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第5章 1300キロを越えて

第86話 通過地点(3)

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将ら3人が、秋月の宿に隠してあったローバーミニに乗り込んで、萩を後にしたのは10時すぎだった。

秋月は妻の綾と共に見送りにでてきた。

出発前、秋月は将に手招きして、近くに呼び寄せると耳元で

「社会人になるまで避妊はしっかりしろ。間違っても聡を妊娠させたりするなよ。俺の大事な思い出のヒトなんだから。いいな」

と囁いて親指をたてた。

本来だったら『そんなドジはふまねえよ』、

もしくは『いや、卒業まで許されてないから』と言ってしまう将だが、何故か素直にうなづいてしまった。

「また聡と一緒に来いよ」

と秋月は笑顔で将の肩を叩いた。

そして綾と二人で、ミニが見えなくなるまで手を振っていた。

萩の地を聡と二人で再び踏む未来は、当然のように来ると将は思っていた。このときは……。

 

 





萩から山口インターまでは1時間程度、一般道だがスムーズだった。

山口インターからは中国自動車道に乗る。11時すぎだった。

中国地方の内陸部を通るこの高速はカーブが多いものの車の流れは順調だった。

しかし関西圏に入って、三田を過ぎてから急に車が増えた。

途中、サービスエリアで昼を食べたというのもあり、時計はここで16時になるところだった。

吹田JCTあたりで、お決まりのひどい渋滞に巻き込まれた。

本来は1時間で通り抜ける距離に2時間以上かかってやっと関西を抜ける。

愛知県の豊田インターでいったん降り、明日から仕事始めだという大悟を送っていき、再び高速に戻る。夜9時30分になっていた。

しかし、この先は夜が遅くなったこともあり、渋滞は解消されつつあったが、結局東京に着いて井口を送り届け終わってみると1時をまわっていた。

将は、もう寝てるかな、と思いつつ、車の中から聡に電話をかけてみる。

コールが5回鳴って、聡が出た。

「アキラ?ごめん、寝てた?」

「……ううん」

かすれた声が携帯から聞こえる。否定はしたが寝ていたのだろうと検討をつける。

「今から、行ったら迷惑だよね?」

「ううん……迷惑、なんかじゃない、よ……」

なんだか様子が変だ。眠いんだろうか。それとも酔ってる?

「明日、学校なんだろ、やめとこうか」

気を遣った将だが、実は自分も運転で疲れていた。

聡の顔は見たいが、お互い無理をすることもない、と思ったのだが

「……来て。将」

と聡ははっきりと言って電話を切ってしまった。

将は、釈然としないまま、車を聡の家へ走らせた。コインパーキングに車を止めて、コーポの階段をかけ登る。

足音に将を聞き分けたのか、聡のドアの前に将がたどりついたとたん、チャイムも鳴らしていないのにドアが静かに開いた。

スウェット姿の聡が廊下の暗い蛍光灯に細く照らされた。

今朝別れたばかりなのに、ずいぶん顔をみなかったような懐かしさで、将は聡の顔を見つめた。

しかし、聡は、うつむいて、どことなく沈んだ感じだった。

手を伸ばして抱きしめようとした将は、その頬に異変を見つける。左の頬が赤く腫れている。

「アキラ……どうした、そのほっぺた」

将は玄関に一歩踏み込んで部屋に入ると、聡に問いただす。聡は震え出した。

「……将。あたし……」

聡は目をあげた。その目はみるみるうるんで、将のほうを見据えたときは大粒の涙が頬を転がり落ちた。

……もう限界だった。将の顔をみたとたんに、堰を切ったように凍った感情が溶けて激しく流れ出す。

「博史にやられたのか、そうだな」

再び目を伏せる聡をみてそれは図星だと将は確信した。

「ひどいことをしやがる」

将は聡の体を抱き寄せた。しっかりと抱きしめたその体は、まだこきざみに震えている。

「もう大丈夫だから」

将の腕の中で震える聡は、とても小さく見えた。

――守ってやりたい。どんなことをしても。

将の中に、純粋な思いが湧き出してくる。それは清らかな泉のように将の心を浸していく。

冬の夜の静寂に、二人は抱き合ったまま、しばし玄関で佇んでいた。





「はい、紅茶。はちみつ入れといた。それと保冷材」

ベッドに腰掛けた聡に、将がペアのマグカップのかたわれを渡す。

「ありがとう」

鼻の下を柔らかくくすぐる熱い湯気に、戻ってきた安らぎを感じた。

マグカップのもう1つは隣に座る将の手にある。本来の持ち主に戻ったマグカップ。

そのことにも聡は安堵を覚えて、やっと

「将……あたしね」

と落ち着いた声を出すことができた。

「……博史さんにね、とうとう、言ったんだ……結婚できないって」

「それで、殴られたんだ」

本当は違う。『将と寝たこと』を肯定して殴られたのだが、聡は

「うん……。そんなとこ」

と答えて、はちみつで甘くした紅茶を口にする。

舌に優しい甘い味は、将といるこの時間の象徴のようだ。

いつのまにか将は、ときめきだけでなく、安らぎも連れてくるようになっていた。

「許せないな。こんど会ったら、俺がぶん殴ってやる。……それで別れられたの?」

将が聡の顔をのぞきこんだ。

聡は将の瞳を一瞬見つめて、さらに視線を下に落とした。忌まわしい時間を思い出す。

博史にからだを奪われている間、聡は泣かなかった。というより泣けなかった。

頬を打たれたことで感情がどこかでまひしてしまったように、ただ呆然としていた。

クリスマスのときのように馴れた快楽も、もはや何もなかった。

敏感なところを愛撫されても、不快なだけで、聡は目を閉じて我慢していた。

ただ、ただ苦痛な時間だった……。

そのときが蘇った聡は、カップをローテーブルに置くと、両腕を胸の前で固く組んだ。

「アキラ……?」

異変に気付いた将は、自分もカップをテーブルに置くと、迷わず聡の肩を抱き寄せた。

再び、震え始めた聡を見て、将はだいたいの事情を察した。

「アキラ、もう大丈夫だから。……ね」

将はもう一度聡を抱きしめた。

聡も将に腕をまわして体重を預ける。

熱い将の体温と干草のような将の匂いに包まれて、聡はまた少しずつ安堵を取り戻しつつあった。

そんな聡の脳裏に

『通過地点』

という言葉が稲妻のようにひらめいた。

『聡、お前は通過地点でしかない』

頭蓋骨中に響くように蘇った博史の声。おびえた聡は、将にからめた腕に力をこめてしがみつく。

それに気付いた将は聡の頤を上に傾けると、そっと唇を重ねた。

温かい将の唇。柔らかい肉の厚み。

ほんの少しだけ、博史の声のリフレインは弱まったが、消えない。

聡は将と唇を交わしながら、思い出している。

自分が17歳の時を。

秋月は、東は。

17歳のときの恋は確かに『通過地点』だった。

『終着点』の恋、なんてものがあるのかどうか、なんて26歳の聡にもわからないけれど、

少なくとも恋をしているときは、それが最後でありたいと思うのが相手への愛情だろう。

だけど、自分はともかく、17歳の将にとっては、聡が『通過地点』にならない確率のほうこそ奇跡的だろう。

聡はこの恋の、真っ暗な未来を見た気がしておびえる。

しかし、もうこの思いは止められない。

だけど、いつか確実に。若い将は、自分から離れてしまうだろう。

自分にもそうだったように、ある日突然、誰かに心を奪われるのだろうか。

その日を想像した聡はぎゅっと目を閉じて、無我夢中で目の前にいる現実の将を確かめるように舌をからませる。





気がつくと、聡は唇を離して、将の瞳を見つめていた。

聡の心のうちの不安も知らず、見つめ返す将の瞳は優しい。

17歳の若さならではの純粋な、透き通るような視線。

「……将。ずっとそばにいて……」

脳を通さずに、目に涙が満ちるように、唇から言葉がこぼれる。

将は聡を透明な視線で見つめたまま、静かにうなづくと聡を抱いたまま、そっと身を横たえた。

「アキラ。ずっといるよ。だから安心して」

将の声音は、永遠を誓うかのような、磐石な愛情に満ちているようだった。

『通過地点』なんて言葉は、今の将からは想像もできない。

将は、そんな聡の背中を、肩を、ずっと優しくなぜていた。

聡が安心するまで、そして眠りに落ちるまで……。

将は、生まれて初めて、はやく大人になりたい、と強く切に願った。

それは、聡を守りたい、という思いと同義だった。
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