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第一章
六、
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優しい光が部屋を包み込む。エアコンの静かな音が部屋の空気を満たしている。僕はそっと目を開けた。
朝だ。
僕はカーテンの隙間から流れる光を見、緊張した心を解いた。
冷静になってみると、自分の服が汗でびしょびしょであることに気づく。僕は脱衣所に行き、へばりつく服を脱いで新しい服に着替えた。何日も前から同じ服を着ていたので、しまいこんでいた服の匂いが鼻をつく。
ベッドに座ってひと息つくと、カーテンに目線が向かった。昨夜のことが嘘かのように陽が光を落としている。
もしかしたら、本当に夢だったのかもしれない。
今よくよく考えてみると、やはりぼんやりとしてしっかりと記憶に定着していなかった。
僕はすっと立ち上がる。
玄関を開けると、雨の生臭い匂いがふんわりと身体を包んだ。湿った空気が僕の身体の芯まで冷やしていく。空は雨で綺麗に洗い流され、穏やかな透き通った青空を見せていた。高い、高い、届きそうもない空だ。コートの襟に顔を深く埋め、僕は歩き出す。
もちろん、向かった先はあの公園だった。今日は缶コーヒーを手に取り、ベンチに腰掛ける。
あの猫、無事だったかな──。
そんなことを考えながら熱いコーヒーを啜る。雨に濡れて風邪を引いてなきゃいいのだが。
にゃー。
聞き覚えのある声にぱっと振り向いた。灰色猫が地べたに座ってこちらを見上げている。その表情から見るに、少し怒っているようだ。僕が手を伸ばすと、猫はつんとして僕の手を避けた。
昨日、急に帰ってしまったことを怒っているのだろうか?
僕がしゅんとして手を引っ込めると、猫はぴょこんと僕の隣に座った。そのグレーの毛は少し湿っていて、ところどころ泥もついている。
僕はもう一度手をそっと上げた。猫は僕を一瞬見上げるが、すぐに顔をもとに戻してしまう。それが触ってもいいということであることが何故か伝わった。すかさず、ゆっくりと優しく、手のひらよりも小さな頭を撫でる。そこから手を顎の方まで持っていき、指先で柔らかく掻いた。猫はゴロゴロ、と気持ちよさそうに喉を鳴らし、もっと、という風に頬を腕に擦り寄せる。僕は途中でやめたりしない。僕は夢中になって灰色の野良猫を可愛がった。
灰色猫を膝に抱えながら、缶コーヒーを啜る。もう冷めきってしまったコーヒーは、ほんの少しのほろ苦さを僕の舌に残していった。
僕はまた猫に視線を落とす。エメラルドグリーンの瞳がそこで揺れている。生き物のぬくもりを感じる。
僕がぼんやり見つめていると、猫はぺろりと僕の手の甲を舐めた。唾液の温かさを、冬の凍てつく空気が一瞬にして拐っていく。でも、嫌ではなかった。それよりむしろ、僕はほっとする安心感を感じていた。
ずっと固まり続けていた心が解れるような。
小さな子どものとき、たくさんの巨人の中からお母さんの背中を見つけたときのような。
心地よい。このぬくもりが。この感情が。
僕は、今、この瞬間だけ、幸せだった。
このつまらない平坦な人生にひとつだけ小さな丘ができたようだった。
いつまでもここに居たいと強く願った。
しかし僕は心の奥底で淡く感じ取っていた。この幸運には、いつしかなくなってしまうときがくるのだということに。
朝だ。
僕はカーテンの隙間から流れる光を見、緊張した心を解いた。
冷静になってみると、自分の服が汗でびしょびしょであることに気づく。僕は脱衣所に行き、へばりつく服を脱いで新しい服に着替えた。何日も前から同じ服を着ていたので、しまいこんでいた服の匂いが鼻をつく。
ベッドに座ってひと息つくと、カーテンに目線が向かった。昨夜のことが嘘かのように陽が光を落としている。
もしかしたら、本当に夢だったのかもしれない。
今よくよく考えてみると、やはりぼんやりとしてしっかりと記憶に定着していなかった。
僕はすっと立ち上がる。
玄関を開けると、雨の生臭い匂いがふんわりと身体を包んだ。湿った空気が僕の身体の芯まで冷やしていく。空は雨で綺麗に洗い流され、穏やかな透き通った青空を見せていた。高い、高い、届きそうもない空だ。コートの襟に顔を深く埋め、僕は歩き出す。
もちろん、向かった先はあの公園だった。今日は缶コーヒーを手に取り、ベンチに腰掛ける。
あの猫、無事だったかな──。
そんなことを考えながら熱いコーヒーを啜る。雨に濡れて風邪を引いてなきゃいいのだが。
にゃー。
聞き覚えのある声にぱっと振り向いた。灰色猫が地べたに座ってこちらを見上げている。その表情から見るに、少し怒っているようだ。僕が手を伸ばすと、猫はつんとして僕の手を避けた。
昨日、急に帰ってしまったことを怒っているのだろうか?
僕がしゅんとして手を引っ込めると、猫はぴょこんと僕の隣に座った。そのグレーの毛は少し湿っていて、ところどころ泥もついている。
僕はもう一度手をそっと上げた。猫は僕を一瞬見上げるが、すぐに顔をもとに戻してしまう。それが触ってもいいということであることが何故か伝わった。すかさず、ゆっくりと優しく、手のひらよりも小さな頭を撫でる。そこから手を顎の方まで持っていき、指先で柔らかく掻いた。猫はゴロゴロ、と気持ちよさそうに喉を鳴らし、もっと、という風に頬を腕に擦り寄せる。僕は途中でやめたりしない。僕は夢中になって灰色の野良猫を可愛がった。
灰色猫を膝に抱えながら、缶コーヒーを啜る。もう冷めきってしまったコーヒーは、ほんの少しのほろ苦さを僕の舌に残していった。
僕はまた猫に視線を落とす。エメラルドグリーンの瞳がそこで揺れている。生き物のぬくもりを感じる。
僕がぼんやり見つめていると、猫はぺろりと僕の手の甲を舐めた。唾液の温かさを、冬の凍てつく空気が一瞬にして拐っていく。でも、嫌ではなかった。それよりむしろ、僕はほっとする安心感を感じていた。
ずっと固まり続けていた心が解れるような。
小さな子どものとき、たくさんの巨人の中からお母さんの背中を見つけたときのような。
心地よい。このぬくもりが。この感情が。
僕は、今、この瞬間だけ、幸せだった。
このつまらない平坦な人生にひとつだけ小さな丘ができたようだった。
いつまでもここに居たいと強く願った。
しかし僕は心の奥底で淡く感じ取っていた。この幸運には、いつしかなくなってしまうときがくるのだということに。
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