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1、ご主人様の外面

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私のご主人様、リチャード・エマーソンは名門エマーソン伯爵家の長男で、容姿端麗、頭脳明晰と社交界でも有名。優雅で落ち着いた雰囲気を持った王国一の美丈夫だといわれている。

現在二十七歳の彼には商才があったようで、伯爵家の資産を四年で数十倍にまで増やした。彼は充分な資産があるにも関わらず彼は豪勢な生活に溺れるでもなく、類まれな頭脳を生かして教授として大学で教鞭をとっている。

銀色の睫毛が切れ長の瞳を覆い、形のいい鼻筋にすっきりとした顎のライン。流れるような少し長めの髪は、まるで朝露に輝く水滴のように銀色の輝きを放っている。どこからどう見ても眉目秀麗なイケメンだ。

もちろん王国中の令嬢がご主人様に想いを寄せたのは言うまでもない。なのにどんなに絶世の美女だと噂されている高貴な令嬢だろうと、ご主人様はお付き合いはなさらなかった。

彼が言うには、“彼女たちは退屈すぎる” らしい。本当になんてエゴイストでナルシストで尊大な方なのだろうか。呆れてため息が止まらない。

「リチャード教授。君の助言通りベリア地区に倉庫を作って水路を利用して輸送することにしたら利益が倍になったよ。さすがは君だな。どんなに優秀なコンサルタントでも、水路を使うことまでは考えが及ばなかったというのに」

王都にある一流のレストランのサロン。そこの一番いい席にカーデシアン卿とご主人様が向かい合って座っている。そうしてその周りをそれぞれ名の知れた貴族が囲んでお二人のお話を拝聴していた。

私といえば地味なドレスを身にまとい、煌びやかな人たちに混ざってひっそりと最後尾に身をひそめるようにして立っていた。

私は彼の専属メイド。常にご主人様の傍にあってご命令を聞くのが第一なのだが、その存在を感じさせてはいけない。なのに容姿だけではなく何かと目立つご主人様のせいで、メイドの私まで周囲の視線にさらされることが多いのだ。

(あぁ、美形のご主人様の専属メイドがどうしてこんな地味なんだと、みんな思っているに違いありません)

ご主人様はどんなに美しい女神様さえ惚けてしまいそうなほどの甘い笑顔でこうおっしゃった。

「いいえ、カーデシアン卿。僕だけでは到底そこまでの利益は出せなかったでしょう。カーデシアン卿のご高名とこれまでの実績があってこそ。僕はただその手助けをしただけです」

「ほほほ、リチャード様は驕ったりなさらなくて、本当に謙虚な紳士ですわね。そんなところもお素敵ですわ」

「ありがとうございます、バステア侯爵夫人。ですが夫人はジーンの孤児院に、先月多額の寄付をされたと聞いております。あなたの素晴らしい善意の行為に比べれば、僕のしたことは大したことではありません。きっと大勢の子供たちが夫人に感謝していることでしょう」

(あの頑固だと有名なカーデシアン卿が、自慢のおひげを撫でながら悦に浸っています。それにいつも文句しか口にしない気難しいバステア侯爵夫人にまで褒められるなんて――さすがは人たらしのご主人様ですね……)

私はいつものようにご主人様の人心掌握術を感心しながら眺めるのだ。彼の善人の外面は今日もゆるぎないほどに鉄壁。

サロンに入室を許されているのは選ばれた上流階級の紳士淑女たち。

自分から誰かに声をかける必要もない高貴な方たちが、彼の存在を見止めると足早に駆け寄ってくる。それほど誰もがご主人様とお話をしたがっていた。

「あら、エマーソン教授、あなたが来ていると知っていたらもう少し早くここに来ましたのに……」

「エリーナ夫人、お久しぶりです。カーテス家の夜会の日以来ですね。この間は迷っておられましたが……あぁ、やはり真珠よりも清廉な貴女には銀の耳飾りがとてもお似合いです。素敵ですよ」

媚びを売っているわけではなく、会話の中にそっと挟まれる耳障りの良い言葉。流れるような動作に、白くて長い指先が優美さを添える。そんなご主人様にその部屋に居るものみな、うっとりと見惚れた。

何があろうと常に春の風のように穏やかな性質で、リチャード・エマーソンが言葉を荒げるところなど一度も見たことがない―――『社交界の貴公子』と、そう貴族界では噂されている。

幾人かの貴族と言葉を交わした後、彼は優雅に席を立った。そうして最後尾の私の存在を見とめて声をかける。

「さぁ、待たせてごめんね。そろそろ屋敷に戻ろうか、エマ」

「はい、わかりました。ご主人様」

ご主人様が私に向かって手を差し出したので、私は頭を下げてその手を取った。するとほかの客たちの視線を一気に浴びて居心地が悪くなる。

そんな私をよそに、ご主人様の言葉に周囲の客たちは頬を緩める。私のような平凡な使用人にすら気遣いをみせるなんて、どれほど心優しい方なのだろうとでも思っているに違いない。

そうして彼の本性を知っている私の心は、ますますざわつくのだった。

そう……私は彼専属のメイド。こうしてご主人様が外出するときは一緒に行動させられている。

そうしていつも心の奥で思う。世の中は本当に不公平だ。

ご主人様の後ろをついて馬車に乗り込み、サロンを後にする。そうして来るべき時を予想して背筋を震わせた。

(……もうそろそろでしょうか……エリーナ夫人とお話ししている間、かなり限界のようでしたから……)

しばらく馬車が走った後、ご主人様はわざとらしい柔和な笑顔を一瞬で消した。

そうして顔を歪めてため息をつきながら姿勢を崩し、ドカッと大きく足を組む。私はついに来たかと心を緊張で引き締めた。

狭い馬車の中で足を投げ出しているので、向かいに座る私は膝を斜めにしなければならないほど。私はできるだけ体を縮こまらせて隅の方で小さく座る。

だというのにご主人様は、さらに膝に肘をついて乱暴に頬杖をつく。そうして声はワントーン低くなり苦虫を噛みつぶしたような顔になった。先ほどまでの優雅な紳士な彼とは大違い。

「何も学ぼうともせず、ただのうのうと生きている貴族の尻拭いを、どうして俺がやらなければいけないんだ。勘弁してくれ。俺は幼稚舎の先生じゃない。大学教授なんだ。だがカーダシアン卿の領地は俺の事業にとっても重要な場所だからな。利益が絡んでなければ、見たくもない醜悪なひげ面おやじだ。お前もそう思うだろう、エマ」

私と二人きりになると、いままで褒めていた人たちの悪態をつき始める。いつものことだ。ご主人様のこうした豹変は今に始まったことではない。

私はにっこりと愛想笑いをして相槌をうつ。これもいつものこと。

「そうですね。ご主人様」

「エリーナ夫人に真珠なんて似合うはずもないだろう。豚に真珠だ。彼女は旦那以外に何人もの若い男を囲っている軽い女なんだからな。俺は自分が浮気するのはいいが浮気されるのは大嫌いだ。虫唾が走る」

(当然そうだと思っていました。ご主人様は自分勝手を絵にかいたような方ですから……)

と思うが口には出さない。この通り、ご主人様は外面はものすごくいいのだけれど、実際の中身は自己中心的で傲慢。

唯一彼の本性を知っている私にこうして毒を吐き、更に嫌がらせをすることで鬱憤を晴らしているサディストだ。

彼が私を専属のメイドにしたのもきっとそのため。隷属に甘んじるだろう人間を本能で選んでいるのだろう。ご主人様の人を見る目は本当に的確なのだ。

「エマ、こっちに座って俺に膝枕をしろ。疲れたから少し眠る」

「え……? でもご主人様。馬車の中ではお座席が狭すぎて、膝枕はできそうにありませんけれども……」

ご主人様の身長は百八十八センチ。馬車の横幅は狭く、いくら彼が体を曲げたとしても横になるには無理な体勢だ。

「はぁ、もういい、エマ。お前はその場を動くな」

業を煮やしたのか、ご主人様は突然席を立つとドカリと私の隣の座席に座り込んだ。そうして彼の上半身が私の胸と膝の上に乗せられる。足は当然天井に向けて投げ出された。なんて無理な体勢をされるのだろう。

彼の上半身すべてを私が支えているようなもの。あまりの重さに膝がガクガク震えてくる。私は青い顔をしてご主人様をかがんで見た。

するとご主人様はいきなり私の首を掴んで引き寄せ、キスをした。唇にむにゅりとした感触がしてチュッと軽い音がする。次の瞬間、ご主人様が大仰に眉をひそめた。

「……羊のチーズの嫌な味がする。お前、昼食にあれを食べたな。俺は羊のチーズが大嫌いなんだ。もう二度と食べるんじゃないぞ」

「も、申し訳ありません……」

(く、悔しぃーですぅ! なんで私が謝らないといけないのでしょうか。だったらキスをしなきゃよかったじゃないですか!)

私が憤った顔をすると、ご主人様は更に悦に入った笑みを浮かべる。そう、彼は私の反応を見て愉しんでいる変態なのだ。代わりに、ご主人様のさっきまで悪かった機嫌は一気によくなった。

ここ一年ほど、ご主人様はこうして意味もなしに私にキスをしてくるようになった。初めは何か悪い意味があるのかとどぎまぎしていたのだが、それからもずっとご主人様は至って冷静。まるでなにもなかったような態度だ。

そうやってあまりにも自然に何度もキスをするものだから、次第に私の方も慣れてしまった。ご主人様にとってきっと嫌がらせの一つなのだろう。なので今では挨拶のようにやり過ごすことにしている。

そうしてご主人様は切れ長の目を向けて、いつものように私に命令する。

「エマ、一ミリも体を動かすなよ。もしそのせいで俺が目を覚ましたら給金の二十パーセントを引くからな」

「そ、そんな! もう今月の給金はご主人様にすでに半分にされているのですけれど!」

思わず鶏がしめ殺されたような声が口をついて出てくる。けれどもご主人様はお構いなしだ。いつも通りの傍若無人さをみせる。

「だったら動かなければいい。それほど難しいことじゃないだろう。お休み、エマ」

そういうなりご主人様は睫毛がびっしり生えた瞼を閉じる。どうしたことかと、しばらくは固まっていた私だが、時間が経つごとに彼の重さと席の狭さに膝の力の限界がやってきた。

(これはっ、また新しい嫌がらせの方法を考えだしたのですね。せ、狭いし重いですぅ!)

プルプルと太腿が震えているがご主人様は一向に気にしないらしく、規則的な寝息まで立て始めた。私は襲ってくる太腿の痙攣に必死で耐えながらも、ご主人様の整った顔をまじまじと見る。

(こう見ると男性にしては長い睫毛をしていますよね。こんな風にずっと目をつぶっていてくださればいいのですけれど。本当に顔だけは無駄にいいんですから……でもこれももう終わりです。あと一週間で私は二十歳になります。そうしたらお屋敷から出ていかせていただきますから!)

そうして私は膝の重さに耐えながらこぶしを握り、己を奮い立たせた。そうしてご主人様に初めて会った日のことを思い返す。

あれは今から十年ほど前のこと。そんなにも前から、私は専属メイドとご主人様という主従関係を装った彼のいじめに耐えていたのだ。
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