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32 狡猾公爵は、認めない

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 コギ伯爵領に向かわせたダインが予定通りに帰ってこない。ディンギール公爵は、薄汚れた下働きに憤りを覚えていた。

「あいつ……」

 痩せて骨が浮いた、生気のない青い目。元妻を彷彿とさせるあの色を思い出すだけで、公爵は苛立っていた。

「そんなはずはない。あいつも胎の子もこの世にいないはずだ。ええい、忌々しい亡霊め!」

 すでに、この世にはいないモノを振り払うかのように、グラスに残った強い酒を飲み干す。

「あなた、今回は、王宮ではなくたかが田舎の伯爵領だもの。警備も緩いだろうし、いつも通り目的を果たして帰ってくるわ」

 気休めでしかない彼女の言葉に頷く。失敗したらしたで、ダインは伯爵に処罰されるだろう。捕らえられたとしても、やつの弱みを握っている限りこちらの情報が洩れることはない。

 公爵は、酒気を帯びた淀んだ瞳で、デコルテラインが大きく開いた妻を抱き寄せる。若かったころとは違い、いつしか張りがなくなり弛みきったものの柔らかい胸を片手で弄びながら酒を煽った。

 このまま、妻と甘い夜を過ごそうとしたが、やけに屋敷の中が騒々しい。何事かと廊下にいる使用人に訊ねた。

「それが、別邸に捕らえていた侍女が姿を消していて。どうやら逃げ出したようです」

「なんだと? この馬鹿者が、すぐに探し出せ! 責任者は誰だ! 生死は問わぬ。捕らえた者には褒美をやろう」

 先日、侍女が生死の境をさまよった。使用人の一部が、彼女が亡くなったと勘違いするほどの危機であった。

 公爵としては、このまま放置しようと決意した。ついでに、利用できるだけ利用したダインにも、消えてもらおうかとも考えていたのである。

 しかし、ダインを気に入っているディアンヌの懇願があったことで、しぶしぶ医者を呼んだ。医者の懸命の措置のおかげで、命だけはかろうじて助かったばかりの彼女が、単身逃亡するはずがない。

 内部に裏切り者がいるのかと、公爵は酒気がふっとぶほどの怒りが沸いた。報告した使用人に、まだ半分は残っているウィスキーの瓶を投げつけた。

 頭から赤を流す使用人は、痛みと衝撃に堪えながらも公爵に平身低頭する。

「いいか、このことはダインには知らせるな。万が一にも耳に入れば……」

 公爵は、ダインがすでに侍女が亡くなっていると勘違いして、コギ伯爵で囚われの身になっているとは知らない。

 ダインは、公になればいくらディンギール公爵であっても、ただではすまないような後ろ暗い事情に深くかかわっている。万が一にもそのことを外部に漏らされるわけにはいかない。ディアンヌの夜のお気に入りでもあるダインを生かしておいたことを深く後悔した。

 必死に侍女を捜索したものの、煙のように忽然と消えた彼女の消息が一向に掴めなかった。

 そして、ダインも戻らないまま時だけが過ぎて行ったのである。

 それから数日後、ウォーレンとアイーシャの婚約パーティの招待状が送られてきた。騎士団長の遅すぎる春に喜んだ国王夫妻のひと声で、ふたりの婚約式は王宮の一角で行われることになる。

 代々国を守ってきたウォンバート家と、久しぶりに現れた神の愛子の婚約とはいえ、あまりにも行き過ぎた特別待遇だ。公爵を筆頭に、派閥の閣僚は国王に意見具申をしたが却下された。

「こうなったのも、ダインが失敗したせいだ……」

 このままでは、ウォンバート家の発言力が高まり、ますますがやりにくくなる。

 いまだに戻らないダインの安否を心配するどころか、任務に失敗した彼を恨んだ。

「侍女が逃げたことを知らないやつは、逃亡などしないはずだ。ということは、野垂れ死んだのかもしれん。どうせ死ぬなら小娘も道づれにすれば良かったものを……」

 公爵は、ダインが公爵の秘密を漏らさないままこの世を去ったのだと判断する。しかし、証拠がないためどうにも心が晴れないまま過ごした。

 最近、虫の居所が悪い公爵に、彼の気苦労を何一つ知らないディアンヌが声をかける。彼女は、ダインがいない夜は、他の使用人とベッドを温めていた。しかし、彼ほど美貌を持ち夜を満足させてくれる男はいない。そろそろダインに戻ってきて欲しかった。

 公爵の命令でどこかで仕事をしている彼を呼び戻してもらおうと、いつものように、太った腹に甘えてしな垂れかかる。

「お父様、いらいらしては血圧があがりますわ。血圧を落ち着かせるお茶を用意しましたの。そうそう、最近ダインの姿が見えませんが、そろそろ……」

 普段の公爵なら、これだけで鼻の下を伸ばして、ダインをすぐさま呼び戻してくれただろう。だが、予想とは違っていた。

「今すぐ離れろっ! 媚びを売るしか能のない愚か者め!」
「ディアンヌ! あなた、落ち着いてくださいませ」

 公爵が、思わせぶりに胸をなぞるディアンヌの手を、ばしんと払いのける。公爵が彼女に暴力と暴言をふるったのは初めてだ。容赦のない力だったため、床に倒れこんでしまったディアンヌは驚いて言葉を失った。

 それを見ていた彼女の母もまた驚いたものの、娘をかばうことなく公爵の怒りを鎮めようと声をかける。妻を見た公爵は、少しだが冷静さを取り戻した。

「おい、そこの。ディアンヌを連れて部屋に行け。医者を呼んで治療をさせるように」

 公爵は、ディアンヌに謝罪もせずに部屋から追い出す。そして、どうにもならない現状から逃げるように、妻を抱きながら酒を浴びるように飲み続けたのであった。

 ついに、ウォーレンの婚約式の日がやってきた。国王直々の開催とあっては参加せざるを得ない。公爵は、彼らを睨みつけながら、他の参加者と同じように手を叩いた。

「いやはや、なんとも愛らしい婚約者どのだ。しかも神の愛子だとは。ずっと独り身の君を心配していたのだが杞憂だったようだ。おめでとう、これでウォンバート家も安泰だな」

 内心は、今すぐその首をひねってやりたいと思いつつも、笑顔で祝福した。表面上は和やかに手を差し出そうとした時、後方からやけに騒がしい音と怒声が発せられたのである。 

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