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第12章 自分の道

第207話 再燃する想い

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一瞬なのに、みな子にはスローモーションのように思えた。

みな子は、床へと落ちながら、自分が窓からはずれた防護柵を握っていることに気づいた。

まだ無重力のうちに、とそれを無我夢中でできるだけ自分の体から遠くに離すべく体をよじる。

ガターン

と体育館の木の床が、はずれた防護柵で派手な音を立てたのをみな子は聞いた。

だがその瞬間、みな子は自分がどうなったのか、まるで記憶がなかった。

ごく一瞬だけ、みな子は気を失った状態になっていたらしい。

「キャー!」

「みな子!」

一瞬の静寂ののちに、騒然となった周囲に気づいて、みな子はようやく自分を取り戻した。

目をつぶっていても横向きに倒れているのがわかる。

皆が自分を取り巻いているらしい。それにしても。

今の姿勢から、肩を強打しているはずなのだが、2mほどの場所から落ちた、にしては、どこにも衝撃を感じた痕跡がない。

「将!」

井口春樹の野太い叫び声に、みな子はハッとした。

倒れたみな子は温かいものに抱きとめられていた。

干草のような香りがする。

「……大丈夫。なんともねえよ」

みな子の耳の、思いがけないほど近くで聞こえたその声は。

――まさか、まさか……。

みな子が恐る恐る目をあけると……自分の下敷きになっているのは、他ならぬ将だった。

どうやら、落ちたみな子を将が受け止めながら、一緒に床に倒れこんだらしい。

みな子は、それを知ったとたん、あわてて跳ね起きようとしたが、起きれない。

将の腕が自分の肩をしっかりと抱いているのだ。

「大丈夫?星野サン」

自分に話し掛ける将の声がすぐ近くで聞こえる。

自分の半身がありえない温かさに触れていることにみな子はあわてた。

「だっ、大丈夫。離して」

みな子は将の腕をふりほどいて、立ち上がろうとした。

皆が見守る中、いつまでもこんな体勢でいるわけにもいかない。

しかし、ケガはしていないようだが、体全体がこわばっているため、ふらついた。

「みな子!大丈夫?」

漫研仲間のすみれが駆け寄って支える。

「保健室、いちおう行く?」と訊くすみれの後ろで

「お前、大丈夫かよ。ゲイノー人は体が資本じゃね?」

という井口の冗談めかした声が聞こえて、みな子はハッとして将のほうを見た。

将はちょうど遅れて起き上がるところだった。いててて、と背中に手をやっている。

「だーいじょうぶ。打ち身程度だし」

といいながら立ち上がって、ジャージの腰のあたりをはたいている。

本当にケガはないようで、井口は

「明日、ケツに青タン出来てんじゃねーの」

と冷やかしの言葉を口にした。……彼なりの安堵のセリフである。

みな子はホッとして、何か声をかけようか、と思ったが、喉が乾いたように声がでない。

「さ、保健室、いこ」というすみれに従うしかなかった。

そこへようやく体育教師がやってきた。

彼はバドミントンのコートの真ん中に落ちた窓の防護柵を見て仰天すると、あわてて皆に

「ケガはないか!」

と声をかけていた。

 
 

みな子は、将が受け止めてくれたおかげで、奇跡的に無傷だった。

しかし、ショックがあるだろう、ということでとりあえず保健室で1時間様子を見ることになった。

しかし……みな子がショックを受けたのだとしたら、それは、落下したことではない。

ベッドに横になりながら、みな子は、さっきの一瞬を脳裏に再現していた。

落ちていくあの一瞬をみな子はスローモーションのように思い出すことができる。

だが、将に抱きとめられた一瞬を……どうしても思い出すことができない。

気がついたときは、将の腕の中だった。

あのまま床に叩きつけられたはずだったみな子を助けてくれたのは、ほかならぬ将なのだ。

将は、みな子をしっかりと抱きしめていた。

みな子にとって、異性に抱きしめられるのは、生まれて初めてである。

その腕の力強さが……胸板の弾力が、みな子の肩のあたりに生々しく蘇って、みな子は息苦しくなる。

思わず寝返りを打った。

――あれが……男、なんだ。

そして初めて好きになった異性。鷹枝将。

自分を抱きとめた体の熱さが今も残るようで、みな子はそれから逃れるように反対側に寝返りを打った。

みな子は眠ろうと、努力した。

だけど、みな子の脳は、隙あらば、さっきの一瞬を再現しようとしてしまう。そして

――どうして、助けてくれたの?

みな子は、集まっていたクラスメートの中で、将が、助けてくれたことに何か、特別な意味を見出そうとしてしまっていた。

それに何度となく抗っているとき、保健室の引き戸が開いた。

「あら、アキラ先生」

三田先生の声がした。みな子はその名前を聞いて、体をびくっとふるわせた。

「星野さんが体育館の窓から落ちたって聞きまして……」

と聡の声が聞こえる。

この時間、授業がないらしい聡は、担任教師として教え子のようすを見に来たらしい。

「寝てますか?」

「たぶん、おきてると思うけど。さっきまで寝返り打ってたから……星野さん、どう?」

と、みな子が寝ているベッドのカーテンが開く。

幸い、聡や三田先生のいる方角に背を向けているものの、将の胸板があたっていた肩がうずくようだ。

みな子は背を向けたまま、寝ているふりをすることに努めた。

鼓動が全身に響く。それは布団すら揺らしているのではと気が気でない。

「寝ちゃったみたいね」

と三田先生の声がして、カーテンが閉じる音がした。

「いちおう、ケガはないみたいだから、アキラ先生の心配には及びませんよ」

「わかりました。よろしくお願いします」

聡はしっとりとした低音でみな子のことを三田先生に頼むと、去っていった。

ようやく、みな子は心臓との戦いから解放された。

そのとたん、肩に刻印された、熱い感触が再び戻る。

あの感触を……古城先生は知っているんだ。もっと深く。

それは嫉妬というよりも、もっと深く将の抱擁を知るであろう聡への……せつないほどの憧憬だった。

みな子は、聡が心から羨ましかった。

みな子が知っている将は……学校の誰も知らない、血だらけの猫を抱いた優しい姿。

夕陽に金茶色に輝く瞳。成長しきった身長に似合わない、子供っぽい笑顔。

「星野サン」とあらたまる低い声。

ピアノの前であわせた、熱い手のひら。

将と抱き合える聡にはかなわないけれど、みな子が知る将のすべては、それだけでも、宝物のようだった。

だけど……今また、将の腕と胸の力強さ、血潮の熱さを知ってしまったみな子。

それは稲妻のように、燻っていたみな子の思いに命中した。

聡と抱き合う将を目撃して……一度は諦めたみな子だが、想いはずっと燻っていたのだ。

燻っていた煙がしみるように、せつなさが尖って、つん、と鼻から目頭に刺さった。

思わずみな子は涙をこぼした。涙は音もなく、保健室の枕に染みをつくった。

――やっぱり、好き。……好き。

燻っていた想いは、喉の下で熱く燃え上がった。

将が聡と愛しあっていることはわかっている。

だけど。将を恋する気持ちは抑えられない。

みな子は、三田に気付かれないように、静かに涙を流し続けた……。
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