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 勢いよく足を一歩踏み出したせいか、マロウ様に滅茶苦茶近づいてしまった。ほぼダンスの時にホールドしてもらっているくらいの距離だ。

 慌てて半歩後ずさりしようとしたけれど、眉をしかめて目を赤くしたマロウ様に肩をがしっと掴まれたから動けない。あまりにも失礼な距離の詰め方で、ただでさえ私に対して不快な気持ちだろうに、それにオイルを投下してしまったごとく、マロウ様が私をぎんっと目を開いて睨んできた。

 こ、こわい~。物凄く怖い、マロウ様。もう少し、ローズ様たちに向ける優しい眼差しの0.1%くらいでいいので、私へのその熱視線を和らげて欲しい。これが、恋する熱のこもった視線なら大歓迎なのだけれど、あいにくマロウ様はチェリー嬢にしかそんな熱を贈らないだろう。

 ところが、戦々恐々としていたらマロウ様がふっと小さく、よく見なければならなければ見逃していただろう笑みを口元に浮かべたのである。

 心なしか、ドきつい視線も、ちょっとだけベールに覆われたかのようにマイルドになった……気がする。私の願望が見せる幻覚ではない。明らかに、威圧感が少しだけなくなっている。それでも、まだまだ怖いけれども。

「……いきなり私に近寄るなんて、どうした? 何か伝えたい事があるのか?」

「あ、あのあのあの……マロウ様申し訳ありません……わたくし、どうしても我慢が出来なくて……」

 焦りすぎていて、なんて言えばいいのかわからなくて、自分でも何を言っているのかわかっていない。ああ、これが普段から部活でお付き合いのある、誰に対しても優しいウスベニ様だったら、こんなにも心も体も縮こまらせずに、きちんと順序だてて言えるのに。

「ああ、ほかならぬ君の言う事ならなんでも受け止めてあげよう。我慢などせず言ってくれ」

 なんと、マロウ様がそんな風に言ってくれるなんて、完全に想定外だ。例えば、空をふと見上げたら、偶然にも流星が3つくらい立て続けに見えるくらいの貴重な言葉をかけて貰えた。

「あの、怒らないで聞いてくれますか?」

 今なら私のお願いを、快く聴いてくれるかもしれない。とはいえ、相手は次期侯爵様だから、失礼がなるべくないように注意深く訊ねてみた。

「私が、君相手に怒るなど有り得ないから安心して欲しい」

 言葉では怒らないと言いつつ、やっぱり隠せてない熱のこもった瞳が目前にある。さっき感じた和らいだ雰囲気はどこにいったのだろう。カムバック、カインドジェントルマン。ゲラウェイ、溢れ井戸じゃなくてアフレイド。

 震えて、やっぱりなんでもありませんって言葉を濁して逃げたいけれど、ローズ様が傷つくような事態を避けるためだ。私は瞳を閉じて、精神安定剤でもあるローズ様の微笑みを心に浮かべてすーっと深呼吸をした。

「……! ビオラ、そんなふうに俺を、瞳を閉じながら見上げて唇を差し出すだなんて。キ、キスはまだ早い……。俺たちはまだ手も握っていないのに……ああ、なんて積極的でかわいいんだ。チェリー嬢との婚約を解消したら、キスのひとつやふたつ、それどころか、その足で婚姻届けを出して離しはしない……! ああ、でも。そんなにも君が俺とのキスを今望むのなら、俺だってやぶさかではない。ビオラ、愛している……」

「マロウ様、いくつかお願いがございますの。聞いていただけますか? 証言をする時に、わたくしの素性を知られないようにして頂きたいのと、ローズ様にはこの事は生涯秘密にして……は? え……? マロウ様、どうされたのですか!」

 私が意を決して瞼を開けて、マロウ様のその熱い瞳を見てお願い事を話したと同時に、マロウ様が私を見ながら何かを呟いた。さらに、さっきよりも近くに彼の顔が近づいていた。しかも、目を閉じつつ、すこし唇を尖らせて。

 私はびっくりして、尚も近づいて来る彼の顔から逃れようと、その唇に手を当ててぐいっと腕を伸ばす。でも、大柄で鍛えている彼の顔の位置は、1センチも後ろにいかなくて。

 両肩も手でがっしり掴まれたままだから絶体絶命だ。

 いくらなんでも、これが何をどうしようとしているのかわかる。なんと、マロウ様が敬遠したいはずの私に向かってキスをしようとしているだなんて、天地がひっくり返っても起こりえない超常現象レベルだろう。

 そして、その直前に彼の声で、とんでもない内容の言葉をつらつらと述べていた。この耳できちんと、ばっちり聞いた。……聞いてしまった。

 ちょっと、この間から私のキャパシティーをはるかに大きく上回る事が連発しすぎていやしないかしら?

「ま、待ってくださいませ! マロウさま! ちょ、お気を確かに……!」

 一体何がどうなってこうなったのか。やっぱりチェリー嬢と殿下のアンナ事やソンナ事がショックすぎて、マロウ様のどこかのネジがゆるんだのか。

 それとも、そうは思えなかったけれど、やっぱり実直そうでいて、頭と下半身が殿下と同じ生物だったのだろうか。

 母の持っているシリーズ累計販売数がトップな恋愛小説によると、男は心が伴っていなくとも愛を囁けるという。そして、それは自らの汚らしい下半身の欲情を満たすためなら、いつだってどこだって出来るって書いてあった。あの小説は、私にはまだ早いって言って決して読ませてくれなかったけれど、こっそり少しづつ読んだのだ。
 表紙にはR-18とか書いてあったけれど、好奇心が自制心を上回り、あと少しでそういう濡れ場面にページが進むであろうタイミングで学園に戻らねばならなかったのが残念に思ったほど面白くて引き込まれる内容だった。

 主人公である女性は、幼馴染に恋をしていたけれど、政略で王様の側妃になる事が決められた。王様は、亡き王妃様だけを愛したまま、後継者のために主人公と一夜を共にするところから始まる。最初は政略から始まったふたりの愛が、数々の事件を経て真実の愛になった時には感動で涙がこぼれるほどの名作らしい。
 冒頭に、そんな王様の身勝手な心情が赤裸々に描かれていて、初夜の前日まででストップしているから、早く続きを読みたいのである。

 で、今。どうしてそんな話を瞬時に思い出せたかというと、その王様が、断れない立場の主人公に心のないキスをした時とマロウ様が同じに感じたからだ。

「ビオラ、愛している……」

 でも、うっとりと、まるで本当に私の事を嫌っているどころか、愛しているだなんて、本気で思っていそうな表情でせまってくるマロウ様の言葉が、信じられなくて。でもなんとなく、嘘にも思えない。

 自慢じゃないけれど、今まで恋人どころか好きな人だってできた事はない。それに、一体いつ、マロウ様がそんな風に言う出来事が、私との間にあったというのだろうか。心当たりが全くなくて混乱する。

「ビ、ビオラ? しっかりしてくれ……! ビオラッ!」

 マロウ様のそんな言葉と表情のせいで、酔ってしまったかのように目の前がくらくらした。頭が真っ白になって何も考えられなくなり、どこか遠くで、焦りながら私の名を呼ぶマロウ様の声が聞こえる。

 そして私は、ぐいぐい押していた腕どころか、体中の力がふっと抜けていったのであった。




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