君と探すこの上ない幸せ

夜梟

文字の大きさ
上 下
7 / 23
第一章

六、

しおりを挟む
 優しい光が部屋を包み込む。エアコンの静かな音が部屋の空気を満たしている。僕はそっと目を開けた。

 朝だ。

 僕はカーテンの隙間から流れる光を見、緊張した心を解いた。

 冷静になってみると、自分の服が汗でびしょびしょであることに気づく。僕は脱衣所に行き、へばりつく服を脱いで新しい服に着替えた。何日も前から同じ服を着ていたので、しまいこんでいた服の匂いが鼻をつく。

 ベッドに座ってひと息つくと、カーテンに目線が向かった。昨夜のことが嘘かのように陽が光を落としている。

 もしかしたら、本当に夢だったのかもしれない。

 今よくよく考えてみると、やはりぼんやりとしてしっかりと記憶に定着していなかった。

 僕はすっと立ち上がる。

 玄関を開けると、雨の生臭い匂いがふんわりと身体を包んだ。湿った空気が僕の身体の芯まで冷やしていく。空は雨で綺麗に洗い流され、穏やかな透き通った青空を見せていた。高い、高い、届きそうもない空だ。コートの襟に顔を深くうずめ、僕は歩き出す。

 もちろん、向かった先はあの公園だった。今日は缶コーヒーを手に取り、ベンチに腰掛ける。

 あの猫、無事だったかな──。

 そんなことを考えながら熱いコーヒーを啜る。雨に濡れて風邪を引いてなきゃいいのだが。

 にゃー。

 聞き覚えのある声にぱっと振り向いた。灰色猫が地べたに座ってこちらを見上げている。その表情から見るに、少し怒っているようだ。僕が手を伸ばすと、猫はつんとして僕の手を避けた。

 昨日、急に帰ってしまったことを怒っているのだろうか? 

 僕がしゅんとして手を引っ込めると、猫はぴょこんと僕の隣に座った。そのグレーの毛は少し湿っていて、ところどころ泥もついている。

 僕はもう一度手をそっと上げた。猫は僕を一瞬見上げるが、すぐに顔をもとに戻してしまう。それが触ってもいいということであることが何故か伝わった。すかさず、ゆっくりと優しく、手のひらよりも小さな頭を撫でる。そこから手を顎の方まで持っていき、指先で柔らかく掻いた。猫はゴロゴロ、と気持ちよさそうに喉を鳴らし、もっと、という風に頬を腕に擦り寄せる。僕は途中でやめたりしない。僕は夢中になって灰色の野良猫を可愛がった。

 灰色猫を膝に抱えながら、缶コーヒーを啜る。もう冷めきってしまったコーヒーは、ほんの少しのほろ苦さを僕の舌に残していった。           

 僕はまた猫に視線を落とす。エメラルドグリーンの瞳がそこで揺れている。生き物のぬくもりを感じる。

 僕がぼんやり見つめていると、猫はぺろりと僕の手の甲を舐めた。唾液の温かさを、冬の凍てつく空気が一瞬にして拐っていく。でも、嫌ではなかった。それよりむしろ、僕はほっとする安心感を感じていた。

 ずっと固まり続けていた心がほぐれるような。
 小さな子どものとき、たくさんの巨人の中からお母さんの背中を見つけたときのような。

 心地よい。このぬくもりが。この感情が。

 僕は、今、この瞬間だけ、幸せだった。
 このつまらない平坦な人生にひとつだけ小さな丘ができたようだった。
 いつまでもここに居たいと強く願った。

 しかし僕は心の奥底で淡く感じ取っていた。この幸運には、いつしかなくなってしまうときがくるのだということに。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

お母様と婚姻したければどうぞご自由に!

haru.
恋愛
私の婚約者は何かある度に、君のお母様だったら...という。 「君のお母様だったらもっと優雅にカーテシーをきめられる。」 「君のお母様だったらもっと私を立てて会話をする事が出来る。」 「君のお母様だったらそんな引きつった笑顔はしない。...見苦しい。」 会う度に何度も何度も繰り返し言われる言葉。 それも家族や友人の前でさえも... 家族からは申し訳なさそうに憐れまれ、友人からは自分の婚約者の方がマシだと同情された。 「何故私の婚約者は君なのだろう。君のお母様だったらどれ程良かっただろうか!」 吐き捨てるように言われた言葉。 そして平気な振りをして我慢していた私の心が崩壊した。 そこまで言うのなら婚約止めてあげるわよ。 そんなにお母様が良かったらお母様を口説いて婚姻でもなんでも好きにしたら!

あなたの子ですが、内緒で育てます

椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」  突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。  夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。  私は強くなることを決意する。 「この子は私が育てます!」  お腹にいる子供は王の子。  王の子だけが不思議な力を持つ。  私は育った子供を連れて王宮へ戻る。  ――そして、私を追い出したことを後悔してください。 ※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ ※他サイト様でも掲載しております。 ※hotランキング1位&エールありがとうございます!

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

【完結】一夜の関係を結んだ相手の正体はスパダリヤクザでした~甘い執着で離してくれません!~

中山紡希
恋愛
ある出来事をキッカケに出会った容姿端麗な男の魅力に抗えず、一夜の関係を結んだ萌音。 翌朝目を覚ますと「俺の嫁になれ」と言い寄られる。 けれど、その上半身には昨晩は気付かなかった刺青が彫られていて……。 「久我組の若頭だ」 一夜の関係を結んだ相手は……ヤクザでした。 ※R18 ※性的描写ありますのでご注意ください

特殊作戦群 海外記録

こきフジ
現代文学
陸上自衛隊 特殊作戦群の神谷秀勝2等陸尉らが、国際テロ組織アトラムによる事件を始まるストーリーです。 もちろん特殊作戦群の銃火器、装備、編成はフィクションです。

あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます

おぜいくと
恋愛
「あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます。さようなら」 そう書き残してエアリーはいなくなった…… 緑豊かな高原地帯にあるデニスミール王国の王子ロイスは、来月にエアリーと結婚式を挙げる予定だった。エアリーは隣国アーランドの王女で、元々は政略結婚が目的で引き合わされたのだが、誰にでも平等に接するエアリーの姿勢や穢れを知らない澄んだ目に俺は惹かれた。俺はエアリーに素直な気持ちを伝え、王家に代々伝わる指輪を渡した。エアリーはとても喜んでくれた。俺は早めにエアリーを呼び寄せた。デニスミールでの暮らしに慣れてほしかったからだ。初めは人見知りを発揮していたエアリーだったが、次第に打ち解けていった。 そう思っていたのに。 エアリーは突然姿を消した。俺が渡した指輪を置いて…… ※ストーリーは、ロイスとエアリーそれぞれの視点で交互に進みます。

処理中です...