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第13章 死闘

第245話 裏切り

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「危ないっ」

「あはは、泥棒に入ろうとして身動き取れなくなっちゃったのかな」

「早く消防を!」

「それより下に、やわらかいものを!」

人々は口々に言いながらも、大悟から目が離せないらしい。

将も上を向いたまま聡の手を引いて、マンションのさらに近くへとやってきた。そこは野次馬でごったがえしていた。

大悟は、将の部屋があるマンションの真ん中付近ではなく、どうやって行ったのかわからないがバルコニーづたいに角部屋まで来ていた。

手を上にめいっぱいに伸ばした状態で10階のバルコニーの下につかまり、足は9Fのバルコニーのてすりに着いた状態で身動きがとれなくなっていた。

「あそこの角部屋に人はいないの?」

「どうやら留守らしいよ」

そんな声も聞こえてくる。

「大悟っ!」

将は人ごみを掻き分けるようにして、マンションのエントランスへ進もうとしたが、野次馬が多くてなかなかたどりつけない。

「すいません!マンションの住民です!」

「通してください」

人ごみより首一つ高い将の傷だらけの顔に、皆一瞬大悟を忘れて視線を投げたが、緊急事態である大悟のほうに戻っていく。

将が立ち往生しているうちに、サイレンが聞こえた。

商店街の反対側から、はしご車がやってきたのだ。後ろにはパトカーもいる。

『どいてください!救助の邪魔になります!どいてください』

レスキュー隊は、丁寧語ながら、かなり乱暴な調子で野次馬にスピーカーで呼びかけて退散させた。

あっという間に、人垣ははしご車を遠巻きにするように後退した。

レスキュー隊を乗せたはしご車が、スルスルとあがっていく。

角部屋の下あたりには、空気を入れたマットが素早く用意されている。

将は救助のようすを静観するしかなかった。腕をぎゅっと掴む聡の手にそっと自分の手を乗せる。

直射日光がじりじりと頭髪を焼く。アスファルトから熱気が昇ってくるのがわかる。

人々は、皆固唾を飲んで、はしご車の行く先を見つめた。

……ついにレスキュー隊を乗せたはしご車が大悟の高さまで到達した。

だが、レスキュー隊が救助しようと大悟に手を伸ばしたとたん。

「離せ!俺にさわるな!」

大悟が激しく抵抗しようとする叫び声は下まで届いた。

手を口にあてるものあり、より面白いと目を輝かせるものあり、で見物人はそれぞれにどよめいた。

しかし、大悟の抵抗は声だけだった。

少しでもバランスを崩せば落ちる、という状態で、身動きが取れないらしい。

あれよあれよという間に胴体に命綱がつけられ……あとはレスキュー隊のなすがままだった。

それっきり静かになった大悟を乗せたはしごが地上近くまで縮んでくれたとき、将は一安心すると同時に、ハッとする。

「将?」

将は聡の手を振り払うと、解散しはじめる野次馬の中をかきわけて、はしご車の近くに近寄った。はしご車の後ろにはパトカーがいる……。

レスキュー隊に抱えられるようにしてようやく地上に降り立った大悟は、放心したような目をしていた。

「大悟……ッ」

将が大悟に寄る前に、警官が大悟の前に素早く立ちはだかった。

「事情をお聞かせ願えますか」

丁重だけれど、有無を言わせない厳格さで大悟に詰め寄る。

放心した目を地面の方に向けていた大悟は、そのやせ細った顔をゆっくりとあげた。

その目は警官の向こうに、将の姿を見つけた。

「将」

大悟の瞳は、一瞬、とてつもなく哀しげな色を見せた。

「将、俺を裏切るのか」

大悟は低い声で静かに呟いた。

「大悟」

ちがう、と将は警官の前に進み出ようとして、他の警官に肩をつかまれて阻止される。

「俺を、裏切るんだな」

荒くなる吐息と一緒に、将への失望を投げると大悟は目をカッと見開いた。

「俺を見捨てるんだな!そうだな!将ッ!」

咆哮をあげる。飛び散る唾と汗が強い光にキラキラと輝くのが見える。

そして、一瞬の隙をついて、肩を支えていたレスキュー隊員を素早く振り払う。

すべてが、将の目の前でスローモーションのように見えた。

レスキュー隊員がはずみで転ぶ。いっせいに大悟に飛びかかる警官。

周囲の悲鳴。

灼熱のアスファルトに組み伏せられる大悟。

「離せー!離せよッ!離せええ!!」

喉も破けんばかりの大悟の喚き声。

大悟は、警官に組み伏せられながら、立ち尽くしている将を見上げた。

照りつける夏の日差しがつくる影で、その汗まみれの骸骨のような顔はいっそう彫が深く悲愴な顔に見えた。

ようやく、警官に脇を固定されながら、大悟は立つことを許された。

「ずっと……ずっと一緒にいるっていったくせに……俺を見捨てるんだな!将」

大悟は、なおも将に向かって叫ぶ。

「コラ、黙れ」

と警官にこづかれながらも

「何とか言えよ!将」

と怒鳴る。

だけど、傷だらけの顔に直射日光を浴びながら、将は何も出来ずに立ち尽くしているのだった。

「将!おい!将!ショオオオウ!」

大悟は無理やりパトカーに押し込まれている最中もずっと叫び続けていた。

……いや、パトカーのドアが閉まっても、将の耳にはずっと聞こえ続けていた。

蝉時雨も、商店街の喧騒も、頭の中に反響する大悟の叫び声でかき消されてしまった……。

 
 

空いっぱいを燃やすようにして雲が茜色に焦がれている。今日最後の輝きとばかりに。

将は窓にうつるそんな空に背を向けて部屋に座り込んでいた。

やがて、けばけばしいネオンのピンク色のように輝いていた夕空は、火が消えたように灰色に沈黙した。

灯りもつけない部屋は、なすすべもなく暗くなり……将は濃い紫色の影の中に溶け込むかのようにじっとしていた。

明け方まで大悟と共に闘っていた部屋は、見るも無残に散らかっている。

包丁を振り回していたときに散乱したのだろうか、クッションの中身のビーズのようなものが一面に広がっている。

フローリングはところどころ、血痕で汚れてさえいる。

しかし、将はそれを片付けもせず、独り、ぽつんと座っていた。

さっきからしきりにメールの着信音がある。聡だ。

聡が心配して、メールを送ってくれているのだ。

将はそれが鳴るたびに携帯を拾い上げて読む。

心が慰められるのは確かだけれど、返事をする気にはなれなかった。

『俺を見捨てないでくれ』

と今朝、大悟は訴えた。その、涙でぐちゃぐちゃの顔が頭から離れない。

『俺を裏切るんだな、将』

それはさっきの鋭い咆哮とセットになっていた。

そのとき、固定電話が鳴った。出ないでいると、留守番電話になる。メッセージを録音する声がはじまった。

『毛利です。島くんは、矯正病院への入所が決まりました』

将は顔をあげた。

黄昏のわずかな光りの中で、明け方まで将と大悟の二人をつないでいた手錠が鈍く光っていた。

――結局、なんにもしてやれなかった。

将は叫び声をあげると、それを床に投げつけた。

 
 

あのとき将は、大悟を押し込んで、最後にパトカーに乗り込もうとする警官にすがった。

「あの、俺、同居人なんですけど」

「じゃあ、あとで署まで迎えに来てください」

警官はそういうと、パトカーに乗り込んだ。パトカーは将を残して発進した。

パトカーを追って思わず、前のめりになる将の前に、スーツ姿の男が現れた。

毛利だった。

なぜ、そこに毛利がいるのか、瞬時にわかった将は目を見開いたまま凍りついた。

将にすがろうとしていた聡も、毛利の姿を見て、将の数歩後ろで思わず立ち止まった。

「もう……り」

「誤解しないで下さい」

毛利は淡々と言った。傷だらけの将の顔にも、まるで動揺を示さない。

この暑い中、きっちりとスーツを着こんで、汗すらかいている様子が見えない毛利。

この男は、本当に冷血動物なのかもしれないと将は心の隅で少しおびえる。

「整形外科医から実家にご連絡がありました。それで駆けつけましたら、あんなことになっていたのです……」

さっきの病院の医師が、実家に連絡したというのか。

「警察は私が呼んだのではありません」

それは言い逃れにしか聞こえなくて、将は不審を態度で示す。それへの回答のように

「実は……島大悟くんの覚醒剤常用については、2週間ほど前からマークしていました」

毛利は意外なことを報告した。

「それで、警察にチクッたのか」

「チクってなど、いません」

毛利は、さりげなく日陰に移動しながらも、将のほうにまっすぐに視線を向けた。

「そんなことをしたら、将さままで疑われますから……わたくしは、将さまが疑われることなく、なんとか島くんを矯正病院に入院させる方策を練っておりました」

将はまだ信じられなくて毛利を睨みつける。

しかし、腫れ上がった瞼があかないおかげで、毛利の方は睨みつけられたことに気付かないらしい。いや、気付いても動じないだけなのかもしれない。

「でも調べるうちに……島くんは……覚醒剤代を稼ぐために、暴力団の下部組織で、振り込め詐欺グループに加担さえしていたことがわかりました」

「あ……」

将は、伊豆から帰った日に、クラブで見た男達を思い出した。

「繰り返すようですが、警察は私が呼んだのではありません。警察もまだ島くんが、暴力団に関わっていたことは知らないはずです」

毛利はあくまでも淡々と続ける。

「……ですが、島くんは、そのまま矯正病院に入院することになると思います。その手はずだけは取らせていただきました」

将は、数歩後ろの日陰から聡が心配そうに見ていることも気づかずに、夏空の下、立ち尽くしていた。

じっとりと、テープだらけの顔を汗がつたっていく。
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