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第一章
七、
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部屋に戻ろうとすると、玄関の前にはすでに大家さんが立っていた。僕の姿を見ると、一瞬驚いたように目を開く。
「石川さん……散歩、ですか?」
大家さんが口を開く。
「散歩というか、なんというか……」
僕が曖昧に答えると、大家さんはまた仏頂面に戻って僕を見下ろした。何か悪いことを言ってしまったかと錯覚する。しかしこの人はそんな人ではない。僕は口をつぐんだ。
「今、様子を伺いに行こうとしとったんです。昨夜、停電してしまいましたからね。大丈夫でしたか?」
大家さんの声を聞いて心の中で首を傾げる。なんか、機嫌いい──?
「……はい。ちょうど僕は寝てたんで」
答えながら、浮かんだ違和感は消えなかった。
「そうすか……」
大家さんはそう言って口を閉じてしまう。僕は気まずくなって慌てて玄関の鍵を開けた。
「ど、どうぞ。今日も来てくださったんですよね?」
僕が手で指し示すと、大家さんははっとしてうなずいた。
「はい。今日も掃除しに」
「あの……、手伝ってもいいですか……?」
おずおずと聞いてみる。
ただの気の迷いだ。いつもは面倒くさいと思うのに、今日はなんだかやりたいと思った。
大家さんはまた僅かに目を見開く。
「どうしたんですか? 何かありました?」
大家さんが怪訝そうに聞く。僕は苦笑してはっきりと答えない。
「まあ、いいです。邪魔しんとくれるなら」
大家さんはそう言って靴を脱いだ。
部屋に入ると、薄暗い空間が目に飛び込んでくる。外はあんなにも明るかったが、カーテンを閉めているせいで外の光はほぼ遮断されていた。
「いつも思うんですけど、どうしてカーテンを開けないんです?」
そう言って大家さんはため息をつく。僕はええと、と応えながら濁した。多分、言っても伝わらないだろう。
僕はカーテンの方までゆっくりと歩いていった。何年もずっと閉ざされていたカーテンだ。
僕は少し緊張した手をカーテンにかけた。
これを開ければ、全てが変わる。この部屋も、僕の心も変わってしまう。ここの地で唯一変わっていないのは僕だ。僕はずっとずっと変わらなかった。
今、変えるべきなのだろうか──……?
僕はぐっと手に力を込めた。
やはり無理だ。僕は変われない。変わらない。根性なしだ。
諦めて振り返ると、大家さんがじっと僕を見据えていた。しかし、その目はいつもの鬼のような目ではない。暖かい、僕を優しく見守るような目をしていた。
さっきまでの違和感がまた膨れ上がる。この人、なんで今日はこんなに機嫌がいいんだろう。僕は恐る恐る口を開いた。今ならいつも聞いていた質問に答えてくれる気がした。
「……大家さん。どうして、いつも僕を助けてくれるんですか? このアパートを汚されたくないという理由だけではない気がするんですが……」
僕の質問に、大家さんは口をしっかりと結んでしまった。僕は残念な気持ちでうつむく。
「……そうです。あんな理由だけではありません」
大家さんが聞こえるか聞こえないくらいの声で言った。僕は思わず聞き返す。
「え……?」
「さて、掃除を始めましょう。石川さんは何ができるんですか?」
大家さんに話を変えられてしまう。僕は仕方なく話を打ち切った。
「ゴミ捨てぐらいは……」
答えながら、自分の無力さに気がつく。そういえば、引き籠もる前まで掃除も料理も他人にやってもらっていた。何もできないのも当然だろう。
案の定、大家さんは大きくため息をつき、僕を睨むように見下ろした。
「じゃあ、ゴミ捨てよろしくお願いします」
大家さんはそう言って僕にゴミ袋を渡す。僕は素直にそれを受け取った。
一日経っただけでも、ゴミは部屋中に散らかっている。それをひとつひとつ拾い上げ、ゴミ袋に放っていく。それだけの作業が、今日は心なしか楽しく感じる。
「石川さん」
呼ばれてはっと振り返る。夢中になりすぎた。
「よかったら……、料理、教えましょうか」
気づくと、大家さんが普段からは想像のつかないピンク色のエプロンを着けてこちらの様子を伺っている。いつの間に他の作業を済ませたのだろう。
「というか教わってください」
僕が迷っていると、大家さんが強く言葉を落とした。そして僕にエプロンを手渡す。
「ずっと自炊しないなんて、このキッチンがもったいないで」
僕は手元のエプロンをじっと見つめた。
変われる……?
黙って首を輪っかに通し、紐を後ろで結ぶ。
料理はできないわけじゃない。だけど──
「よろしくお願いします、先生」
大家さんは小さくうなずいた。僕は大家さんのもとへ軽やかに歩いていった。
「石川さん……散歩、ですか?」
大家さんが口を開く。
「散歩というか、なんというか……」
僕が曖昧に答えると、大家さんはまた仏頂面に戻って僕を見下ろした。何か悪いことを言ってしまったかと錯覚する。しかしこの人はそんな人ではない。僕は口をつぐんだ。
「今、様子を伺いに行こうとしとったんです。昨夜、停電してしまいましたからね。大丈夫でしたか?」
大家さんの声を聞いて心の中で首を傾げる。なんか、機嫌いい──?
「……はい。ちょうど僕は寝てたんで」
答えながら、浮かんだ違和感は消えなかった。
「そうすか……」
大家さんはそう言って口を閉じてしまう。僕は気まずくなって慌てて玄関の鍵を開けた。
「ど、どうぞ。今日も来てくださったんですよね?」
僕が手で指し示すと、大家さんははっとしてうなずいた。
「はい。今日も掃除しに」
「あの……、手伝ってもいいですか……?」
おずおずと聞いてみる。
ただの気の迷いだ。いつもは面倒くさいと思うのに、今日はなんだかやりたいと思った。
大家さんはまた僅かに目を見開く。
「どうしたんですか? 何かありました?」
大家さんが怪訝そうに聞く。僕は苦笑してはっきりと答えない。
「まあ、いいです。邪魔しんとくれるなら」
大家さんはそう言って靴を脱いだ。
部屋に入ると、薄暗い空間が目に飛び込んでくる。外はあんなにも明るかったが、カーテンを閉めているせいで外の光はほぼ遮断されていた。
「いつも思うんですけど、どうしてカーテンを開けないんです?」
そう言って大家さんはため息をつく。僕はええと、と応えながら濁した。多分、言っても伝わらないだろう。
僕はカーテンの方までゆっくりと歩いていった。何年もずっと閉ざされていたカーテンだ。
僕は少し緊張した手をカーテンにかけた。
これを開ければ、全てが変わる。この部屋も、僕の心も変わってしまう。ここの地で唯一変わっていないのは僕だ。僕はずっとずっと変わらなかった。
今、変えるべきなのだろうか──……?
僕はぐっと手に力を込めた。
やはり無理だ。僕は変われない。変わらない。根性なしだ。
諦めて振り返ると、大家さんがじっと僕を見据えていた。しかし、その目はいつもの鬼のような目ではない。暖かい、僕を優しく見守るような目をしていた。
さっきまでの違和感がまた膨れ上がる。この人、なんで今日はこんなに機嫌がいいんだろう。僕は恐る恐る口を開いた。今ならいつも聞いていた質問に答えてくれる気がした。
「……大家さん。どうして、いつも僕を助けてくれるんですか? このアパートを汚されたくないという理由だけではない気がするんですが……」
僕の質問に、大家さんは口をしっかりと結んでしまった。僕は残念な気持ちでうつむく。
「……そうです。あんな理由だけではありません」
大家さんが聞こえるか聞こえないくらいの声で言った。僕は思わず聞き返す。
「え……?」
「さて、掃除を始めましょう。石川さんは何ができるんですか?」
大家さんに話を変えられてしまう。僕は仕方なく話を打ち切った。
「ゴミ捨てぐらいは……」
答えながら、自分の無力さに気がつく。そういえば、引き籠もる前まで掃除も料理も他人にやってもらっていた。何もできないのも当然だろう。
案の定、大家さんは大きくため息をつき、僕を睨むように見下ろした。
「じゃあ、ゴミ捨てよろしくお願いします」
大家さんはそう言って僕にゴミ袋を渡す。僕は素直にそれを受け取った。
一日経っただけでも、ゴミは部屋中に散らかっている。それをひとつひとつ拾い上げ、ゴミ袋に放っていく。それだけの作業が、今日は心なしか楽しく感じる。
「石川さん」
呼ばれてはっと振り返る。夢中になりすぎた。
「よかったら……、料理、教えましょうか」
気づくと、大家さんが普段からは想像のつかないピンク色のエプロンを着けてこちらの様子を伺っている。いつの間に他の作業を済ませたのだろう。
「というか教わってください」
僕が迷っていると、大家さんが強く言葉を落とした。そして僕にエプロンを手渡す。
「ずっと自炊しないなんて、このキッチンがもったいないで」
僕は手元のエプロンをじっと見つめた。
変われる……?
黙って首を輪っかに通し、紐を後ろで結ぶ。
料理はできないわけじゃない。だけど──
「よろしくお願いします、先生」
大家さんは小さくうなずいた。僕は大家さんのもとへ軽やかに歩いていった。
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