、まわりの子を見てもそれがあたりまえだったので自分がことさらに不幸だと思ったことはない。

それよりも日本に帰ってきてから、スーパーでひっくり返ってダダをこねる自分と同年輩の子、またそれが恥かしいから、と折れて菓子を買ってやる親を見て逆にびっくりしたものだ。

または「みんなが見てるからやめなさい」というセリフ。

では、みんなが見ていなければやってもいいのか、と将は子供心に可笑しかった。

「それだけでなく、お前は母を早くに亡くしてしまった分、芯が強い。そして情愛に飢えた分、その大切さが身に沁みておる。

康三や純代さんに反抗したのもその裏返しだろう。お前は大変に誇り高い人間だからな」

年若い将は、誇り高いという言葉が居心地悪い。

将の年代で『誇り高い』『プライドが高い』という単語は、単にワガママで見栄張りと混同されている節がある。

用例を出せば『あの娘はプライドが高いから、ブランド品しか持たない』などだ。

もちろん国語力が際立って高い将は、その用例が間違っていることを知っている。

だが、なんとなくその言葉は、自分を形容する言葉としては面映かった。そんなことを将が感じているとは知らず、巌は続ける。

「誇り、というものは非常に大切だ。誇りのない人間は、他人の気をひくためや、金のため、生活のために簡単に魂を売り渡す。

ワシが入院していた病院にもな、バカめが毎日のようにお追従をのべにきよったわ……」

東京で巌が入院していた病院は、マスコミなどもシャットアウトする体制が出来ているとあって、要人御用達だった。

ゆえにそこは、汚職や言い訳のできないことをしでかした悪徳な政治家が逃げ込む場所でもあった。

健康でピンピンしているのに、『体調不良』を理由に入院している議員や官僚が、政界の大御所たる巌の入院にこぞって頭をさげに来たのだ。

巌は怒鳴りつけたかったが、言葉が不自由なこともあり、睨みつけるしかできなかったのだが、その冷たい視線に、そんな輩はほうほうの体で病室から逃げ出したものだ。

「己れが己れたるための誇りというものがある。ときとして、その誇りのために命を賭す場合もある。お前はそれに耐え得るだろう」

将は、それは買いかぶりだと思った。

脳裏の暗闇に瑞樹、そして大悟の顔が浮かぶ。

人殺しの罪を被せた上に、薬物依存から救い出すこともできなかった大悟……。

「俺よりも」

将は顔をあげて巌の瞳を見ようとして挫折した。視線は墜落して蚊取り線香に戻る。

「……孝太のほうが、血筋がいいんじゃないの」

孝太の実母である純代はやはり総理を輩出した岸田家の娘である。

「孝太はな。康三に似たのか、優しすぎる」

将は本当に驚いた。あの康三が優しい? 実母以上に、康三に可愛がってもらった記憶などない。

「オヤジが優しいって? ウッソだろ」

思わず将は、心のままを吐き出すようにしてしまった。

すると巌は楽しげに笑い声をたてた。

「ホッホッホ。覚えていないのか。お前が4つぐらいまで、康三はそれこそ舐めるように可愛がっておったんだがのう」

「……」

巌が語る康三の姿は将の記憶とはつながらない。だいたい、孝太に対してだって、そんな様子は見せたことはないのだから。

「家では威張っているんだろうが、あいつは穏やかすぎて、外ではケンカができん。だから皆に好かれるし、票集めは得意だろう」

巌は将の前で初めて父親を評し始めた。こんなことは初めてだ。

「次期総理などと、もてはやされているようだが、あいつは敢えて敵を作ることも、それを抑えこむこともできない。

……みておれ。あれが総理になったとたんに、大泉くんに押さえられていた魑魅魍魎どもが息を吹き返すぞ」

現大泉総理は、いままでの与党総理の中では画期的な改革を進めた。

おかげで『族議員』といわれる与党の古株たちはつねにホゾを噛み続けて来たといえる。

株式投資のために、世情を掴む必要のあった将も、そのあたりはだいたい知っている。

しかし自分にはかように厳しいあの父親が、世間的には穏やかで優しいという評価だとは知らなかった。

「将。わしが何故にお前に、『将』の名を与えたか知っているか」

巌は声の調子を変えて、将に問うた。

「孟子だか韓愈だかの漢文だろ」

「そうだ」

巌は満足そうにうなづいた。

いつのまに、空が赤く染まっている。あの、菩提寺で見たのより、いっそう明るい紅(くれない)。

「お前は、その名前に相応しい、豪胆さを身につけたはずだ……」

その紅色は、軒に隠れて、巌からは見えないらしい。巌は言葉をつむぐのをやめない。

「よいか、将。お前は罪を犯した。理由はともあれ、それは、人の罪の中で最も重いものだ」

将は空に見とれていた瞳を、思わず巌に戻した。

行燈に浮かび上がる巌は、言葉とはうらはらに穏やかだった。

「誰を守るためにしても、他人の命を奪ったことには変わりない」

あのとき、はっきりと言えなかった、将が人殺しにいたった理由を、巌は誰かに調べさせたのだろう。将はうつむいた。

腕に蚊が静かに止まった。それを叩きつぶそうとした手が……止まってしまう。

「しかしだ。その罪の意識ゆえ、お前はつねに正義をも意識して生きることになる。そして苦しむ人々をもまのあたりにしたはずだ」

再び大悟と瑞樹が蘇る。父に捨てられたような……父の代わりに借金取りに殴られる大悟。

生活のために犯罪に手を染めざるを得なかった大悟。

そして瑞樹。実母に虐待され、義父に犯され、帰る家もなかった瑞樹。

恵まれた社会とは、誰が言ったのだろうか。

将が垣間見た社会は、あまりにもすさんでいた。

蚊は将の血潮で腹を満たすと飛び立っていった。かすかにそこが痒い。

「将よ。……こっちへ来い」

巌は将を呼んだ。将は立ち上がると、蚊帳を静かにめくって巌の枕辺に立った。

巌は将のほうへ、ぶるぶると手を動かして言った。

「お前の誇り高き魂は……苦しむ人々とそれを守るべく在る国家のために使え」

将は三たび、巌の顔を見た。行燈に照らされた顔は、黄昏の薄闇の中で、いっそう厳かに見えた。目は稲妻のように光って将を見据えた。

将は、刀を受け取ったときと同じく……身震いするほどの緊張を覚えた。

「人気商売の世界で勉強するもよい。……だが、いずれ必ず、お国のために尽くせ。国土を喰らって肥え太る蛆虫どもを叩きだし、国を正すのじゃ」

将は緊張に耐えられず、

「何、俺にレーガンやシュワちゃんになれっていうの?」

とおどけてみた。巌は何も言わずに、目を細めると稲妻のような視線を弱めた。

「……将。これは、ワシの遺言だからな」

と微笑んだ巌に、将のほうが険しい顔になった。

「まだ早いよ! ヒージー」

「ところで……将よ、あきらさんに連絡はしたか」

巌は将の険しい顔を解くべく、聡の名前を出した。将は首を横に振る。

「何だ。早く呼べ」

「何でだよ」

「ワシが会いたいんじゃ。いろいろ話しておきたいことがあるんじゃ」

えー、ともったいぶる将に、

「明日がいい。お前はまた忙しくなるんだろう。明日来るように……今ここで電話しろ」

と巌は命令した。

将は言われて仕方なく……しかしさっきとは違った緊張を感じながら携帯を耳にあてた。

巌はそんな将を穏やかな笑顔で見守った。
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