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第13章 死闘

第236話 汚染(2)

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雨は翌日まで降り続いたが、翌々日にはあがった。

強い陽射しが車のボンネットに反射して、朝だというのに頭痛が起きそうほど強烈に将の目を射抜く。

武藤は車の冷房をギンギンに効かせて待っていてくれた。彼女も濃いサングラスを掛けてハンドルを握っている。

「やっと晴れたわねえ。ずっとお天気が持ってくれるといいけど」

確かに木曜日の今日は晴れて、陽射しは強い。

だが、まだ梅雨が明け切れていないというのは、その頼りなげな薄い水色の空に現れていた。

それでも、夏本番を思わせる暑さは、すでに息苦しいほどに街を包んでいた。

じっとりとした湿気が、よりそう思わせるのかもしれない。

その湿り気を残したような薄青い空を眺めながら、将はもう少し梅雨が続いてほしいと思う。……大悟のために。

将が『おうち』のほうのマンションにいったん戻ることを許されているのは、雨のせいで学校に行く頻度が高いから、という理由である。

ここで梅雨明けが確定してしまえば、M区の寮に戻らなくてはならない。

せめて大悟が、薬から離れてしまうまで、『おうち』のほうにいたい、と将は思う。

 

覚醒剤を止めるとき、その常用度にもよるが、通常は禁断症状が襲う。

禁断症状と戦うであろう大悟をできるだけ援護したい将だが、学校や仕事を休むわけにはいかなかった。

しかしこの2日、将が一緒にいるとき、大悟は不気味なほど落ち着いていた。

「お前、禁断症状とか出ないの?」

「……いや、出てるよ。お前がいない間は、結構キテるけど」

「そうか……?」

あまりに落ち着いている大悟に少し疑惑を抱いた将は、その左腕に目をやった。

新しい注射痕はなさそうだ。前のものが薄くなって残っているだけだ。

それで、将は少し安心して

「がんばれよ」

と声をかけた。大悟は「ん」と短くうなづいた。

 

「そうだ将、来週、連休明けから伊豆ロケだからね。わかってると思うけど」

武藤は前を向いてハンドルを握ったまま、将に確認した。

将はそれが不安だった。3泊4日の伊豆ロケ。

その間、うちをずっと留守にしなくてはならない。

大悟は……大丈夫だろうか。禁断症状に耐えきれるだろうか。将は心配でたまらない。

将の心配は的中していた。

この時点ですでに大悟は、禁断症状との戦いに、実にあっさりと敗北していたのだ……。

 
 

今日は、スタジオで7話の台本が配られた。

「この回は、SHOくんが主人公だから」

台本と共にディレクターに言い渡されて将は驚いた。

「え?僕ですか?」

将は思わず訊き返した。

『ばくせん』は1話完結の学園コメディであるが、ストーリーのパターンは決まっている。

仲田雪絵が扮する女教師の教え子の1人が何か問題を起こすなり抱えるなりし、それを仲田雪絵が励まし、博徒らしい決め台詞と派手なアクションと共に解決するというパターンだ。

その、問題を起こす生徒役が、7話では将になるというわけだ。

メイン生徒5人に入っている将ではある。

だが、まだ演技経験が少ないという理由で、その役はおそらくまわってこないだろう、まわってきても複数のうちの1人だろうと武藤も将も予想していた。

それだけに、武藤は嬉しそうに「やったじゃない」と将の肩を叩いた。

将も、いつもより自分の出番が多い新しい台本を見ながら、責任と共にやりがいが湧いてくるのを感じていた。

 
 

翌金曜日、荒江高校では、1学期の終業式が行われた。

昨日に引き続いて晴れたこの日、体育館はうだるような暑さだった。

冗長な調子の校長の挨拶に、猛々しいほどの蝉の声が重なる。

教師も生徒も、早く終われ、と同じことを考えてじっとしていた。

聡もじっと座っているだけで、耳の後ろから流れた汗が首をつたい、胸の谷間へと転がり落ちるのを感じていた。

やっと終業式が終わると、皆に通知表を渡す。

結果はどうあれ、皆、晴れ晴れとした顔をしている。明日からの夏休みが嬉しいのだ。

撮影で出席できなかった将には、当然、通知表は渡していない。

生徒たちが帰ったあと、聡は冷房の効いた昼休みの職員室で、渡せなかった将の通知表を見つめた。

将の名前を見るだけで、心の柔らかいところを引っ掻かれたような感覚が蘇る。

そして、あの雨の夜の将のにおい……。

聡はそれを振り払うように、この通知表をどうするべきか、ということに頭を集中させる。

最近将と親しいらしい、星野みな子に託すことも思いついた。

大学進学希望の彼女は、夏休み中も平日に行われる補習にくることになっている。

いっとき、聡への態度がおかしかった彼女も、最近は前と同じように接してくれる。

むしろ、聡のほうが、将と仲がいい彼女への嫉妬を表面に出さないように努力しなくてはならなかった。

もちろん、学校一英語の成績がいい彼女だから、教師としての聡は彼女を信頼してもいる。

だから……ここのところ複雑な気持ちを秘めて、聡は、星野みな子に向かい合っているのだ。

聡は、星野みな子に移った思考を通知表に引き戻す。

通知表といえど個人情報だ。

できるだけ、将とは接触しないように、とあれこれ考えたが、やはり自ら渡しに行くしかないという結論に落ち着いた。

今日の帰り、久しぶりに夕食を、前にバイトしていた弁当屋で買って、そのついでに、将のマンションに寄って通知表を入れた封筒を投函しておけばいい――。

聡はそうすることに決めると、通知表を学校名が印刷された真新しい封筒に入れた。

それと、前から作っておいた、1学期の授業で使った洋楽と映画のセリフを入れたCD、

どうせ受けられないだろうけれど、大学受験者用の補習のスケジュールも同封しておく。

 

教員は、終業式といえど17時まで勤務がある。

それを終えて、聡は将のマンションと弁当屋がある商店街のほうへ向かった。

こっちのほうにくるのは久しぶりだ。いつ以来だろうか。

まといつくような夏の夕方の空気。聡は懐かしげにあたりを見渡した。

去年の今ごろ、塾講師と弁当屋のバイトをかけもちしていた自分がたしかにいたのだ……。

どこからか、焼き鳥が焼ける香ばしい匂いが流れてくる。それはこんな夏の夕暮れにとても似合っている。

――美智子でも誘って、生ビールでも飲みに行こうか。

聡はふと夕食の変更を考える。

――どっちにしても、まずは封筒を投函しないと。

そう判断すると、聡は将のマンションにまっすぐに向かった。

誰でも入れる自動ドアのエントランスからロビーに入る。

焼き鳥の匂いや商店街の賑やかさもシャットアウトされているのか、ロビーは静かだった。

すでにここにも冷房が効いているのか涼しい。

この先は、訪問者が各部屋へのインターフォンを押して、住人が入り口を開けるオートロック形式になっている。

郵便受けだったら、そこを通らなくても投函できるようになっている。

聡はこの時間だったら、同居している大悟もまだ戻っていないだろう、と考えて郵便受けに封筒を投函すべく、バッグから取り出した。

そのとき、背後の自動ドアが開く機械音ももどかしく、あわただしく誰かが駆け込んでくる足音がして聡は振り返った。

……一瞬、その痩せこけた男が誰か、聡にはわからなかった。

しかし、痩せて異様な形相ながらも、なお端正な顔だちから、大悟だとわかった。

「大悟くん!」

自分の横を通り過ぎようとする大悟に聡は声をかけた。

大悟は骸骨のような顔から転がり落ちそうなほど目を見開いて、聡のほうを睨んだ。

邪魔するな、というような恐ろしい目。聡は思わずひるんだ。

しかし、大悟は、声をかけたのが聡だとわかると、表情を少しだけ緩めた。

「先生」

「……久しぶりね。元気?」

聡は少しほっとした。しかし大悟は

「ハイ。……すいません、俺急いでるんで!」

と早口で言うと、自分でオートロックを開け、中に走りこんでしまった。

聡もそこへ続けばよかったのだが、タイミングを逸した。

立ち尽くした聡の前で、ドアは静かに閉まって静寂が戻った。

痩せて、変わり果てた大悟の顔。そして急いで駆け込む姿。

聡には何がなんだか理解できなかった。

ただ、異様すぎる印象が残った。

お腹の具合でも悪かったのだろうか、と自分を無理やり納得させると、聡は当初の予定通り、通知表を郵便受けに投函することにした。

 
 

大悟は、大きな音を立てて、金属のドアを閉めると、震える手でポケットから包みを取り出した。

大悟の手の上にはセロファンの小袋に入った白い薬がいくつかあった。

それを目にして、大きく息をつくと、なぜか将の部屋に入る。

将のセミダブルのベッドの前に大悟はひざまづくと、マットを持ち上げてその空間に腕を差し込んだ。

手探りでマットの隙間から取り出したのは、小さなポーチだ。

その中には新しい注射器が入ったケース、小瓶に入った消毒用アルコールが入っていた。

燈台元暗し。

大悟はなんと、将の部屋に、薬関係のものを隠していたのである。

大悟は何食わぬ顔でリビングのソファに腰掛けると、一式をテーブルの上に並べる。

そして屈みこむ様にして、白い薬の包みのうち、1つを慎重にコンタクトレンズのケースのような容器にあけた。

そこへミネラルウォーターを慎重に垂らす。

薬はわずかな水に、幻のようにあっさりと溶けた。

大悟は、ソファの上に素足をあげた。

裾をめくって足首を露出させる……そこには、すでにいくつかの痕跡があった。

注射針をいったんアルコールに浸し、さらにティッシュにアルコールをしみこませると、静脈が浮き出ている今日の位置を素早く、かつ丁寧に拭く。

注射器で、溶かした薬を目盛りまで吸い上げる。それを浮き出た足の静脈に刺した。

足への注射は難しい。

だが、手先が器用な大悟は、すぐにコツをつかんでしまった。痛みもたいしたことない、と思った。

薬を取り入れた血流はまもなく大悟の全身にまわり、禁断症状におびえた体をなだめていった。

大悟の耳は、ようやく騒がしい蝉の声を、『正常に』捉え始めた。
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