僕らのプライオリティ

須藤慎弥

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2.出会った二人は

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 昔より小さく見えたはずの父は姿ばかり衰え、中身はやはりとんでもなく大きくて邪悪なままだった。

 俺を呼び付けたのは、母が亡くなったことを報告するためではなく、盗んだ金を代わりに返せと督促するためで、彼に温情など皆無だと改めて気付かされた。

 俺の手には〝ひかり霊園〟と走り書きされたメモ紙と、五枚の書類。ざっと見た限り、一枚は母が父の口座から金を持ち出したとされる証拠で、あとの四枚はこれまで俺にかかった学費が事細かに記されたもの。それは母が盗んだとされる額よりも多かった。

 なぜこんなものを、借用書代わりの書類と共に俺に渡したかと言えば……。

 俺を育て上げるためにこれだけの金を使ったのだから、実母の不始末くらいきちんとしろ──そういう風に受け取るより他ない。


「こんなにも無様な成れの果てがあるか……」


 一秒でも早く退散したいのだが、車に乗り込んだと同時に全身の力が抜け、ハンドルに寄りかかって何度も深い溜め息を吐いた。

 手元にそんな大金は無い。

 俺はまず、インプラント等の自費診療は極力しない方向の、大きなプラス収支を見込めるような開業の仕方はしなかった。

 銀行からの融資も、少しずつ地道に返していける額に設定しなければ、性分からして行き詰まると思った。その根底には、何があっても、絶対に、成宮家の世話にはなりたくないという強い思いがある。


「はぁ……どうしたらいいんだ……」


 まさか、ようやく軌道に乗ったこのタイミングで、懸念していた〝巨大な難癖〟を突き付けられるとは思わなかった。しかも母の尻拭いまで。

 一度も尋ねたことはなかったけれど、母の人となりは今時点で想像に容易い。

 妻の居る男と体の関係を持ち、俺を身ごもったはいいが育てられないと父に預け、そのうえ人の金に手を付けて逃げた。

 ──俺を置いて。

 母がどんな暮らしをしていたのか、どういうルートで父に連絡がいったのかは分からないが、かつて不倫関係にあった者に最期の手配を委ねたということは、孤独な人生であったに違いない。


「本当に迷惑だ……」


 借金の件は、かろうじてまだ現実的である。今が無理だというだけで、何年かかろうが確実に返せる見込みがあるからだ。

 問題は、十年以内にすべての返済が終わらなければ口腔外科医として父の病院で働かされる、ということ。

 俺にとってはこちらの方が由々しき事態だ。


「嫌だ……絶対に嫌だ……!」


 金云々は正直どうでもいい。俺はとにかく成宮家から離れたいのだ。

 その一心で、周囲の勤務医仲間からは無謀だと揶揄されるほど性急に開業した。誰が何と言おうと、これ以上精神的な苦痛を強いられたくなかった。

 弱いと罵られてもいい。「その程度で」と他人は笑うかもしれない。けれど俺にはもう、耐えられないのだ。

 恵まれた家で育った子が、必ずしも幸せであるとは限らない。

 俺は物心ついてからずっと、人格否定とも言える暴言や嫌味を受け止め続けた。冷たい水風呂に浸かっているような、息苦しく寒々しい感覚の中で、ここから脱出するにはどうしたらいいかを常に考えていた。

 ようやく、本当にようやく、逃げ切れたと思っていたのに……。


「いつまで俺は……っ」


 大人になってしまえば、多少は耐性がついているおかげで電話で話すことも面と向かって会話をすることも出来る。

 しかし長年詰られ続けたからか、数分でギブアップしてしまいそうになるのだ。

 父の声を聞いていると、様々な場面がフラッシュバックして心臓が痛くなる。そうすると呼吸も脈拍も速くなり、正常な思考が出来なくなる。

 トラウマなのだ。

 この家そのものが。


「…………」


 俺はいつの間にか、車を走らせていた。

 行き詰まった時、いつも心を落ち着かせる場所がある。そこはとても深い森で、山道をかき分け歩くと大きな橋があり、そこから見上げる月が心身を癒やしてくれそうなほどに美しいのだ。

 その場所へ、無心で走った。

 小さな駐車場に頭から停め、見たくもない書類をダッシュボードにしまい込むと、車から降りてすぐに暗闇を進んだ。

 自宅からも本宅からも気安く立ち寄れる場では無いけれど、どうしようもなく心が疲れてしまった時、嫌なことがあって脳をリフレッシュさせたい時、俺はここに何度となく訪れている。

 上流に滝でもあるのか、橋の下を流れる川は意外と穏やかでない。だが今俺が欲しているマイナスイオンは豊富だ。


「…………」


 この雄大な自然の中で静かに輝く月を見上げていると、俺自身がひどくちっぽけなものに思えてくる。

 ふと橋の下に視線を移した。

 ──楽になりたいな。楽に……なれるかな。

 別に死ぬつもりでここに来たわけではないのに、唐突に生きていることがとてつもなく面倒に感じてしまった。

 流れる水が、繊細な月が、俺をあちら側へ誘っているように見えた。

 学校の屋上から見た雑な景色と、この神聖な場所では、シチュエーションから景観から何もかもが違った。

 それは本当に、衝動的だったのだ。後先を考えないバカな行動だったと思う。

 無になった心が悲鳴を上げ、現実から逃れるためならと、軽率に欄干に片足を乗せた。

 その時だった。


「オバケさん!! 死んじゃダメだ!」
「えっ、……うわ、っ……!」


 腕を掴まれた瞬間、宙を彷徨っていた俺の心がしっかりと体内に落ち着いた。

 俺以外にも人が居たとは知らず、驚きながらも思いっきり引っ張られた衝撃でその人物を押し倒す格好になった。

 背中を強く打ったのか、顔を顰める性別不詳の人物を見て俺はハッとした。

 ……俺は何をしようとした?

 この子が居なかったら、バカな衝動を止めてくれなかったから、俺は……。

 俺は今頃……どうなっていた?





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