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第二章
十、
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腕を広げると、テンはこちらに嬉しそうに駆け寄ってくる。明るい笑顔がそこにある。
大家さんが出ていったあとの部屋は、しーんと静まり返っていた。いつもの静寂とは違う、なにも口にしてはいけないような、壊してはいけないような静寂だ。
生き物の重みを膝に感じながら、僕はぼうっとテンの頭を撫でる。
大家さんの話は僕の心に深く残っていた。今まで誰のどんな言葉も響かなかったのに不思議だ。
今僕は幸せじゃないけど、いつかは幸せになれるのだろうか。
“いつか”──……
この言葉はもう聞き飽きた。
僕はずっといつかを望んでいた。
だけど、そのいつかはいつになっても遠いまま、僕の手には届かない。
いつかの幸せは僕の手の指の間からこぼれ落ちたまま、見つからなくなってしまった。
「なあ、テン──」
無意識に口を開く。テンは小首を傾げて僕を見上げた。
「──幸せって、何処にあるんだろうね?」
きっとこの問に答えはない。
そんなこと分かっている。
それでも知りたかった。
見つかるものなら見つけたかった。
僕が落とした幸せを、誰かが拾って届けてほしかった。
にゃー。
テンは一言鳴いて微笑む。透き通ったエメラルドの瞳に、黒い自分の影が写っていた。
──幸せとは自分で掴むもの。
誰が言い始めたのか、そんな言葉はあちこちに転がっている。他人任せにせず、自分で取りに行けと言っている。
だけど、今の僕にはそれがただの綺麗事にしか聞こえなかった。
形のない“幸せ”をどうやって掴んだらいいのだ。
姿形も何処にあるのかも分からないのに、そんな不確実なものをどうやって手に入れろというのだ。
にゃーあ。
テンは僕に笑顔を向ける。幸せなど考えずに笑っている。
「お腹空いたか? キャットフードも買わなきゃな……」
僕に撫でられて目を細めるテンを抱きかかえ、ぎゅっと抱きしめた。僕の突然の行動にテンは身体をびくつかせる。それでも構わずに抱える腕に力を込めた。揺れる体温と鼓動が重なって、テンの存在がはっきりと伝わってくる。
「きみは、ずっと僕の側にいてくれるよな?」
顔を埋めるようにして呟く。力が抜けて、吐息が震えてしまう。
テンはするりと僕の腕から逃げ出してしまった。
にゃー。
僕から少し離れた場所でこちらを見つめ、むっとしたようにつんとそっぽを向く。
テンはハグが好きではないらしい。そのことさえも美咲と重なってしまった。
──やだ、恥ずかしいよ……
付き合い始めてまだ浅い頃、美咲はそう言って頬を赤らめ、うつむいた。いつも元気で負けず嫌いな美咲からは伺えないような表情に、僕はつい悪戯心をくすぐられてしまう。
──男の人とこんな密着すること、ないじゃん?
言い訳をするように呟く美咲に手を伸ばす。
ぴくっと震えた美咲の肩に触れる。
『愛してる。いつまでも』──
──にゃー。
突然の猫の鳴き声に、はっと我にかえる。見ると、テンが撫でろと言わんばかりに首を伸ばして見上げていた。
僕はゆっくりと立ち上がり、立ちくらみに身を任せるようにしてしゃがむ。それでもテンは僕の膝辺りまでにも満たないくらい小さく、本当に小さな生き物であることをひしひしと感じた。
「テン」
優しく、ゆっくりと、壊さないように撫でる。
生命は僕らが思っているより何倍も何十倍も何千倍も儚く脆い。
僕はそれがどうしようもなく怖かった。
もし、この小さな生命を壊してしまったら……?
今になってやっと実感した。
大家さんが出ていったあとの部屋は、しーんと静まり返っていた。いつもの静寂とは違う、なにも口にしてはいけないような、壊してはいけないような静寂だ。
生き物の重みを膝に感じながら、僕はぼうっとテンの頭を撫でる。
大家さんの話は僕の心に深く残っていた。今まで誰のどんな言葉も響かなかったのに不思議だ。
今僕は幸せじゃないけど、いつかは幸せになれるのだろうか。
“いつか”──……
この言葉はもう聞き飽きた。
僕はずっといつかを望んでいた。
だけど、そのいつかはいつになっても遠いまま、僕の手には届かない。
いつかの幸せは僕の手の指の間からこぼれ落ちたまま、見つからなくなってしまった。
「なあ、テン──」
無意識に口を開く。テンは小首を傾げて僕を見上げた。
「──幸せって、何処にあるんだろうね?」
きっとこの問に答えはない。
そんなこと分かっている。
それでも知りたかった。
見つかるものなら見つけたかった。
僕が落とした幸せを、誰かが拾って届けてほしかった。
にゃー。
テンは一言鳴いて微笑む。透き通ったエメラルドの瞳に、黒い自分の影が写っていた。
──幸せとは自分で掴むもの。
誰が言い始めたのか、そんな言葉はあちこちに転がっている。他人任せにせず、自分で取りに行けと言っている。
だけど、今の僕にはそれがただの綺麗事にしか聞こえなかった。
形のない“幸せ”をどうやって掴んだらいいのだ。
姿形も何処にあるのかも分からないのに、そんな不確実なものをどうやって手に入れろというのだ。
にゃーあ。
テンは僕に笑顔を向ける。幸せなど考えずに笑っている。
「お腹空いたか? キャットフードも買わなきゃな……」
僕に撫でられて目を細めるテンを抱きかかえ、ぎゅっと抱きしめた。僕の突然の行動にテンは身体をびくつかせる。それでも構わずに抱える腕に力を込めた。揺れる体温と鼓動が重なって、テンの存在がはっきりと伝わってくる。
「きみは、ずっと僕の側にいてくれるよな?」
顔を埋めるようにして呟く。力が抜けて、吐息が震えてしまう。
テンはするりと僕の腕から逃げ出してしまった。
にゃー。
僕から少し離れた場所でこちらを見つめ、むっとしたようにつんとそっぽを向く。
テンはハグが好きではないらしい。そのことさえも美咲と重なってしまった。
──やだ、恥ずかしいよ……
付き合い始めてまだ浅い頃、美咲はそう言って頬を赤らめ、うつむいた。いつも元気で負けず嫌いな美咲からは伺えないような表情に、僕はつい悪戯心をくすぐられてしまう。
──男の人とこんな密着すること、ないじゃん?
言い訳をするように呟く美咲に手を伸ばす。
ぴくっと震えた美咲の肩に触れる。
『愛してる。いつまでも』──
──にゃー。
突然の猫の鳴き声に、はっと我にかえる。見ると、テンが撫でろと言わんばかりに首を伸ばして見上げていた。
僕はゆっくりと立ち上がり、立ちくらみに身を任せるようにしてしゃがむ。それでもテンは僕の膝辺りまでにも満たないくらい小さく、本当に小さな生き物であることをひしひしと感じた。
「テン」
優しく、ゆっくりと、壊さないように撫でる。
生命は僕らが思っているより何倍も何十倍も何千倍も儚く脆い。
僕はそれがどうしようもなく怖かった。
もし、この小さな生命を壊してしまったら……?
今になってやっと実感した。
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