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第3章 クリスマスの約束
第53話 クリスマスの約束(3)
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「すいません、できるだけ急いでください」
行き先と共に聡は付け加えた。
「やってみるけど、今日はクリスマス・イブだから都心は混んでるよ」
運転手は暗にそれが難しいと口にした。
携帯を開いて時刻を確認する。もうすぐ18時。
コンサート会場前の待ち合わせ場所まで急いでも30分はかかるだろう。
「できるだけ、お願いいたします」
聡はそれでもお願いするしかなかった。
急いた気持ちの聡には、窓の外の美しいネオンなどまるで目に入らない。
将に電話をかけてみる。あいかわらず、いつものメッセージだ。
携帯を開きついでに美智子に電話をかける。
「予定より早く博史さんが帰ってきて……。それで行くって言ってたのに申し訳ないんだけど、今日やっぱり行けそうにない。ごめんね」
博史には、美智子をいいわけにし、美智子には博史のせいにしている。
美智子も、聡を何も疑うことなく
「それじゃ、しょうがないね。でも、よかったじゃーん。博史さんにヨロー」
と明るく返事を返してくる。
「……○○や△△によろしくね」
そこまで嘘をついて、教え子に逢いにいく自分は、なんと堕ちた存在なんだろう。
携帯を切った聡は、ようやくシートに寄りかかって、窓の外に目を移した。
暗い窓には、自分の顔が映っている。
―――卑しい顔をしていないだろうか。
そんな聡はさっき、博史と口づけを交わしたことを思い出した。
コンパクトを取り出して、口紅を塗りなおす。
つやつやとしたそれで装う唇は、まさに9才も年下の教え子のためのものである。
それでも、一目だけでもいいから逢いたい。暴走する感情に聡はもう抗うすべを持たない。
口紅を塗りなおした聡が、髪をととのえようと再び窓を鏡にしたときだ。
ガラス窓に白いものが吸い寄せられるようにくっついて、すぐに消えた。
聡は窓に顔を近寄せた。
―――雪だ。
黒い空にも、ぼってりとにごった色を際立たせた雪雲は、とうとう耐えられずに白い華を散らしはじめた。
「とうとう降りだしましたねー」
運転手がフロントガラスから空を仰いで聡に聞かせるように独り言を言った。
道路もだんだん流れが滞りがちになってきた。
でも、まだ歩くよりは早い速度だ、ということに聡は希望を持つ。
しかし。
だんだん、車が停車するたびに、歩道を歩く人に追い越されるようになってきた。
雪はそれほどひどくはないのだが……。
雪の舞う歩道を、手をつないで歩く若いカップルが聡の目に入った。
ビニール傘を1つずつ手にし、舞い落ちる雪を楽しむように、ゆっくりと歩く。
寒さは、お互いの手の温かさを際立たせるだろう。
たぶん、この寒さでさえ、あの二人にとっては、この夜をひきたたせる演出でしかないのだ。
聡は、いつしか、将とはじめて手をつないだあの湾岸を思い出していた。
あのころは今日のように寒くはなかった。将の指は博史と同じぐらい長いが、育ちがいいせいなのか、若いせいなのか、それは柔らかい感触だった。
あの手の感触も、腕の感触も、唇の感触も――鉄くさい味がした傷だらけのキスも――すべて聡には忘れがたいものになっていた。
窓の外をいく二人に、聡は自分と将を重ねた。
聡が乗るタクシーは、信号が緑のときは、その二人をのろのろと追い越し、赤に変わると二人のほうがタクシーを追い越した。
しばらくそんなことを繰り返していたのだが……。
とうとう、タクシーは二人を追い越せなくなった。聡は窓に顔をくっつけるようにして二人の姿をみようとした。
氷のような窓の冷気が産毛から頬に伝わるようだった。
二人の姿は、はるか前方に歩いていってしまったようで、聡からは舞い落ちる雪しか見えなくなっていた。
待ち合わせの場所まであともう少しというところで、車の流れは完全に滞ってしまった。
「お客さん、事故か何かですかねえ……もう進まないみたいですよ。歩いたほうが早いですよ」
運転手は観念して聡に告げた。待ち合わせ場所まではここから歩けば10分ぐらいだろう。
車道側を見れば、片側4車線の大通りの真ん中の車あたりからも、あきらめた人が車から降りて歩き出している。
傘を忘れてしまったし、歩きにくいヒールのブーツを履いてきてしまった。
もう一度携帯を開いて時間を見る。18時35分。
もう待ち合わせから1時間以上も経ってしまっている。
でも。
聡は意を決すると、そこでタクシーを降りた。道路に足がついたとたんに、車の間を縫って走り始める。
将はコンサート会場の前で待っていた。
ここもクリスマスらしい、電飾とライトアップがなされていて、
コンサートへ向かうカップルがそれを指差しながら次々と将の横を楽しげに通り過ぎていった。
――アキラ、来てくれるよな。
クリスマスソングがどこからともなく聞こえてくる中、将は、空を見上げた。
聡へのメモには17時30分と書いたが、開演は18時30分なのでまだ余裕がある。
将のすぐ近くを、手をつないだカップルが通り過ぎた。明らかに男のほうが若いカップル。
あきらかに40代の彼女のほうは年甲斐もなく、20代のように見える彼によりそい甘えている。
こんなにあからさまなカップルだっているのだ。聡は何を尻込みすることがあろうか。
なかなか自分に甘えようとはしてくれない聡。
でも本当はとても泣き虫なことを、将は知っている。
――いつだったっけ。
たぶん、将と聡が初めて手を握り合ってしばらくして、だったと思う。
将と聡は週に1度ほど食事をともにするようになっていた。
教え子におごられるのを聡は嫌ったから、安い定食屋やラーメン屋がほとんどだったけれど。
そんなあるとき、聡が「ちょっと本屋に寄っていい?」と提案した。
将に別に異存はなかった。今日発売の漫画誌ではない月刊誌を聡は見つけ出すと、それに1つだけ連載されている漫画を開いた。
「キョーシが立ち読みかよー、しかも漫画」
将はわざとあきれたように言った。
「だってぇ。これ先が気になってたんだもん」
それだけ言うと、聡は漫画に集中し始めた。将は他の本を広げるふりをしながら漫画に見入る聡の横顔を見ていた。
聡は平穏な顔をよそおいながら、その表情を微妙に変化させていった。
読み始めとは明らかに見開く目の大きさが違っている。
お、と将はたじろいだ。
聡の瞳に涙がたまりはじめていたからだ。
さすがに本人も涙を流すのはまずいと思っているのか何回もまばたきを始めた。
熟読に耐えられないのか、本と顔の距離を離して、早いペースでページをめくりはじめた。
「ハイ。もういいよ」
聡はその雑誌を棚に戻すと、将に向き直った。
その目にはまだ涙が残っているのか、まばたきを素早く繰り返している。
下りエスカレーターに乗りながら、聡は無口だった。
「アキラ、さっきうるうるしてただろ」
通りに出て将は笑いを浮かべて言った。
「……え」
「俺、漫画の立ち読みでうるってる女初めて見た」
と将がくすっと笑うと、聡は
「うるさいっ」
と、そっぽを向いてすたすたと歩を早めた。
「アキラー、アキラセンセイ?」
将は聡の後を追うと、さきまわりして聡の肩を正面からつかんだ。
ぷうっとふくれて横を向く聡の瞳から、たまりすぎていたのか、ぽろっと1粒の涙が転げ落ちた。涙は赤いネオンを移してルビーのようにきらめいた。
それを見た将は、なんだか温かい気持ちで心がいっぱいになるのを感じた。
「……いいじゃん。俺、そういうの好きだよ。何をみてもムハンノーよりずっといいと思うよ」
それはフォローなどでなく、たった今湧き出した将の本心だった。
前に一緒にいることが多かった瑞樹は、聡よりかなり若いにもかかわらず、あまり感情を出さない女だった。
そして将自身もあの爆破事件以来、感情を表にだすのを我慢してきたようなところがある。
いままで、漫画や本で涙を流すような女はむしろ嫌いだったはずだ。
だが、そんな聡を好きになって。
素直に感情を顔に出す聡といることで、存在を忘れていたような将自身の感受性が再び息を吹き返したのだ。
「うるさいっ。生意気なこと言わないのっ」
聡は涙をぐいっとぬぐって将をにらみつけた。
こんなときに思い出すのは、そんな何気ないことだ。
記憶を彷徨していた将の意識がふっと、現実に戻ると、白いものが舞いだしていた。
行き先と共に聡は付け加えた。
「やってみるけど、今日はクリスマス・イブだから都心は混んでるよ」
運転手は暗にそれが難しいと口にした。
携帯を開いて時刻を確認する。もうすぐ18時。
コンサート会場前の待ち合わせ場所まで急いでも30分はかかるだろう。
「できるだけ、お願いいたします」
聡はそれでもお願いするしかなかった。
急いた気持ちの聡には、窓の外の美しいネオンなどまるで目に入らない。
将に電話をかけてみる。あいかわらず、いつものメッセージだ。
携帯を開きついでに美智子に電話をかける。
「予定より早く博史さんが帰ってきて……。それで行くって言ってたのに申し訳ないんだけど、今日やっぱり行けそうにない。ごめんね」
博史には、美智子をいいわけにし、美智子には博史のせいにしている。
美智子も、聡を何も疑うことなく
「それじゃ、しょうがないね。でも、よかったじゃーん。博史さんにヨロー」
と明るく返事を返してくる。
「……○○や△△によろしくね」
そこまで嘘をついて、教え子に逢いにいく自分は、なんと堕ちた存在なんだろう。
携帯を切った聡は、ようやくシートに寄りかかって、窓の外に目を移した。
暗い窓には、自分の顔が映っている。
―――卑しい顔をしていないだろうか。
そんな聡はさっき、博史と口づけを交わしたことを思い出した。
コンパクトを取り出して、口紅を塗りなおす。
つやつやとしたそれで装う唇は、まさに9才も年下の教え子のためのものである。
それでも、一目だけでもいいから逢いたい。暴走する感情に聡はもう抗うすべを持たない。
口紅を塗りなおした聡が、髪をととのえようと再び窓を鏡にしたときだ。
ガラス窓に白いものが吸い寄せられるようにくっついて、すぐに消えた。
聡は窓に顔を近寄せた。
―――雪だ。
黒い空にも、ぼってりとにごった色を際立たせた雪雲は、とうとう耐えられずに白い華を散らしはじめた。
「とうとう降りだしましたねー」
運転手がフロントガラスから空を仰いで聡に聞かせるように独り言を言った。
道路もだんだん流れが滞りがちになってきた。
でも、まだ歩くよりは早い速度だ、ということに聡は希望を持つ。
しかし。
だんだん、車が停車するたびに、歩道を歩く人に追い越されるようになってきた。
雪はそれほどひどくはないのだが……。
雪の舞う歩道を、手をつないで歩く若いカップルが聡の目に入った。
ビニール傘を1つずつ手にし、舞い落ちる雪を楽しむように、ゆっくりと歩く。
寒さは、お互いの手の温かさを際立たせるだろう。
たぶん、この寒さでさえ、あの二人にとっては、この夜をひきたたせる演出でしかないのだ。
聡は、いつしか、将とはじめて手をつないだあの湾岸を思い出していた。
あのころは今日のように寒くはなかった。将の指は博史と同じぐらい長いが、育ちがいいせいなのか、若いせいなのか、それは柔らかい感触だった。
あの手の感触も、腕の感触も、唇の感触も――鉄くさい味がした傷だらけのキスも――すべて聡には忘れがたいものになっていた。
窓の外をいく二人に、聡は自分と将を重ねた。
聡が乗るタクシーは、信号が緑のときは、その二人をのろのろと追い越し、赤に変わると二人のほうがタクシーを追い越した。
しばらくそんなことを繰り返していたのだが……。
とうとう、タクシーは二人を追い越せなくなった。聡は窓に顔をくっつけるようにして二人の姿をみようとした。
氷のような窓の冷気が産毛から頬に伝わるようだった。
二人の姿は、はるか前方に歩いていってしまったようで、聡からは舞い落ちる雪しか見えなくなっていた。
待ち合わせの場所まであともう少しというところで、車の流れは完全に滞ってしまった。
「お客さん、事故か何かですかねえ……もう進まないみたいですよ。歩いたほうが早いですよ」
運転手は観念して聡に告げた。待ち合わせ場所まではここから歩けば10分ぐらいだろう。
車道側を見れば、片側4車線の大通りの真ん中の車あたりからも、あきらめた人が車から降りて歩き出している。
傘を忘れてしまったし、歩きにくいヒールのブーツを履いてきてしまった。
もう一度携帯を開いて時間を見る。18時35分。
もう待ち合わせから1時間以上も経ってしまっている。
でも。
聡は意を決すると、そこでタクシーを降りた。道路に足がついたとたんに、車の間を縫って走り始める。
将はコンサート会場の前で待っていた。
ここもクリスマスらしい、電飾とライトアップがなされていて、
コンサートへ向かうカップルがそれを指差しながら次々と将の横を楽しげに通り過ぎていった。
――アキラ、来てくれるよな。
クリスマスソングがどこからともなく聞こえてくる中、将は、空を見上げた。
聡へのメモには17時30分と書いたが、開演は18時30分なのでまだ余裕がある。
将のすぐ近くを、手をつないだカップルが通り過ぎた。明らかに男のほうが若いカップル。
あきらかに40代の彼女のほうは年甲斐もなく、20代のように見える彼によりそい甘えている。
こんなにあからさまなカップルだっているのだ。聡は何を尻込みすることがあろうか。
なかなか自分に甘えようとはしてくれない聡。
でも本当はとても泣き虫なことを、将は知っている。
――いつだったっけ。
たぶん、将と聡が初めて手を握り合ってしばらくして、だったと思う。
将と聡は週に1度ほど食事をともにするようになっていた。
教え子におごられるのを聡は嫌ったから、安い定食屋やラーメン屋がほとんどだったけれど。
そんなあるとき、聡が「ちょっと本屋に寄っていい?」と提案した。
将に別に異存はなかった。今日発売の漫画誌ではない月刊誌を聡は見つけ出すと、それに1つだけ連載されている漫画を開いた。
「キョーシが立ち読みかよー、しかも漫画」
将はわざとあきれたように言った。
「だってぇ。これ先が気になってたんだもん」
それだけ言うと、聡は漫画に集中し始めた。将は他の本を広げるふりをしながら漫画に見入る聡の横顔を見ていた。
聡は平穏な顔をよそおいながら、その表情を微妙に変化させていった。
読み始めとは明らかに見開く目の大きさが違っている。
お、と将はたじろいだ。
聡の瞳に涙がたまりはじめていたからだ。
さすがに本人も涙を流すのはまずいと思っているのか何回もまばたきを始めた。
熟読に耐えられないのか、本と顔の距離を離して、早いペースでページをめくりはじめた。
「ハイ。もういいよ」
聡はその雑誌を棚に戻すと、将に向き直った。
その目にはまだ涙が残っているのか、まばたきを素早く繰り返している。
下りエスカレーターに乗りながら、聡は無口だった。
「アキラ、さっきうるうるしてただろ」
通りに出て将は笑いを浮かべて言った。
「……え」
「俺、漫画の立ち読みでうるってる女初めて見た」
と将がくすっと笑うと、聡は
「うるさいっ」
と、そっぽを向いてすたすたと歩を早めた。
「アキラー、アキラセンセイ?」
将は聡の後を追うと、さきまわりして聡の肩を正面からつかんだ。
ぷうっとふくれて横を向く聡の瞳から、たまりすぎていたのか、ぽろっと1粒の涙が転げ落ちた。涙は赤いネオンを移してルビーのようにきらめいた。
それを見た将は、なんだか温かい気持ちで心がいっぱいになるのを感じた。
「……いいじゃん。俺、そういうの好きだよ。何をみてもムハンノーよりずっといいと思うよ」
それはフォローなどでなく、たった今湧き出した将の本心だった。
前に一緒にいることが多かった瑞樹は、聡よりかなり若いにもかかわらず、あまり感情を出さない女だった。
そして将自身もあの爆破事件以来、感情を表にだすのを我慢してきたようなところがある。
いままで、漫画や本で涙を流すような女はむしろ嫌いだったはずだ。
だが、そんな聡を好きになって。
素直に感情を顔に出す聡といることで、存在を忘れていたような将自身の感受性が再び息を吹き返したのだ。
「うるさいっ。生意気なこと言わないのっ」
聡は涙をぐいっとぬぐって将をにらみつけた。
こんなときに思い出すのは、そんな何気ないことだ。
記憶を彷徨していた将の意識がふっと、現実に戻ると、白いものが舞いだしていた。
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