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第13章 死闘

第225話 さやえんどう

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将は、今日も授業が終わると、クラスマッチの練習をさぼって学校をあとにした。

あいにく、海に行くのにはいまいちの曇天だったので、将はヒージーが入院している病院に見舞に行くことにした。

ヒージーは将が海外ロケに行っている間に、東京の病院に転院していたのだ。

「将!」

ヒージーは病室の入り口に将の姿を見つけると、懐かしそうにその名前を呼んだ。

しかし……その声の大きさもそうだったが、可動式ベッドに横たわるその姿は以前よりずっと小さくなったように見えた。

その一流病院で、一番広い特別室の中ではいっそう、そのか細さがめだつようだった。

「く、く、くろ、くろく、なった、なあ」

運転手の西嶋によると、かなり普通に話せるようになったということだが、まだ麻痺が残っているらしい。

「く、くちが、まめ、まめらなくて。ぉお~、おかげで、あた、あたま、まで、も、も、モウロクしたように、思われて、困る……」

それでもヒージーは笑顔で将に手を伸ばした。

その、静脈が浮き出た腕の細さに将は胸が痛んだ。

「ヒージー……。ごめん。俺のせいで」

ヒージーの手の先で、自然に将は頭を垂れた。

ヒージーが心臓発作で倒れて、いまも麻痺に苦しんでいるのは、おそらく、将が自分の過去の殺人を告白したからだろう。

「な、な、何を謝るんだ。たっ……ただの、に、に、肉の、肉のっ……喰いすぎの、む、むくいだ」

ヒージーは傾けたベッドから将に微笑を向けた。

そうやって笑うと少し、左右の頬がゆがんだ。それがまた痛ましい。

しかし、ヒージーは歪んだ笑いのまま、将に視線を向けた。

「将。みたぞ」

「え?」

そこにいた看護士が、専用棚から将が載っている、あのファッション誌を持ってきた。

「いつも、自慢しておいでですよ。いい男だろうって」

「イッ……い~い~」

ヒージーは目を宙に泳がせた。慣れない将は思わず、はっとしてヒージーを見つめる。

「イケメン、でしょう」

「そ、そうだ。イケメンだ。わ、わかってるのに、さ、さきに言いおって」

どうやら看護士は、ヒージーが言いたいことを先まわりしてしまったらしい。

「ハイハイ。すいません。将さん、テレビにもお出になるなら、今のうちにサインもらっとかなくちゃ」

看護士はヒージーを見てにっこり笑った。

きっと誰かに将の芸能界入りを聞かされているのだろう。

口は多少不自由なようだったが、たしかに本人の言うとおり、頭は以前と同様、100歳にしては明瞭なようだった。

しかしそれだけに不憫だった。

「ふ、ふらんすに行ってきたんだな」

「うん。モロッコもだけど」

「ど、ドゴールも、ミッテランも、もうおらん……」

ヒージーは可動式ベッドに寄りかかったまま、少しだけ遠い目をした。

政治の中枢に長くいたヒージーの遥かなる記憶の彼方で、彼らは知己だったから。

もっとも、将にとっては、どっちもすでに単なる『歴史上の人物』でしかない。

「ハルさんは?」

将は、ヒージーのベッドのわきの椅子に腰掛けながら言った。

「る、留守宅を、守ってもらっておる。大、大磯にいずれ帰るでな」

ヒージーはあの、大磯の邸宅をことのほか、愛しているのだ。

「は、はたけも、ほったらかしに、している。さ、さ、さやえんどうを収穫してやらないと、可哀想だ」

将は、子供の頃、ヒージーと一緒に摘んだ、さやえんどうを思い出す。

東京から預けられたばかりの将は、大磯になじめずに……毎日のように雷を落とす巌にも反抗しては毎日のように尻を叩かれていた。

母を亡くしたばかりで、自分が父に厄介払いされたのだ、と子供心に感じていた将は、周囲に対していつも尖っていたのだ。

あのときも何が原因だかは忘れてしまったが、ぶたれた将は縁側でベソをかきながらも、憮然と座っていた。

そんなときに、ヒージーは将を畑に連れて行ったのだ。

初めて踏む畑の土は、将が今までに知っている土と、色も柔らかさもまったく違った。

校庭の土のように赤い色でもなく、公園の木の下のそれのように、わくらば色でもない。踏み固められてもいない。

かつて母が鍋でかき混ぜていたココアの粉末のような、冴えざえとした茶色だった。

柔らかなそれは将の運動靴の下でふかふかと沈み込んだ。

蔓から千切りたてのさやえんどうは、スーパーなどに並んでいるのとは違って、粉を吹いたような白っぽい色だった。

蝋みたいだな、と将は思った。

そのくせ手に取ると、硬く締まっているくせに瑞々しい。

将は、嫌なことを忘れて、さやえんどうを無心に次から次へと千切った。

夜、そのさやえんどうを使ったみそ汁が食卓に並んだのだが、火を通すと舌の上で甘さが花開くのが子供の将でもわかった。

ヒージーはあの頃、思えばたびたび、将を畑仕事へ、また海へ釣りに、と連れ出した。

それを繰り返すたびに、ささくれていた将の心は、次第になだめられていったのだ。

忘れかけていた懐かしい思い出だ。

「そ、それに。大磯には、お前に渡すものが、しまってある」

そのときだけ、ヒージーは、比較的明瞭に言葉を発することができた。

「何?」

「そ、それは、あとでの、おたのしみ、じゃ」

ヒージーはにんまりと笑った。

「なんだよ~」

将は、その笑顔にようやく、心から笑うことができた。

「だからな」

ヒージーの表情が笑顔から変わった。

「もう少し、じ、自由がきくようになったら、将、わしを、お、大磯に連れて帰れ」

打って変わった真剣な顔。瞼が小刻みに震えている。それは白いものがまじった睫に縁取られていた。

瞼は震えているのに、その奥の灰色ににごりかけた瞳は微動だにせず将に向けられていた。

「た、たのむ。……絶対、絶対だ、ぞ」

ヒージーの細い腕が、再び将のほうに伸びた。しみに彩られた細い腕は細かく震えている。

顔も腕も薄くなった皮膚は窓の光を反射していた。

皮のジャケットの肘がてらてらと光ってくるように。

100年の年月を経たヒージーの皮膚はどこもホットミルクに張る膜のように薄く皺になり、そのくせ乾燥していた。

聡の肌が畑から収穫したばかりの瑞々しいさやえんどうなら、ヒージーのそれはスーパーのさやえんどうだろう。

「ヒ、ヒージー」

思わず将のほうが言葉に詰まってしまった。

「たのむ……将。たのむ」

伸ばしたヒージーの手が、ぶるぶると大きく震え出したので将はあわててその手をとった。

乾燥して生ぬるい手には……まだ血が通っている。

長い指は、見事に将と相似形を描いていた。

「う、うん」

将が、あまりの真剣さにうなづいたとき、病室の扉があく音がした。

体が不自由なヒージーより、素早く振り向いた将がそこに見たのは、父の康三だった。

康三もそこにいる将にすぐに気づいたようだ。

二人は一瞬だけ目をあわせると、互いにさりげなく逸らした。

「な、な、なんだ、康三か」

「お見舞いにあがりました。おじいさま」

康三は丁寧に頭を下げた。

「お、お、お前、会期中じゃないのか」

国会が行われているのではないか、とヒージーは心配したのだ。

「終わり次第、伺いました」

将は、自分がいるべきではない、と判断して立ち上がった。

「じゃあ、ヒージー。また来るから」

と手を軽くあげた。

「て、て、テレビ、たっ……楽しみにしているぞ」

ヒージーは少々歪んだままながら、名残惜しそうな顔を将に向けた。

引き止めないのは将と康三の関係を気遣っているからだろう。

しかし、出て行こうとする将を康三が引き止めた。

「将。ちょっと」

顎をしゃくるようにして、将に合図をする。

将は怪訝な顔を、ヒージーの手前、目だけにとどめて康三に従った。

 
 

「サハラ砂漠にいたと聞いたが……疲れてないか」

病院の廊下で康三の口からもたらされたのは、意外な言葉だった。

最初将は、それが自分を気遣う言葉だとわからず……思わず目を見開いて康三の顔を見た。

康三は、見たこともないような……ヒージーが将を見るときのような目をしていた。

そこでようやく、康三が自分の体について、訊いているのだと理解した。

「ああ」

「今度、連続ドラマに出ると聞いたが」

「何で……」

「ダイヤモンド・ダストのほうから報告が随時ある。お前は未成年だからな」

いつもの高圧的な単語の片鱗に将は、いつものように目の端で父親を睨みつけようとした。

しかし、あとに続く康三の言葉は将の予想を裏切るものだった。

「しっかりやれよ」

「……?」

将は、睨もうとした目を見開くと、パチパチとしばたいて、自分より背が低い康三を見下ろした。

気づかないうちに、唇も『え』の形で半開きになっていた。

「大人に混じって仕事をするとなると、お前にも大人の責任が発生する。……そうなると、いくら私でも尻拭いできないことだらけだからな」

内容は厳しいものだったが、その声音は、ここ何年も聞いたことのない、穏やかなものだった。

「いいか。無責任なことは、するな」

念を押すそれも、押し付けるようなものではなく、人生の先輩として語りかけるような、ゆっくりと温かい口調だ。

だから、面食らった将は、反抗することもなく素直に

「わかった」

と答えてしまったのだ。
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