恋というものは

須藤慎弥

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◆ ヒート ◆

第五話

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 上司である豊とは必要最低限の会話しかした事が無かった。

 だがあの日を境に、豊と会話する機会が増えた。

 秘密を共有する相手が、実は本社から派遣されてきた本物のエリートだと知ってからの天が、最大限に気を使っていたからというのもある。

 これまでと同様に真面目に仕事をこなすだけでなく、豊から誘われるままにお昼を共にしたり、週末の飲みに誘われても一度も断らなかった。

 せっかく声を掛けてくれた豊に、ほんの少しでも不快な思いを抱かせたら翌日にはクビ宣告を受けてしまうかもしれないという、行き過ぎた疑心暗鬼が大いにあった。

 長いものには巻かれろ精神と、弱味を握られている立場では断る選択肢など無かった事もあり、かつ飲みに誘われた後輩の立場なのでタダ飯にありつけてラッキーだと思う事にした。

 ……とは言いつつ、天は彼の饒舌さに会う毎に魅了されている。

 目の前で、上司の愚痴を部下に垂れ流す人間味溢れたところも、彼がそんな事を言いそうにないぶん好感度はうなぎのぼりだった。


「俺は一人しか居ないんだっつーの。 やろうと思えば出来る仕事を俺に回してくんなって。 数字打ち込んで印刷してデータバックアップ取りゃいいだけじゃん。 人にやらせる前に自分でやった方が早くないか?」


 眉を顰め、テーブルの端を指先でトントンと叩いて天に視線を寄越す豊は、上司の愚痴を言っていてもエリートサラリーマンオーラが消えていない。

 アルコールで暑くなってきたのか、スーツのジャケットは木製の椅子の背凭れに引っ掛けてあり、カッターシャツを関節まで腕捲りして立派な腕時計を露呈している。

 ビールと日本酒でいい感じに酔い始めた豊は、恐らく天にしか打ち明けていない日頃の鬱憤を吐き出した。

 天も付き合って生ビールを口に含む。

 週末の居酒屋は大層賑わっていて、知り合いではない他人がそれぞれの会話に花を咲かせているので、天も豊の愚痴に遠慮なく笑った。


「また課長に仕事押し付けられたんですか?」
「そー。 俺のこと奴隷か何かと勘違いしてるぞ、アイツ」
「……上司をアイツ呼ばわりはヤバいですよ」
「吉武にしか言ってないんだからいいだろ。 まぁ、吉武がチクったら俺終わるけどな」
「そんな事しません」
「だよな。 俺とお前は秘密を分け合ってるし、……てか俺、ずっとこうやって飲める相手欲しかったから嬉しいんだ」
「時任さん……。 飲み過ぎですよ」
「週末くらい許せよ」


 エリートサラリーマンは、意外にも酒が強くない。

 ビールジョッキ三杯で出来上がってしまうと知ってから、上司への愚痴が天への感謝に変わった時を見計らってストップをかけるのが恒例になっていた。

 二十一時を過ぎた頃。

 渋々とつまみの唐揚げを咀嚼する豊が腕時計で時刻を確かめ、天に「早いな」と言いながら帰り支度の一つ目の動作としてジャケットを羽織るのには、訳がある。

 まだ週末の夜をお開きにするには早過ぎる時間帯だが、彼には学生時代から付き合っていたという妻が居るのだ。

 結婚して丸四年。 子どもが居ないからと言って、毎週毎週飲みに出歩くのはそろそろまずいのではないかと天の方が危ぶんでいる。

 少し前までは豊からの誘いに乗る形だったにも関わらず、最近では天からも「今日はどうしますか」と週末の語らいが楽しみになっているだけに、今さらこれをやめろと言われたら寂しい。


「せめて駅まで送るぞ」
「大丈夫ですよ。 時任さんは速やかにお帰りください」
「俺がノンアル飲んでりゃ家まで送ってやれるんだけどな」
「無理でしょ、時任さんのストレスはアルコール入らないと発散できませんよね」
「まさしく」


 背の高い美丈夫が、ゲラゲラと笑った。

 「いつもありがとな」と言って頭をくしゃくしゃと撫でてくる陽気な先輩は、ご機嫌に代行タクシーに乗り込んで走り去って行く。


「俺もありがとうですよ、時任さん……」


 豊が乗り込んだ代行タクシーと、その後ろを付いていく彼の高そうなセダン車を見送りながら、天は無意識に撫でられた頭に触れていた。




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