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「え……、トーラ? で、しょうか?」

 激しい揺さぶりのせいでタオルがずれたみたい。いつから暗闇から解放されていたのだろうか。わたくしも、それを視界に入れていたはずのトーラでさえ、初めての繋がりに酔いしれてわからなかったようだ。

 ばちっと、ふたりの視線が交差する。わたくしの身も心も、彼から与えられた沢山の想いと熱が充満していた。彼の目の周りもほんのり赤く染まり、肌には汗が光っていて少しだけ気怠そうだ。

 目の前には、逞しくて大きな巨漢の男性がいた。素晴らしい肉体は、何一つ隠されておらず、思わずうっとりするほど鍛え上げられている。

 先ほど、頭巾を取り除いた彼の頭部まで、はっきり見えていた。

(輪郭がわからないように、ぶかっと被っていたから、頭巾の形とはほんの少し違うのね。薄茶色の傘のような……それが髪、なのかしら?)

 肩から徐々に色が変わり、首から上に向かってにゅーっと筋張った白い肌がある。その頂上に髪のような傘があった。真ん中には魔力を秘めた素敵な青色がふたつ並んでいる。

 その形状の物は、よく見ていたし、なんなら皆で沢山食べたものにそっくりだった。

(……やだ、わたくしったら。トーラにもその料理を出した事があったわ。もしかして、だけど……共食いになっちゃってたのかしら。ああ、どうしましょう。とても申し訳ない事をしてしまったわ。……って。違う、違うから……。そうではなくて。見られる事を心底嫌がっていたトーラの素顔を見てしまうだなんて。事故とはいえ、どうしたら……)

 そんな風に瞬時に考えて、彼にとっての禁域に土足で踏み入れたようなマネをしてしまった事を、どう謝罪しようか悩んでいると、一瞬にも満たないその停止した時間に終わりを告げたのは彼のほうだった。

「え? キャロル、何を…………あ、あ……ああっ! 見ないで、見ないでくれ!」

 トーラの心と頭が、わたくしに見られているのだと理解すると同時に悲鳴をあげた。わたくしの目を手で覆うよりも、自分の体を隠すために、ベッドの端に乱雑に寄せられたシーツの中に入り込んで動かなくなる。

 とても大きなシーツの山は、ふるふる震えていて、彼の悲しみや恐怖が伝わって来る。もう10年以上もこの姿まま、明るい未来の見えない道を歩んできた彼を思うと、胸がぎゅうっと苦しくなった。

「トーラ……」

 何ひとつとして、彼にかけるための言葉が出ない。気の利いた人は、このような時に何か言う事が出来るのだろう。わたくしは、馬鹿の一つ覚えのように、彼の名を繰り返した。

「トーラ、トーラ……」
「キャロル、見ただろう? この悍ましい姿を。いくら君だって、こんな醜悪な姿の、ば、ばけものと結ばれたなど、考えられなかっただろ? わかっていたんだ。僕なんかが、誰かと愛し合えるはずがないって。なのに、僕は、君に甘えて感情のまま君と……。も、申し訳ない。この姿を隠したまま、君と一夜を過ごした事は、1万回死んでも許せるはずがない。一生、隠し通せるなんて甘い考えだったんだ。いや、誤魔化して嘘を吐き、君の大切なものを奪って、ごめん、ごめんなさい……」
「トーラ……」

 きっと、この嘆きの声は、ずっと胸の奥底に仕舞いこんでいた気持ちなのだろう。本当は、自分でも認めたくなくて言いたくなかったであろうその思いを、全て受け止める事なんて出来やしない。

「トーラ」

 わたくしは、彼の肩あたりのシーツにそっと手を置いた。びくっと体が揺れて、ベッドが軋み波打つ。

「トーラ、好きです。本当に、愛しています」

 あなたが、どんな姿であろうとも、わたくしのこの想いには関係ない。でも、この言葉は、今真心を込めて伝えても、きっと彼には届かない。
 人々のために懸命に魔の森の魔物と戦い、領民を守り、慈しんできた彼が、泣きじゃくる少年のように思えて仕方がなかった。
 
(こういう時、異世界転生者のヒロインなら、彼の望む言葉が言えるのでしょうね……)

 数々の書籍に置いて、ヒロインというものはタイミング良く事件が起こり、その都度距離を短くして、一気に相手の心を鷲掴むほどのセリフを発する。そう、例えば、まだ真偽は不明だけれど、転生者であるチャツィーネなら、彼の長年かけて築き上げた、棘で出来た心の檻を一瞬で解きほぐして夢中にさせる事が出来るのかもしれない。

「トーラ、好きです」

 彼が、わたくしを払いのけたり、逃げようとしないのをいい事に、両腕を目一杯伸ばして抱きしめた。彼の体を包む込むには、わたくしの腕では全然足りない。

 横向きに屈曲させた体勢の彼は、わたくしに「すまない、すまない」とずっと言い続けている。彼こそ、見られたくないその姿を見られ、言いたくもない思いを口にして深く傷ついているというのに。

「トーラ、大好き」

 神に祈るように、目を閉じて、シーツ越しに彼の肩に唇を寄せる。今のわたくしのこの思いが、このキスで届きますように、と。

 童話でも、物語でも、お姫様を救うのは王子様のキスだ。フロッグになった王子様だって、いたいけな幼い女の子のキスで戻った。いえ、あれは気持ち悪すぎて壁に投げつけた衝撃で戻ったような気もする。

 いっそ、このキスで彼の呪いが解けたらいいのに。そうすれば、彼の心の呪縛も解けて、初めて彼は笑顔になれるだろう。だというのに、シーツの形は、先ほど見たエリンギの形状を保ったまま。
 神がいるのなら、今すぐ、わたくしに彼の呪いを解く力を与えて欲しい。そう思いながら、彼に縋るように抱きしめ続けた。

 一体、どれほど時間が経ったのだろう。いつの間にか、真っ暗だった窓の外が、曙色にほんのり染まっている。

 彼も、わたくしもあのまま夜明けを迎えた。朝の冷気が肌を容赦なくさして、ふるっと体が震えた。すると、彼が震えを感じ取ったのか、恐る恐る、頭のシーツを取らないままもぞりと身を捩った。

「トーラ、おはようございます。もう、朝ですわ」
「……キャロル」

 彼の声は、いつも以上に枯れていた。擦れすぎて、耳を澄まさねば、わたくしの名前を言ってくれたのだとわからないほど。声も出さずに、ずっと泣いていたのかもしれない。

「くしゅっ」

 彼と体と心を交わしたままの姿で彼を抱きしめていたから、わたくしは何一つ身にまとっていない。そう言えば、彼を抱きしめるくらいには、体がなんとか動かせている事に初めて気づいた。
 彼に触れている部分は熱いくらいなのに、背中から足にかけては氷のように冷たくなっていて、足先は痛みを通り過ぎてもう感覚すらない。

「……! キャロル!」

 身じろぎしたから、冷たい足に彼の足が触れたようだ。わたくしの体が冷え切っている事に気付いた彼が、慌てて体を起こして抱きしめた。

「ごめん、ごめん……。こんなに冷たくなって。本当に、僕は……自分の事ばかりで、どうしようもないダメな男だ……ごめん……」

 シーツにぐるぐる包まれ、冷たい肌を、彼が手や足で温めようと必死に包み込んでくれた。

(あったかい……)

「トーラ、わたくしこそ、不躾に見てしまってごめんなさい。でも、好きなんです。あなたを愛しています。信じてください」
「…………!」

 ぎゅうぎゅう抱きしめられた彼の体が震えている。頭のすぐ上の口から、嗚咽にならない何かの音が、空気とともに漏れていた。

「わたくしは、幸せです」

 わたくしが彼に贈る事が出来る言葉は、たったこれだけだったのである。




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