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 ゲブリオ公爵の邸で過ごすことになってから、気が付けば3か月が過ぎた。王族や聖女の覚えもめでたい彼女は、社交界にひっぱりだこ状態だったが、なんせ教育を受けていない。
 本の知識のみでは困る場面も多く、彼女のためにガヴァネスなど教育係や、社交中の保護者がつけられた。

 彼女たちのサポートのおかげもあり、今のところは無事にお茶会などをこなしている。

「では、次は風の国の詩集を読んでみてください。次回のお茶会は、ブリーゼ国出身の侯爵夫人が開かれます。そこでは、詩集を読み合うのですが、フェルミさんはブリーゼ国の言語がわかりますか?」
「文字は、風の国の小説を読んだことがありますので理解できます。ですが、聞くのも話すのもしたことがありませんので、できないと思います」
「では、単語や文章はおわかりなのですね。お茶会は3週間後ですから、できる範囲でいいので、聞くことができるようにしましょう。ただ、ひとつの詩くらいは詠めたほうがいいわね」
「はい、よろしくお願いいたします」

 急ピッチの厳しい教育スケジュールだったが、フェルミはとても楽しかった。どれも初めてのことばかりで、しかも、勉強の合間に各国の色んなことを知ることが出来る。

「おおきナ、そぉら、ガ。ギャ、そぉらに、クも、ギャ、」
「末尾まで丁寧に舌を動かして。大きな空に雲が、ですよ」
「おぉきな、そ、らにィ」

 ガヴァネスは、フェルミの上達に舌を巻いていた。これほど真面目に、勉強に取り組む令嬢はあまりいない。侯爵夫人のお茶会で、ブリーゼ語の詩集を理解できる令嬢は半分くらいだろう。

(一体、どのほどの外国の原書を読んできたのかしら……。独学だったらしいけれど、筆記はほぼ満点だなんて。何も知らないから子供を教えるつもりでと言われて引き受けたのだけれどとんでもない。この子は、半年もしないうちに、上級家のご令嬢とほぼ同じのマナーや知識を身に着けることができるわ)

 砂が水を吸い込むように、教えがいのある生徒だ。ガヴァネスは、嬉しくなり、当初の予定よりも早くフェルミに教え込んでいった。

 カインや騎士たちだけでなく、公爵家の使用人たちも、貴族令嬢の教育について知っている。ガヴァネスの教育方針が、かなり厳しいとフェルミを心配していた。

「はい、今日はここまで。明日までに、この詩集を、全て暗記しておいてください」
「はい」

 ガヴァネスが帰宅したあと、侍女がフェルミにお茶とマフィンを差し出した。その間にも、フェルミは詩集を口ずさんでいる。

「フェルミ様、あまり根をおつめになられなくても。フェルミ様は遠慮しすぎだと思います。このままでは、倒れてしまいます。差し出がましいとは思いますが、私が、先生に話を……」
「大丈夫です。本当に楽しくて。こんな風に教育を受ける機会をいただいて、感謝しているんです。それに、先生は、私がどんなにミスをしても、無視をしたり笑ったりなさらないでしょう? それどころか、うまくできたときは褒めてくださる。私、それがとても嬉しいんです。それに、公爵様のお屋敷の皆様が、とても優しくて……」

 心が安らぐハーブティーの香りが、お茶と共に体にしみわたる。間違いなく、フェルミにとって今は極上の幸せの中だ。心からそういう彼女を見て、侍女や騎士たちはますます心配になりつつも、心が温かくなった。

「フェルミさん、今日は町に出かけないか?」
「カインさん。でも……よろしいのでしょうか?」
「さっき、課題を出されたんだったな。勉強も、フェルミさんにとって大事で貴重なものだとは思うが、フェルミさんはフレイム国を冒険したかったのだろう? ひとつも覚えていなくても、普段は真面目なんだ。先生だって、たまの息抜きぐらい許してくださるさ。社交以外だと、ひと月に二度しか外出していないじゃないか。前回は、シアノに連れて行ってもらったのだから、今日は俺が案内する」
「シアノとピスティのふたりとの外出では、物足りない部分もあったのでは? 今日は私もおりますので、少々日が沈むまで外出していただいても構いませんよ。今日はさぼりましょうか」
「ランサミさんまで……ふふふ」

 見れば、侍女たちも笑顔で頷いている。たしかに、カヴァネスも毎回課題を100%できていなくても構わないと言ってくれていた。

「じゃあ、夕食の時間まで、いいですか?」

 フェルミがカインの提案に乗ると、侍女たちに外出用のおしゃれをしてもらった。
 昼のフレイム国は、グリーン国とは比べ物にならないほど暑い。やや明るい朱色のワンピースは、フェルミの髪によく似合っている。膝より少ししたのスカートたけは、風でふんわりゆれるほど生地が薄く心地よかった。
 日よけのための大きなつばの帽子にはリボンが巻かれており、フェルミを清楚な令嬢に見せていた。

「ランサミ、邪魔するなよ?」
「私は、もともと職務を全うするためにここにいます。コーパ団長のもう一つの任務は、カインさんや、ほかの連中にまかせますからご安心を」
「そこは、俺だけに任せると言えよ。そういえば、お前は意中の相手がいたんだったっけな。ぼうっとしてると、横からかっさらわれるぞ?」
「気軽に言ってくれますね。そっくりそのままお返しします」

 彼らの、というよりもフレイム国の思惑は、知らされていない。ふたりのやり取りの内容など、まったく知らないフェルミは、純粋に彼らが仲が良いと思っている。

 彼らに近づくと、カインが手を差し伸べてきた。熱い太陽の光に照らされて、彼の髪が火のようにゆらめいている。眩しく感じて、目を細めた。

「フェルミさんは、カインと一緒に馬車にお乗りください」

 ランサミはそう言うと、自分だけ愛馬に跨った。日中の大通りで、フェルミにならず者が近づく可能性は低い。カインは彼なりの塩を受け取って、フェルミとともに馬車に乗る。当然のように、向い合わせではなく隣に。

「フェルミさん、どこか行きたい場所はあるか?」
「えーと、先生からお聞きしたのですが、今博物館でブロック国の彫刻展が開催されているそうなんです。行けるのならそちらに行きたいです」
「それなら近いし、このまま行こう」

 フェルミは、最初はこのように要望を伝えることはなかった。お願いしたとしても、ごく普通の事ばかりで、カインや騎士たち、侍女たちは歯がゆい思いをしていた。
 毎日何がいいのか、どうしたいのか、問いかけを彼らが繰り返してくれたことで、徐々に行きたい場所や好きなものなどを口に出せるようになったのである。

 期間限定ということもあり、国立博物館には、大勢の人が思い思いに観覧していた。繊細で美しい彫刻や、巨大で力強い神を模したものまである。

「あ、あれは……」

 フェルミは、博物館の中央に飾られていた彫刻に目を奪われた。それは、グリーン国の女神をかたどったものだ。目を閉じて、全てのものに命を吹き込む自愛あふれた笑みを浮かべている。

「女神様……」

 あれから、フェルミは社交だけでなく様々な場所で、植物を枯らす仕事もこなしていた。例えば、機械の細部に入り込んだつるや、生えてはいけない場所に群生する毒草などがそうだ。それらは、焼き払っても機械が破損し、土には根が残る。フェルミは、彼女のおかげで機械や大地を傷つけず排除することができた領主や商売人からも圧倒的支持を得たのであった。

(女神様、どうして私にこのようなスキルをお与えになられたのでしょうか……)

 勿論返事などない。フェルミの問いは、目の前の彫刻を超え、遥か向こう側の女神に届きはしない。フェルミは、ただ、平凡で当たり前の人生を送りたかっただけだ。だというのに、産まれてから今日まで、本当の意味で彼女の望みが叶ったことがあるだろうか。

 ぴたりとフェルミの隣にいるカインには、じっと女神の像を見つめる彼女の横顔は、静かでとても悲しそうに見えたのだった。

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