上 下
25 / 37

26、ヒッグス様のお屋敷

しおりを挟む
私はそのころ、ヒッグス様のお屋敷でルンルンと家事にいそしんでいた。これが本来のメイドのあるべき姿だ。いままで他の侍女がする仕事を見ながら、自分もいつかはやりたいと思っていた。

白鳥の羽の埃取りに麻のほうき。ここ数日は充実した生活を送っている。

それにヒッグス様は本当に私にお優しい。私の淹れたお茶をとても美味しいといって飲んでくれるし、片付けをしていてもいたずらに私の足を引っかけたりもしない。

空いた時間に本を写させられたり、高難易度のピアノ曲を無理やり弾かされたり、強引に詩を作らされたりもしないので快適だ。常に心が安定している生活はずいぶんと心地いい。

それにヒッグス様はいつもにこにこして私を見ている。なんて朗らかな方なのだろうか。

「お掃除が終わりました。ヒッグス様、ほかに何かご用事はありますか?」

するとカウチで新聞を読んでいらしたヒッグス様が新聞を下ろした。

「エマちゃん、掃除なんかしなくていい。ここには使用人がいるんだから。それよりまた服でも買いに行こうか。ここにずっといるんだったらもう何着かあってもいいだろう」

ここに来て数日が経つが、私は着のみ着のまま飛び出てきてしまった。いまはヒッグス様に買っていただいた洋服を身に着けている。それがあまりにも華美でエプロンをつけるにしても家事をするには気が引けるほど。

私が夢に見ていた柔らかなシフォン素材のドレスにレースのリボン。ご主人様が買ってくださる服はどれも地味なものだったから。

これまで私は自分でドレスを買うこともままならなかった。仕立て屋に行こうとしたらすぐにご主人様に嗅ぎつけられ、僕が買ってあげるよとご主人の外面の良さが発揮されるからだ。

そうしてなんやかんやで高価だが地味な色あいのドレスを注文される。

私はエプロンを外しながら、ヒッグス様に礼を言う。

「いいえ、こんな素晴らしい服を三着も買っていただいたのですから充分です。リボンや刺繍がとても可愛らしくて、着ているだけで嬉しくなってしまいます。ピンク色は私にはあまり似合いませんが、一度は着てみたかったんですよね。ふふふ、ヒッグス様、本当にありがとうございました」

深々と頭を下げると、ヒッグス様はなぜか顔を赤くされた。

「そんなことはない。エマちゃんは何を着ても似合う。そうだ、今日は街でお祭りをやってるらしいから一緒に行こう」

「えっ? でも私はただのメイドですしそんなところにヒッグス様と行くわけにはいきません」

「うーん、じゃあ僕のメイドとして一緒に祭りに行こう。だったらいいよな」

ご主人様といた時も、たまに外出に同行していた。私はそれならとすぐにうなずいた。ヒッグス様はとても紳士的で、メイドの私をまるで淑女のように扱ってくださる。

(ご主人様は外面が発揮されている時だけは優しかったです。ヒッグス様とは随分違いますね。さすがは誰にでもお優しい方です)

「うわぁ、すごいです。こんなにいっぱいの人を見るのは初めてです!」

街に出ると、そこは子供から大人まで大勢の人であふれかえっていた。黒猫祭りと呼ばれる祭事は一年に一回行われ、普段は忌み嫌われる黒猫を崇めて奉るのが祭りの趣旨。

街のあちらこちらに黒猫を模したぬいぐるみや絵が飾られている。この日とばかりに数えきれないほどの出店もでていて街は活気にあふれていた。

「エマちゃん。はい、これ食べてみて」

黒猫の肉球の形をしたお菓子を買ってきてくださったようだ。串に刺されたそれは真っ黒で、肉球もピンク色をしていてかなり怪しい。

恐る恐る口に運んでみると、薬草の独特の味がして私は顔を歪めた。するとヒッグス様は大きな声で笑った。

「ははっ! 黒いのはリコリスの実で作った飴なんだ。喉にいいから隣国ではよく食べられている。慣れるとそんなにまずくない」

「そうなんですか? ヒッグス様はよく物をご存じなのですね。勉強になります」

「こ、こんなのみんな知っていることだ。大したことない。さぁ、次の通りを見てみようか。何か欲しいものがあったら買ってあげるからすぐに言ってくれ」

ヒッグス様は顔を赤くして照れたようだ。急に別の方向に体の向きを変えた。その時、走ってきた小さな子供と体がぶつかる。

「ヒッグス様!」

追いかけっこをしていたらしい子供は、ヒッグス様の足にぶつかって石畳の上に転がった。一瞬びっくりした顔をしてから、大声で泣き始める。私はすぐに子供に駆け寄って助け起こした。

「あぁ、大丈夫ですか? 怪我はないですか?」

子供は五歳くらいの男の子で、ずっと泣き続けている。怪我は膝小僧を少し擦りむいた程度のよう。私はほっとして子供の頭を撫でた。

「このくらいの怪我なら大丈夫です。後で消毒すれば一週間もすれば治りますよ。お母さんはどこですか?」

尋ねるが子供は激しく泣くばかりで何も答えてくれない。大勢の人が行き交う雑踏の中で周囲を見回すが、なかなか彼のお母さんは見つかりそうもない。

(仕方ありませんね。時間が経ったらきっと落ち着くでしょう)

「あぁ、まいったなぁ」

ヒッグス様の困りきったという声が頭上で聞こえる。

「あっ! おい、君。ちょうどよかった! これをやるから彼の両親を探してやってくれ。この子が親とはぐれたらしい」

落ち着いた場所にでも移動しようと思ったとき、ヒッグス様が偶然通りすがったのだろう警官にお金を渡して子供のことを頼んでいる。

私が見ているのに気が付いたヒッグス様はにっこりと微笑んだ。

「エマちゃんは本当に優しいな。でもこれで大丈夫だ。きっとすぐに親が見つかるさ」

かなりのお金をもらったらしく、頼まれた警官はかなり有頂天になっている。そうして幾度かお礼を言いながら泣きじゃくる子供の手を引いてどこかへ行ってしまった。

「僕たちが探すより、プロに頼んだ方が早いからな。警官なら子供も安心するだろうし」

「で、でも……」

「ん? なに、エマちゃん。そういえばお腹が空いたな。エマちゃんは何が食べたい? イタリアンかフレンチどっちがいいかな?」

その笑顔には一点の曇りもない。ヒッグス様の行動は正しい。私たちが探すよりも警官の方がよほど役に立つはず。でも何かが引っかかってしまう。

(外面全開のご主人様なら、絶対に子供をあやしながらご両親が見つかるまで探してあげていました。こんな風に迷惑そうな顔はしません。たとえ私と二人きりだったとしても、文句を言いながらも子供の面倒を私に見させていたはずです)

忘れていたはずのご主人様のことが思い起こされて、胸の奥がつきんと痛む。

(どうしてあんな酷いことをしたご主人様の顔が出てくるのでしょうか。私はご主人様なんて嫌いなんですから!)

私は心の奥にもやもやを抱えたまま、ヒッグス様と一緒に街のリストランテで昼食までいただく。ヒッグス様と一緒に過ごすのはとても楽しいが、それでも彼の小さな行動までもついご主人様と比べてしまう。

窓際の席を強引にとってもらったり、よく来る店のはずなのに支配人の名前すら覚えていなかったり。

(ご主人様は支配人の方にこんな風に無理は言いませんでした。一度聞いたお名前は絶対に忘れませんでしたし、いつも身分は関係なく自分から挨拶しておられました)

「どうした、エマちゃん。僕といるのは楽しくない?」

「あっ、いいえっ! 私はただのメイドですのにこんなにしていただいて本当に感謝しています」

美味しいコース料理をいただいてデザートを食べ終えたところ。ヒッグス様は本当に嬉しそうに私が食べているさまを見ていた。

「メイドとかそんなことはどうでもいい。だってエマちゃんは元はソーントン子爵家の貴族だったんだから。さぁ、次は何がしたい? なんでも言って」

ヒッグス様は常に私が何をしたいのか何が食べたいのか尋ねてくる。ご主人様からは一度も聞かれたことがないものだ。

正直、自分が元貴族だと驕ったことは全くない。人に命令するよりも命令されるほうがどちらかというと性に合っている。自分で何かを決めたり、人に指図するのは苦手な分野だ。

(だからこんな風に自分のしたいことや食べたいものを聞かれると、正直困ってしまうんですよねぇ。でもヒッグス様は私が答えるのを待ってくださるし……お待たせするとすごく悪い気がします)

食事のメニューを決めるのにもすごく時間がかかってしまい、ウェイターの方まで迷惑をかけてしまって深く反省をしたばかりなのだ。

(ご主人様は私のものまで勝手に注文してしまいますけど、そういえば私の苦手なキノコが入っているメニューは頼まれたことがありませんでした。もしかして私が嫌いだと知っていたのでしょうか?)

「エマちゃんといると、君が綺麗だからみんなが見ているな」

ヒッグス様が周囲を見回してそわそわしている。相変わらずお世辞がうまい方だ。楽しく会話をしながら昼食を終えた。

「ヒッグス様。少し失礼いたします」

リストランテを出る前に化粧室によることにする。その時、廊下で奥の個室から出てきた男性にぶつかりそうになった。

「も、申し訳ありません」

私はすぐに頭を下げたが、男性は何も言わずに玄関から出て行ってしまった。けれどもふと思う。彼は帽子を目深にかぶっていたが、すれ違う瞬間に上着の隙間からちらりと特徴的な懐中時計が見えた。

(あれはハーブリット伯爵ですね。もしかしてシャーロット様がここにいらっしゃるのでしょうか)

気になって彼の出てきた扉をじっと見ていると、しばらくたってシャーロット様ではなく初老の男性が顔を出した。ほっとして胸をなでおろす。

(シャーロット様にご挨拶もせずにお屋敷を出てきてしまいました。荷物もそのままでしたし、ご主人様が持って帰ってくれたのでしょうか)

その日、私は一日中ヒッグス様と一緒に祭りを楽しんだ。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

マイナー18禁乙女ゲームのヒロインになりました

東 万里央(あずま まりお)
恋愛
十六歳になったその日の朝、私は鏡の前で思い出した。この世界はなんちゃってルネサンス時代を舞台とした、18禁乙女ゲーム「愛欲のボルジア」だと言うことに……。私はそのヒロイン・ルクレツィアに転生していたのだ。 攻略対象のイケメンは五人。ヤンデレ鬼畜兄貴のチェーザレに男の娘のジョバンニ。フェロモン侍従のペドロに影の薄いアルフォンソ。大穴の変人両刀のレオナルド……。ハハッ、ロクなヤツがいやしねえ! こうなれば修道女ルートを目指してやる! そんな感じで涙目で爆走するルクレツィアたんのお話し。

一宿一飯の恩義で竜伯爵様に抱かれたら、なぜか監禁されちゃいました!

当麻月菜
恋愛
宮坂 朱音(みやさか あかね)は、電車に跳ねられる寸前に異世界転移した。そして異世界人を保護する役目を担う竜伯爵の元でお世話になることになった。 しかしある日の晩、竜伯爵当主であり、朱音の保護者であり、ひそかに恋心を抱いているデュアロスが瀕死の状態で屋敷に戻ってきた。 彼は強い媚薬を盛られて苦しんでいたのだ。 このまま一晩ナニをしなければ、死んでしまうと知って、朱音は一宿一飯の恩義と、淡い恋心からデュアロスにその身を捧げた。 しかしそこから、なぜだかわからないけれど監禁生活が始まってしまい……。 好きだからこそ身を捧げた異世界女性と、強い覚悟を持って異世界女性を抱いた男が異世界婚をするまでの、しょーもないアレコレですれ違う二人の恋のおはなし。 ※いつもコメントありがとうございます!現在、返信が遅れて申し訳ありません(o*。_。)oペコッ 甘口も辛口もどれもありがたく読ませていただいてます(*´ω`*) ※他のサイトにも重複投稿しています。

つがいの皇帝に溺愛される幼い皇女の至福

ゆきむら さり
恋愛
稚拙な私の作品をHOTランキング(7/1)に入れて頂き、ありがとうございます✨読んで下さる皆様のおかげです🧡 〔あらすじ〕📝強大な魔帝国を治める時の皇帝オーブリー。壮年期を迎えても皇后を迎えない彼には、幼少期より憧れを抱く美しい人がいる。その美しい人の産んだ幼な姫が、自身のつがいだと本能的に悟る皇帝オーブリーは、外の世界に憧れを抱くその幼な姫の皇女ベハティを魔帝国へと招待することに……。 完結した【堕ちた御子姫は帝国に囚われる】のスピンオフ。前作の登場人物達の子供達のお話。加えて、前作の登場人物達のその後も書かれておりますので、気になる方は、是非ご一読下さい🤗 ゆるふわで甘いお話し。溺愛。ハピエン🩷 ※設定などは独自の世界観でご都合主義となります。 ◇稚拙な私の作品📝にお付き合い頂き、本当にありがとうございます🧡

【完】秋の夜長に見る恋の夢

Bu-cha
恋愛
製薬会社の社長の一人娘、小町には婚約者がいる。11月8日の立冬の日に入籍をする。 好きではない人と結婚なんてしない。 秋は夜長というくらいだから、恋の夢を見よう・・・。 花が戦場で戦う。この時代の会社という戦場、そして婚約者との恋の戦場を。利き手でもない左手1本になっても。 ベリーズカフェさんにて恋愛ランキング最高17位 他サイトにて溺愛彼氏特集で掲載 関連物語 『この夏、人生で初めて海にいく』 エブリスタさんにて恋愛トレンドランキング最高32位 『女神達が愛した弟』 エブリスタさんにて恋愛トレンドランキング最高66位 『女社長紅葉(32)の雷は稲妻を光らせる』 ベリーズカフェさんにて恋愛ランキング最高 44位 『初めてのベッドの上で珈琲を』 ベリーズカフェさんにて恋愛ランキング最高 12位 エブリスタさんにて恋愛トレンドランキング最高9位 『拳に愛を込めて』 ベリーズカフェさんにて恋愛ランキング最高29位 『死神にウェディングドレスを』 エブリスタさんにて恋愛トレンドランキング最高11位 『お兄ちゃんは私を甘く戴く』 エブリスタさんにて恋愛トレンドランキング最高40位

媚薬を飲まされたので、好きな人の部屋に行きました。

入海月子
恋愛
女騎士エリカは同僚のダンケルトのことが好きなのに素直になれない。あるとき、媚薬を飲まされて襲われそうになったエリカは返り討ちにして、ダンケルトの部屋に逃げ込んだ。二人は──。

国王陛下は悪役令嬢の子宮で溺れる

一ノ瀬 彩音
恋愛
「俺様」なイケメン国王陛下。彼は自分の婚約者である悪役令嬢・エリザベッタを愛していた。 そんな時、謎の男から『エリザベッタを妊娠させる薬』を受け取る。 それを使って彼女を孕ませる事に成功したのだが──まさかの展開!? ※この物語はフィクションです。 R18作品ですので性描写など苦手なお方や未成年のお方はご遠慮下さい。

転生したら、6人の最強旦那様に溺愛されてます!?~6人の愛が重すぎて困ってます!~

恋愛
ある日、女子高生だった白川凛(しらかわりん) は学校の帰り道、バイトに遅刻しそうになったのでスピードを上げすぎ、そのまま階段から落ちて死亡した。 しかし、目が覚めるとそこは異世界だった!? (もしかして、私、転生してる!!?) そして、なんと凛が転生した世界は女性が少なく、一妻多夫制だった!!! そんな世界に転生した凛と、将来の旦那様は一体誰!?

悪役令嬢は王太子の妻~毎日溺愛と狂愛の狭間で~

一ノ瀬 彩音
恋愛
悪役令嬢は王太子の妻になると毎日溺愛と狂愛を捧げられ、 快楽漬けの日々を過ごすことになる! そしてその快感が忘れられなくなった彼女は自ら夫を求めるようになり……!? ※この物語はフィクションです。 R18作品ですので性描写など苦手なお方や未成年のお方はご遠慮下さい。

処理中です...