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第13章 死闘

第243話 死闘(4)

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聡は振り向くなり、目を丸く見開いた。将の様子にショックを受けたようだった。

将も思いがけないところでの聡との再会に心臓が止まるかと思った。

だが、聡の驚きの表情で冷静さを取り戻すと、二人のところへ右足をひきずりながら歩いていった。

「しょ……鷹枝くん、どうしたの!そのキズ」

聡は将の足先から顔まで見上げると目を真ん丸くしたまま問い掛けた。

「センセーこそ、こんなところでどうしたの」

本当は抱きしめたい。だけど『生徒らしい』演技は忘れない。

そして将に貼り付いたような聡の視線から、ついと顔をそらすと

「こんにちは。山口さん。ちょっと相談があって来たんだけど」

と看護師の山口にまじめな声で話し掛けた。

「何よ、いったい」

将は聡の顔に視線をちらっと走らせると、

「ちょっと、ヒトに聞かれたくない話なんだ」

と声のトーンを落とす。

 

山口は今日は11時から昼休みだという。そのときに相談に乗ると約束して診察室に消えた。

だから、将は成り行き上、内科病棟の待合室の隅に聡と並んで座っている。

「センセーは、どうしたの。今日は学校じゃないの」

月曜日の今日は、補習があるはずだ。

「最近ちょっと、貧血気味でね。検査してもらったの」

将は思わず聡を振り返る。その心配する顔に気付いた聡は

「大丈夫よ。結果は単なる夏バテだろうって、栄養剤なんかを処方されたわ。……お弁当屋さんで働いていたころは何ともなかったのにね」

と微笑んだ。たしかにその顔は、すこし青白いように見えた。

「びっくりした。まさかニンシンしたんじゃないかって……」

将は安心してつい、そんなことを口走ってしまった。

聡は目をむいて将を振り返ると、小さな声で『バカ』といった。

「そんなこと、絶対ありえないし。……あたし、周期とっても正確なんだから」

「へーえ。覚えとこ」

「んもうっ!」

拳を振り上げるふりをした聡は、その手を振り上げたまま止める。

「将……そのケガはどうしたの」

「んー。ちょっとね」

笑いながら防御の体制をとっていた将は、ベンチに寄りかかるように座りなおした。

姿勢を変えたら肋骨がまた痛んだのか「イテ」と小さく漏らす。

「……大悟くん?そうなのね」

聡は終業式の日に、将のマンションのエントランスで偶然会った大悟の異様な激ヤセぶりを思い出していた。

たしか、死んだ瑞樹が薬物に依存していたと聞いたことがある。

なぜ、それを今思い出すのか。聡は自問自答しながら、頭はとっくに回答をはじきだしていたのだ。

「大悟くんが、やったのね」

「違うよ~ん」

ふざけた調子をつくりながらも将はそっぽを向いた。

「あたし、見たの。大悟くんがありえないほど痩せてるのを。大悟くん……薬物をやってるんでしょ」

薬物、のくだりで、聡は声のトーンを最低に落とした。隅っことはいえ待合室だから。

「違うってば。これはね、ナイショだけどフクロにされたの」

あいかわらず将はそっぽを向いている。

「ウソ。おとついからあんなにひどい台風だったのに?」

「……」

「将。あたしにウソをつかないで」

聡の上半身は完全に将のほうを向いている。

丸く開いたタンクトップの襟からは、吸い込まれそうな胸の谷間がのぞけた。

こんなに全身傷だらけなのに、将はむしょうに聡を抱きたいと思った。

「アキラ、『将』って呼んだじゃん」

ふざけているのは、自分の中で一触即発の欲望をはぐらかすためでもある。

「はぐらかさないで」

聡は真剣に怒ったような声を出したあと、

「心配なの……」

と目を伏せた。長い睫がしばたくのが見える。

「アキラ……」

抱きしめたい。今度は欲望とは別のところで盛り上がる感情。将はそんなせつなさをぐっと飲み込んで耐える。

「俺は大丈夫だから。大悟も絶対、なおるから……」

「こんなにボロボロになってるのに?」

聡は顔をあげると、将の腫れ上がった顔を見た。

……その惨状に、聡の眉は大きくゆがみ、心配のあまり、とうとう涙がこぼれた。

「ごめん」

聡は顔を伏せて将にいきなり泣いたことを謝る。前を向いて座りなおすと、バッグからハンカチを取り出して、噴き出した涙を拭った。

聡の涙を見て、将は心が温かいもので満たされていくのを感じた。

体はまだあちこち悲鳴をあげているけれど、聡の思いは……それらにそっと乾いたガーゼをあててくれるようだ。

「なおるって、ことは、今は薬物に依存してるんだよね」

聡は涙声ながら冷静に言及した。もう将は否定しなかった。

聡を見つめる腫れた瞼の下のつらそうな瞳が、聡の予想があたっていることを物語る。

「将がそんなになるまで暴れるなんて……依存症専門の病院じゃないと無理だよ。たぶん」

「詳しいな、アキラ」

「このまえ……教師向けに薬物汚染の講習会があったの」

高校生はおろか、中学生、小学生に及ぶまで薬物汚染が進んでいる昨今。

撲滅に向けて、正しい知識と対処法などの講習が教育関係者に向けて、都で開催されたのだ。

「大悟くん、病院で治してもらったほうがいいよ」

聡は涙のせいで出た鼻水を啜りながら、もう一度将を振り向いた。

将は首を振った。

「病院にいったら……覚せい剤所持で捕まっちまうだろ」

逮捕されたら。せっかく大悟を養子縁組しようとしてくれている西嶋は。

きっと、養子縁組を反古にするどころか、保護者も辞めると言い出すかもしれない。将はそれを恐れたのだ。

「病院と警察は連携していないと思うわ。自主的にやめたい人だって行くっていうし。ねえ……将。専門家に任せたほうがいいよ」

聡は将の右腕をそっと握った。その延長上には、サポーターに包まれた右手首がある。さっき3針縫った……。

「俺……あいつに、……大悟に絶対に見捨てないでくれって、頼まれているんだ」

といいつつ、将は目を閉じるとつらそうに俯いた。将とて、もう限界なのだ。

この傷が出来た、昨日の夜更けが蘇っていた。

 
 

あれから将は、瑞樹が遺したと思われる手錠で、自分の右手と意識を失っている大悟の左手をつないだ。

まもなく目を覚ました大悟は、いつものように最初は正気だった。

傷だらけの将の顔を見て心底驚いたようだった。そして繋がれた左手を見て、

「こんなことまでさせて、済まない」

と頭を下げた。

しかし、すぐに依存への異常行動と錯乱が始まった大悟は、手錠をどうにかしようとやっきになった。

鎖を切ろうとして包丁を取り出した大悟を見たときは、このまま殺されるかもしれない、と覚悟した。

自分の死体をひきずって、大悟は薬を受け取りにいくのだろうか、と将は一瞬その姿を想像したほどだ。

しかし、金属の鎖がステンレスの包丁で切れるはずはなく……狂気の大悟は、なんと将の右腕を切り落とそうと包丁を振り回し始めた。

将が右手をかばうたびに、大悟の左手はそれを引っ張り出すべく手錠の鎖を力任せに引っ張った。

そして何度も将の右手首をめがけて、包丁が勢いよく振り落とされた。

その勢いは……例えステンレスの包丁でも、腕を骨ごと切断してしまいそうだった。

大悟の目は、狂気に見開かれ……包丁は将の右腕を的確にめがけて振り下ろされる。

将は闇雲に体重をかけて手錠を引っ張って逃れながら何度も、次こそ自分の右手首から先がなくなっているのではないか、と震撼した。

辛くも、包丁の刃先を逃れた将の腕は無事だから、今こうしてあるのだけれど。

 

そのあと、大悟が力尽きたときに、包丁は隠せたが、手錠を引っ張り合っての格闘は深夜にもう一度あり……、将は心身ともに満身創痍の限界になった。

だが、明け方。力尽きた大悟は、自らすすんで睡眠薬を飲むと嗚咽した。

疲れた将は手錠をつけたまま、なぜかキッチンに仰向けに横たわっていた。

大悟が、シンクの下の戸棚に寄りかかって床に座り込んでいる。

「将……ゴメン。ごめん……」

と子供のように泣いている。

きっと自分は死んだ魚のような目をしているんだろう。

ぼやけた視界が現実なのかどうかも、もうどうでもいい。

ただキッチンの青白い蛍光灯が、目障りだと思った。だがどうすることもできない。

「しょう……。痛いだろ」

大悟は泣きながら、将の裂けた手首に包帯を巻こうとしているらしい。

薬箱はキッチンに置いてある。それで、キッチンにいるんだ、と将は泥になった脳でようやく思いついた。

手錠を何度も引っ張りあったせいで、将の右手首の皮膚は裂け、血が噴き出していた。

将の血で点々と汚れたリビングのフローリングには、包丁の突き刺さったあとが何箇所も残っている。

しかし、大悟はこきざみに痙攣しているせいか、包帯はうまく巻けない。

将は、大悟を見ると、首をわずかに振った。

『もういい』という意味だ。

死にたくはない。だけど死ぬなら、それでも仕方がない。

それだけのことを大悟にも瑞樹にもしてきたのだろうから。

将は天の裁きを受けるのに相応しく、心も静かに横たわっていた。体中の痛みもどうでもよかった。

大悟は、涙をボロボロとこぼしながら、

「将。頼む。頼むよ」

となにやら訴えている。嗚咽する声がひっくり返ってしまっている。

――何を頼むんだ、大悟。もう俺はこれ以上、何もしてやれないぜ……。

将は目を閉じた。

「頼む。将。俺を見捨てないでくれ。俺を……見捨てないでくれ。俺をどこかにやらないでくれ」

それでも、まだ大悟は、将を頼っているのだ。

ふいに、中学の頃の二人が将の頭に蘇る。

――これって走馬灯ってやつ?やっぱり俺、死ぬのかな……。

と、そんな考えも走馬灯の前をちらりとよぎった。

そのとき将は確かに、家を出て行き場のない自分を助けてくれた13歳の大悟を、家裁で『刺したのは俺です』と証言したという15歳の大悟を瞼の裏に見た。

それはたった今起こったことのように鮮明に思えた。

将はゆっくりと瞼を開けた。

「ずっと……一緒だ。お前が立ち直るのを見届けてやる……」

ほとんど声にならなかったが、将はほとんど開かない瞳を大悟に向けて、唇を動かした。

それは大悟には聞こえたらしい。

やがて将の右手首の出血はなんとか止まり、睡眠薬がきいた大悟は安らかに、眠りに落ちていったのだ。
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