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第一章
八、
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部屋中に香ばしい香りがほんのりと残っている。カチャカチャというお皿同士のぶつかり合う音だけが部屋の空気を満たしている。
「あ、あの……、大家さん。妹さんがいるんですね」
静かな空気を断ち切るように、僕が口を開く。大家さんはきょとんとした顔でこちらを振り向いた。
「妹……? おらへんですけど……」
大家さんに否定され、今度は僕がきょとんとしてしまう。
「え、だって昨日、"妹“って……」
僕が困って大家さんを見上げると、大家さんは考えるようにお皿を洗う手を止めた。やがて、はっとして僕を見下ろす。
「もしかして昨日揉めていた方たちのことですか?」
僕は黙ってうなずく。すると、大家さんはふっと口元を緩めた。初めて見る優しい笑顔だ。
「あれは、あの場を切り抜ける嘘ですよ」
「う、うそ……だった……?」
僕が口をあんぐり開けていると、大家さんはそう言ってついに声をあげて笑う。そしてすぐにお皿を洗う作業に戻った。
やっぱり大家さんは優しい。こんないかつい顔だけど。発する言葉はほとんど冷たいけど。
「大家さんは優しいですね」
僕が微笑みかける。大家さんは照れ臭そうに鼻で笑い、こちらを見ることはしなかった。
「石川さんだって、優しいですよ」
そう言って取っ手を上げて水を出す。シンクに水が叩きつけられる音が静寂に付け足される。
いやいや、と首を振って否定すると同時に、新たな疑問が浮き上がった。
僕、何かそんなことしたっけ……?
僕と対面するのは大家さんがこの部屋にくるときだけだ。
なのに、なんで……?
「さて、お皿を拭いてください。サボる気ですか?」
大家さんに言われてはっと我に返る。
いや、考え過ぎだろう。
僕には優しいと思えなかった行動でも、他人にとって優しく見えたりするものだ。
「いいえ。ここまできてサボるなんてこと、しませんよ」
ふふっと笑う。人と話すのが楽しい。心が久しぶりに動いている。
「石川さんは、妹さんがいるんですよね?」
大家さんがこちらを振り向く。僕は突然の質問に戸惑った。
「はい。でも、なぜそれを?」
「ニ年前くらいまで来られてたやないですか」
大家さんの言葉に、ああ、と納得する。ちょうど二年前くらい前までは、妹が僕の世話を焼きに来ていたのだ。
しかし、僕がもう来ないでほしいと頼み込み、喧嘩し、妹は僕が何も変わらないことを確信したのだろう、それ以来ここへ来ることはなくなった。
だが、そうなったところで何か変わるわけでもない。妹が来ていたのは、僕がちゃんと就職して、健康な生活を送って、幸せになってほしいと説得しに来ていただけなのだ。ご飯を作ってくれたり、掃除してくれたりしたわけでもない。ただそこにいるだけだったのだ──。
そこまで思い返して、少し申し訳なくなってきた。強く言い過ぎたかもしれない。妹はただ、僕を想ってやっていたことなのかもしれないのに。
「やっぱり、石川さんは優しい人ですね」
大家さんが仏頂面で言った。その表情の奥に、優しい笑顔が在る。
「もちろん、妹さんも」
そう言って黙ってしまった大家さんに、僕は口を開くことも首を振ることもしなかった。その必要はなかった。
お皿を拭き終わり、食器棚にしまう。再びカチャカチャというお皿の音だけが部屋を満たす。
──たっちゃん!
あの頃の妹は元気で、明るくて、笑顔が太陽みたいで──いや、妹は僕の太陽そのものだったのかもしれない。
だけど、僕が引き籠もるようになってから、妹の顔はやつれていて暗かった。そうさせたのは、他でもない僕なのだ。僕のせいで彼女の輝きがすっかり消えてしまった。僕のせいだ。
この辺一帯は変わってしまった。そして、ここの地でもない妹でさえも、変わってしまった。建物も人も、変えてしまうのは時間ではなく人なのかもしれない。
「あ、あの……、大家さん。妹さんがいるんですね」
静かな空気を断ち切るように、僕が口を開く。大家さんはきょとんとした顔でこちらを振り向いた。
「妹……? おらへんですけど……」
大家さんに否定され、今度は僕がきょとんとしてしまう。
「え、だって昨日、"妹“って……」
僕が困って大家さんを見上げると、大家さんは考えるようにお皿を洗う手を止めた。やがて、はっとして僕を見下ろす。
「もしかして昨日揉めていた方たちのことですか?」
僕は黙ってうなずく。すると、大家さんはふっと口元を緩めた。初めて見る優しい笑顔だ。
「あれは、あの場を切り抜ける嘘ですよ」
「う、うそ……だった……?」
僕が口をあんぐり開けていると、大家さんはそう言ってついに声をあげて笑う。そしてすぐにお皿を洗う作業に戻った。
やっぱり大家さんは優しい。こんないかつい顔だけど。発する言葉はほとんど冷たいけど。
「大家さんは優しいですね」
僕が微笑みかける。大家さんは照れ臭そうに鼻で笑い、こちらを見ることはしなかった。
「石川さんだって、優しいですよ」
そう言って取っ手を上げて水を出す。シンクに水が叩きつけられる音が静寂に付け足される。
いやいや、と首を振って否定すると同時に、新たな疑問が浮き上がった。
僕、何かそんなことしたっけ……?
僕と対面するのは大家さんがこの部屋にくるときだけだ。
なのに、なんで……?
「さて、お皿を拭いてください。サボる気ですか?」
大家さんに言われてはっと我に返る。
いや、考え過ぎだろう。
僕には優しいと思えなかった行動でも、他人にとって優しく見えたりするものだ。
「いいえ。ここまできてサボるなんてこと、しませんよ」
ふふっと笑う。人と話すのが楽しい。心が久しぶりに動いている。
「石川さんは、妹さんがいるんですよね?」
大家さんがこちらを振り向く。僕は突然の質問に戸惑った。
「はい。でも、なぜそれを?」
「ニ年前くらいまで来られてたやないですか」
大家さんの言葉に、ああ、と納得する。ちょうど二年前くらい前までは、妹が僕の世話を焼きに来ていたのだ。
しかし、僕がもう来ないでほしいと頼み込み、喧嘩し、妹は僕が何も変わらないことを確信したのだろう、それ以来ここへ来ることはなくなった。
だが、そうなったところで何か変わるわけでもない。妹が来ていたのは、僕がちゃんと就職して、健康な生活を送って、幸せになってほしいと説得しに来ていただけなのだ。ご飯を作ってくれたり、掃除してくれたりしたわけでもない。ただそこにいるだけだったのだ──。
そこまで思い返して、少し申し訳なくなってきた。強く言い過ぎたかもしれない。妹はただ、僕を想ってやっていたことなのかもしれないのに。
「やっぱり、石川さんは優しい人ですね」
大家さんが仏頂面で言った。その表情の奥に、優しい笑顔が在る。
「もちろん、妹さんも」
そう言って黙ってしまった大家さんに、僕は口を開くことも首を振ることもしなかった。その必要はなかった。
お皿を拭き終わり、食器棚にしまう。再びカチャカチャというお皿の音だけが部屋を満たす。
──たっちゃん!
あの頃の妹は元気で、明るくて、笑顔が太陽みたいで──いや、妹は僕の太陽そのものだったのかもしれない。
だけど、僕が引き籠もるようになってから、妹の顔はやつれていて暗かった。そうさせたのは、他でもない僕なのだ。僕のせいで彼女の輝きがすっかり消えてしまった。僕のせいだ。
この辺一帯は変わってしまった。そして、ここの地でもない妹でさえも、変わってしまった。建物も人も、変えてしまうのは時間ではなく人なのかもしれない。
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