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第11章 18歳の誕生日
第195話 急変
しおりを挟む早めに床についたのに、将は寝つかれず、何度も寝返りを打った。
糊が気持ちよくきいた布団なのに、居心地が悪い。
何度も泊まっている部屋なのに、今日は自分を排出しようとしているような、異物感……ちなみに異物は将自身である……がある。
じっとしていると、過去の行いがじわじわと自分自身を侵食してくるようで耐えられない。
自分は、ヒージーにも愛想をつかされてしまったのだろうか。
にも、という助詞に、まず最初に聡に見放されたのかもしれないという自分の中の危機感に気付く。
聡に見放され、ヒージーにも見捨てられ。
――本当に一人ぼっちになってしまうのか……。
将は、一人ぼっちの果てしない寂寥感に、布団の中、苦しくまた寝返りを打った。
13歳の頃も将は、こんな風なひとりぼっちだったはずだ。
だけど、今のほうが何倍もつらい。
人の情愛というものは、知らないよりも、知ってしまった上でそれを亡くすほうが、むしろつらいのだ……。
だけど、いまさらもう知らない頃には戻れない。
つまり、将はずっとこの寂しさを抱えて生きていかなくてはならないのかもしれない。
将はため息をつくと、再び寝返りを打った。
何十回となく寝返りを打って、将にようやく眠りが訪れた。
あわただしい足音がする。
――うるさいなあ。もっと静かに歩けよ、大悟……。
夢の中で将はそんなことを考えていた。
それにしても、マンションでこんなに頭に振動が響くほど音がするだろうか。
将はそんな自分の中のそんな疑問に気付かないふりをしていたのだが、
足音に、遠くの救急車の音が混じり始めて、その嫌な予感に、急速に現実世界に意識が舞い戻った。
気がつくと、目の前にさっきと同じように杉板天井が広がっていた。
将は、行燈を消すのを忘れたまま眠ってしまったらしい。
夢から覚めたというのに、あいかわらず、救急車の音が止まらない。それどころかまるで頭の真上から聞こえるほど近い。
将は起き上がって、廊下の障子をあけた。もう、夜が白み始めている。
と、救急車の音がやんだ。
近くに急病人が出たのだろうか。そう思いつつ、将の心は濃厚な嫌な予感を察知していた。
「あ」
将は叫びそうになった。白衣を来た救命士2名が担架をかついで、庭に入ってきたからだ。
ふいに後ろから声をかけられる。
「坊ちゃん、お起きになりましたか……。御大が、御大が……」
寝巻きにガウンをひっかけただけのハルさんが、泣きそうになりながら、将に訴える。
「ヒージーが……どうしたの?」
ハルさんのただならないようすに将は目を見開く。
「廊下にお倒れになられているのを、西嶋さんが見つけて……」
「ヒージー!」
ハルさんが言い終わらないうちに将は担架が入っていった方へ走った。
だが2,3歩進んだところで、担架に横たわり酸素吸入器を付けたヒージーが運び出されてきた……そう、生きている人間だったら『運び出され』たりしない。
紙のように顔面蒼白のヒージーは、まるで物体のように動かなかった。
「ヒージー!ヒージー!」
将は、ヒージーの担架を追った。裸足は庭の土にまみれたがかまわない。
ヒージーが息をしているのか、そして体は温かいのか。たしかめようとして止められる。
「坊ちゃん、私がつきそいますから!大丈夫ですから!」
と西嶋が言うのにもかまわず、将は必死でヒージーの名前を呼び続けた。
だが、ヒージーは目をあけないまま、救急車に乗せられてしまった。
救急車は再度、耳をつんざくようなサイレンの音を鳴らして走り去った。
将ははだけた浴衣に、泥だらけの素足のまま、門の前に取り残され……救急車の行く末を見ているしかなかった。
そんな将のもとに非情なほどに冷たい朝が訪れる。
大磯総合病院に運び込まれたヒージーはかろうじて生きてはいたものの、容態は重篤だった。
ハルさんと共にすぐに駆けつけた将は、ランプがついた手術室の外で立ち尽くした。
「ヒージー……、俺の……俺のせいだ」
将はやり場のない強烈な罪悪感のあまり頭をかきむしった。
「坊ちゃん、大丈夫ですから……。西嶋がすぐに見つけたんですから……大丈夫ですよ。だからおかけになって」
ハルさんが背伸びをするように将の肩に手を伸ばし、それに抱えられるようにベンチに腰を下ろす。
――もし、ヒージーが死んでしまったら……自分のせいだ。
将が暴露した過去の罪は……激しすぎるショックをヒージーの心身にくらわせたのに違いない。
――もし……もしも、ヒージーが死んでしまったら。
自分はヒージーの血脈を汚しただけでなく、ヒージーの命をも奪ってしまうのだ。
その恐ろしさに、うなだれた将はふるえる。
ことはあまりにも重く、地球……いやこの世のすべての罪の重みに近い重圧を感じている将には、呼吸する空気すら重い。
消毒液の匂いのまじった苦い空気はまるで、何かの毒ガスがまじっているかのように息苦しい。
その息苦しさに、時がつらい。1分を1時間のように感じながら、将は待ちつつ、恐れた。
その長いときの途中で、知らせを受けてすぐにやってきたのだろう、東京から康三と純代が駆けつけた。
一瞬、将と康三は目を合わせたが、お互いに言葉も交わさない。
ハルさんが状況を説明し、将は再びうなだれて審判を待つ。
時の長さが再び戻ってくる。
「や、鷹枝さんの!」
と声がしてふりかえる。そこには白衣に眼鏡をかけた年配の医師がいた。
言葉少なく挨拶をする康三のようすから、どうやらこの病院の院長らしい。
巌は海が見えるこの病院で年に一度、人間ドックを受けていたのだ。
「将くん、かい」
院長は将のほうを振り向いた。将は、会釈をした。笑顔をつくるゆとりすらもない。
「いつも巌さんから聞いてるよ。自慢の、イケメンのひ孫だってね……。本当に大きくなったなあ」
院長は銀縁眼鏡の奥で柔らかく微笑んだ。
「先生……ヒージーは……」
「頑張ってるよ。うちの外科の一番手が手を尽くしてるからね」
将のあまりにも悲痛な表情に、院長は思わず幼児に語りかけるような優しい口調になっている。
その優しさに思わず、張り詰めていた将の緊張が、瓦解した。
「先生、俺の……俺のせいなんです」
言葉と共に、人前だというのに涙がぼろぼろとこぼれてくる。
「俺が……ショックなことをしゃべったから……」
康三が思わずこっちを目で振り返る。だが将はそんなこと、今更どうでもよかった。
「俺が……いけないんです……」
リノリウムの廊下に、涙がぼたぼたと落ちていく。
「将くん」
院長は、自分より背の高い将の肩に手をおいた。
「たぶん、関係ないよ……。巌さんは、いずれにしてももうかなりな年齢だからね。心臓だって悪くなってあたりまえだよ」
院長はそうは言ってくれたが、その100歳の高齢の心臓に負担をかけたのは紛れもない事実なのだ。
将が、手の甲で涙をぬぐったとき……ついに手術室のランプが消えた。
顔をあげた将の前で、扉があいた。
「ヒージー!」
駆け寄る将を、集中治療室へ入りますから、と看護士が止める。
術衣をつけた医師が出てきて、将はそっちに駆け寄った。後ろには同じように康三がいる。
「手術はいちおう成功しました」
と医師が宣言したので一同は皆ほっとした。
午後も遅くなって将は、マンションに帰って来ていた。
どうやってミニを運転してきたのか、あまり記憶にない。
巌の手術はいちおう成功した、と執刀医は宣言した。
だが……そのあと、執刀医は院長と康三と純代だけを別室に呼んだ。
再び病院の廊下に取り残された将を、またも不安が取り巻く。
暫くののち、出てきた康三と純代の顔は……暗かった。
だが康三は将の顔を見ると
「大丈夫だから、もうお前は東京に帰りなさい」
とだけ、促した。その静かなようすに、逆に将は従わざるをえなかった。
大悟は出掛けたらしく、誰もいないリビングで晩春の陽射しだけが将に寄り添おうとした。
しかし、それがうっとうしくて将は窓に背を向けてキッチンへ入る。
温かさに抗うように氷水を飲もうと冷凍庫に手をかけて……その中に大悟のスピリタスの瓶を見つける。
罪悪感は、とりあえずヒージーの命は無事だったという安心を得て、やりきれなさに変化していた。
そのやりきれない思いをどうにかしたくて、将は凍ったスピリタスの瓶を手にとるとグラスに注ぎ、一気に飲んだ。
とたん、喉がやけついて将はむせた。
だけど……その苦しさが、今の将にはよかった。
喉から腹に熱い線が出来る。巌の体を傷つけた将は、自らの体を痛めつけるように、カウンターに立ったまま、ひたすら強い酒をあおった。
熱い線は、それを酒がなぞるたびに、どんどん膨張し、将の体をついにはみだすほどになった。
つまり全身が熱を持つ。
脳が煮えるようになった将は、ようやくふらふらとキッチンを出てソファに自らを投げ出した。
何かを忘れている。
忘れたいものは、脳が煮えても忘れられないのに。
将は、ふふふと鼻先で笑った。
うっとおしい晩春の陽射しも、酒場の女のように煮えた脳には好ましく感じている。
……と。
携帯が鳴る。
瞬時に『忘れていた何か』を思い出す……聡。
メールの着信音だった。
将は自分のポケットなのに、ひったくるように携帯を取り出し、中を見る。
=======
昨日は、本当にごめんなさい。
=======
たった一言で、将の心は聡一色になる。
聡を求め、聡を渇望する将はそのまま、聡に電話をかける。
「もしもし……?」懐かしい声に思わず将はすがっていた。
「アキラ!俺を……助けて!」
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