僕らのプライオリティ

須藤慎弥

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9.俺は

・・・3

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 跪き、項垂れ、自身の目からこぼれ落ちる涙で冬季くんからの大切な手紙がひどく湿った。

 いったい何が、冬季くんをそうさせたのか……さっぱり分からなくて。

 考えても、考えても、浮かぶのは数時間前の「行ってらっしゃい」だけ。彼に変わった様子は無かったか、いくら思い出そうとしても無駄だった。

 我儘が過ぎた俺の抱擁が原因だとしても、冬季くんは毎回とてもはにかんでいて、耳まで真っ赤にして照れたように俯いていた。

 俺を拒絶しているようには見えなかった。

 出て行く決意を固めるほど、内側ではこっそり我慢していたのだろうか。

 だとしたらそんなの……。


「そんなの……分かるもんか……っ」


 こういう時こそ自身の賢さを使うべきなのに、どんなに必死で原因を探ろうとしてもダメージを負った脳は役立たずだ。

 みっともなくすすり泣き、ひんやりとした室内で蹲ることしか出来ない。とてもじゃないが、その場から動けなかった。

 かつてこんなに心が空っぽになったことがあっただろうか。

 早く追いかけなければという焦りは消え、湧き上がるのはただただ悲しみのみ。

 ──好きな人が居なくなった。

 幸せなひとときと真新しい感情だけを俺の心に残し、突然居なくなった。

 俺しか登録されていない置き去りのスマホ、彼らしいまっすぐな思いが綴られた置き手紙……。

 置き土産がこれだけ揃っていて、帰ってくるとは思えない。
 
 買い物に行ってただけだよ、とひょっこり帰ってくればどんなにいいかと夢を見そうになって、目の前に冬季くんの残像を探す俺は今こそ侘しい男だ。


「どこへ行ってしまったんですか……冬季くん……」


 好きな人からもらった手紙を、あろうことか感情に任せてくしゃっと握り込んでしまった。

 本当なら大切にしまっておきたいほど嬉しいはずのこれは、俺にとっては前触れもなく好きな人から突き付けられた別れの手紙のようなものなのだ。

 二度と会わないことを予感させる、たくさんの〝ありがとう〟。しかし俺は、文字での感謝など受け取りたくない。

 こんなにも愛おしくて悲しい手紙は……要らない。

 どれ一つとして頷いてやれないのだ。

 俺は、冬季くんが居なければもう仕事も頑張れない。職に関して一番しつこくこだわっていたのは俺自身だと、そう気付かせてくれたのは冬季くんでしょう?

 臆さず父と会話が出来るようになったのも、自分から通話を切っても怯えずにいられるようになったのも、その憂鬱な五分が終われば冬季くんとの癒しの時間が待っているから容易になった。

 君に言われずとも、母のことはそもそも恨んでいない。

 相手の男性の連れ子に関してもそうだ。俺は一切首を突っ込む気はないし、冬季くんが争い事を嫌うと言うなら、あれだけ反発していた父の要求だって呑む。

 帰ってきてくれるなら、俺は何だってする。冬季くんの言う通りにする。

 だから、……っ!


「帰ってきてください、冬季くん……」


 君が居なければ〝もう少しがんばる〟なんて難しいこと、俺には出来ない。

 すでに今、どこかへ行ってしまった冬季くん恋しさで死んでしまいそうだ。

 さっきからとても心臓が痛い。肺が苦しい。

 精神的ショックが体内に与える影響は凄まじいものだということを、俺は今身を持って体感している。

 俺の何がいけなかったのか。

 たった二ヶ月弱であっという間に俺の心を攫った冬季くんに、俺はそれほどのことをしてしまったのだろうか。

 もしかして自分にもチャンスがあるのではないかとみっともない期待をし、浮かれていた我が身を盛大に恥じた。

 〝死にたい〟──。死んでしまいたい……。

 君が居なくなったなら、もう何もかもどうだっていい。

 仕事へのやる気? 生きる気力?

 それらを奮い立たせてくれた張本人が居ないのに、どう頑張れというんだ。

 俺を助けてくれた恩返しも、まだ満足にしてあげられていない。

 見せたかった美しい景色は、水平線に沈む夕陽だけじゃないんだ。

 興味深い知育玩具が新品のまま五つはクローゼットにしまってあるんだから、冬季くんが帰ってきてくれないとあれらが一生完成しないじゃないか。


「一人で……これからどうしろと……」


 一生独身を貫こうとしていた男の台詞ではない。だが俺は、独りでの生き方を忘れてしまった。

 健気で可愛らしく、時々ひどく色っぽい表情で俺を見つめる華奢な少年がそばにいないのなら、この家に帰ってくる意味さえ無くなる。

 生きていることが無駄に思えてくる。


「…………」


 冬季くんの置き手紙をくしゃくしゃにしてしまったことで、俺は完全に何もかもへの意欲を無くしていた。

 そんな中、ぼんやりと光るスマホの画面に視線をやる。着信音が鳴っては切れを繰り返すこと五回。相当にしつこい電話の相手は、見なくても分かる。

 ──〝父〟だ。

 しかも留守電に切り替わる前に一度切り、再度かけ直してきている。

 直接伝えたいことでもあるのだろうか……ふと父いわくの緊急な用事が頭をよぎったが、どうせ違うだろと乾いた笑いを溢す。

 それに今俺は、父との通話で感じる憂鬱さの比ではないほどに心が重たい。

 情けないが、まともに話を聞ける状態ではない。


「……なんですか」


 もはやどうにでもしてくれという投げやりな気持ちで、俺は壁を背に足を投げ出し、スマホを床に置いたまま通話を開始した。




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