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19.5.ババロア
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モン・ザ・ババロアは座席から跳ね上げられて悲鳴をあげた。
乗っていた馬車が外部からの強い力に弾かれて転がったのだった。
ババロアは馬車の中で身体中のいたるところを打ちつけた。痛くないところがないくらいに全身が疼いていた。
馬がいななき、人間の怒号と叫び声が響く。そしてそれを打ち消すほどの魔物の咆哮が夜の闇を震わせていた。
倒れた馬車は、ババロアが乗っていた部分が、大きな顎で食いちぎられたように消失していた。
ババロアはひしゃげた客室の隙間から外に這いずり出た。
暗闇のなか、目をこらすと地面には人間の欠片のようなものが転がっていた。
「だ……だれか!」
生きているものの気配はしない。ただ魔物だけが雄叫びをあげつづけている。
「に、逃げないと……」
手足が思うように動かない。それでも、ここから少しでも離れようと這いつくばったまま右手の爪を地面に立てて身体を引きずった。
そして動きづらい理由に気づいた。
「手が……」
ババロアの左腕が肩の先からなくなっていた。
右手でそれを確認して叫んだ。
「ひぃ! 血が! 血がいっぱい出てる! だれか! お父様!」
返事をするものはいない。
空で暴れていた魔物が、食い残した生贄に気づいただけである。
ババロアの目の前に魔物が向かってきた。
マムシを潰したような、正視に耐えないいびつでおぞましい顔が間近に迫ってくる。
魔物が大きく口を開けた、聞いただけで正気を失いそうな叫び声が響き、でたらめに並んだ鋭い牙が背筋を凍らせる。
しかし、このときのババロアは逆に血がたぎっていた。
「あたしの手を……食ったのか?」
知性のかけらも感じられない忌まわしき魔物に、高貴な血が流れる身体の一部を奪われたと思うと感情が一気に沸騰した。
「あたしに触れるな下種が!」
ババロアが右手を突き出すとそこからまばゆい光が放たれた。
魔物は悲鳴をあげて飛び上がった。
そして、視力を失って混乱しているのか、よりいっそう滅茶苦茶に暴れはじめた。
道の両側の森から、魔物の尾で吹き飛ばされた木々が路面に飛んでくる。荒れ狂う魔物は猛烈な嵐のようだった。
「ひぃぃ……ごめんなさい! ごめんなさいぃぃ」
一瞬で素にもどったババロアは右手で頭をかばい、路上にうずくまって震えていた。
やがて、ヴァンバルシア王妃はそのまま意識を失った。
気がついたとき、ババロアは大きなベッドに寝かされていた。
見覚えのある部屋——王都サナト・モレアの王宮のすぐそばにある屋敷だった。
部屋着に着替えさせられ、全身いたるところに包帯が巻かれていた。
おそるおそる左手を確認する。
左腕はなかった。
「うぅ……」
ババロアは大きな喪失感におそわれ、目をぎゅっとつむって嗚咽を漏らした。
「気がついたのね」
ババロアは声のしたほうに視線を送った。
「お母様……」
心配そうな顔で近づいてきたのは母のカロリーヌだった。
「三日眠ってたのよ。命が無事でよかったわ」
カロリーヌはベッドのへりに腰掛け、娘の黒髪をやさしく撫でた。
それから、脇の小さなテーブルに置いてあったベルを鳴らして使用人を呼んだ。
「気がついたわ。お医者様に連絡して」
「はい」
使用人は一礼してすぐに出ていった。
「お父様は」
ババロアが水差しから水をもらいながらたずねると、母は首を振って、ベルの横の指輪をとって見せた。
「これが付いた手首が落ちていただけよ」
その指輪は母の薬指にはめてあるのとおなじものだった。
「お父様……」
「あなたは運がよかった。緊急にリック城から出発した軍隊があなたを見つけたの。軍医に手当てもしてもらえた。無意識に霊力で抑えていたのか失血は多くなかったけど、それでももう少し遅かったら助からなかったそうよ」
「運が……よかったのかしら」
「そうよ。それから、リック城にも魔物が出てランデル陛下も行方不明なの」
「陛下も……?」
ババロアは肩をブルッと震わせた。
魔物のしたことにはまちがいないだろうが、まるで女神の罰が下されたような気がした。
あれはいったいなんだったのか。魔物が現れる前、父はだれかと話していた。憶測ではあるが、おそらく父もランデルもそのものを利用しようとして恨みを買ったのだろう。
「陛下が行方不明なら、いまのヴァンバルシアはどうなっているの?」
「陛下の遠縁とかの家がいくつか王に名乗りを上げて台頭してきてるわ」
「内乱状態なの?」
「まだそこまでは……一番大きな勢力はサイバリア王国の王弟オルビス殿下だから、内戦にでもなれば介入してくるいい口実になるでしょう? なんとかそうならないようにチャイルズ子爵たちが抑えてるところよ」
国王がいるうちはみなそれに従っていたが、突然いなくなってしまった。時期国王はだれか。だれであろうと、自分と同列だったものが自分の上に立つのは許せないのだった。ランデルは尊敬できる人物ではなかったが、それでも国をまとめる重石にはなっていたのだ。
「そう……大変なことになってるのね」
「あなたはもう政治的な争いごとからは退いていいんじゃないかしら」
「そうね……」
ババロアはあいまいに答えた。
翌日も翌々日もババロアはベッドに横たわり鬱々とした時間を過ごしていた。
意図せず、何度も確認するように左肩をさすった。霊力のせいか、痛みはなく、傷口はほぼふさがっていた。
なにもかも失った気分だった。父も夫である国王も、おまけに片腕までも。
空虚感だけがあった。
これからなにを目標にして生きていけばいいのかわからない。
ただ、死のうとは思わなかった。
それは、皮肉にもナタ・デ・ココのおかげだった。国を追われ、片腕を失いながらも王太子妃にまでなった。自分がそれより劣るなどとは認められない。
しかし、逆にもうどうでもいいとも思えていた。
そもそも自分自身に大きな野望などあったのだろうか。父も夫もいないいま、いつまでも意地を張っていてもしかたないという気がしていた。
「だいぶ険がとれて、やさしい顔になったわね」
そのせいだろうか、数日経って母がそんなことを言った。
「やさしい顔……?」
「あなたはいつもなにかに耐えているような、つらそうな顔をしていたわ。いまはそれがだいぶやわらいでいるみたい」
「そうかしら」
ババロアは右手で自分の顔に触れてみた。
「ええ、こっちの顔のほうが好きだわ。母親としては」
カロリーヌはそう言って目を細め、またババロアの髪を撫でた。
ババロアはなにか大きな重圧から解放された気がして、こわばっていた身体がやわらかくなりベッドに溶け込むような感覚におそわれた。同時に自然と涙がこぼれた。
「奥様!」
そのとき、使用人の女があわてたようすで部屋に入ってきた。
「どうしたの?」
カロリーヌがおどろいてたずねる。
「外に……」
使用人は震えながら外を指さすばかりである。
カロリーヌは窓に寄って外を覗いた。
ババロアの部屋は二階にあったので見下ろすかたちになる。
「まあ、なにかしら……兵隊がたくさんいるわ。それに、あの旗……」
不安そうな声でそう言って部屋から出ていった。
ババロアはベッドから下りると、かたわらの杖を握った。
しばらく寝込んでいたので歩くための補助としての杖である。
杖には紐が輪のように付けてあった。それを手首に通す。杖を落とさないためである。左腕がないので、なにかをするときは持ち替えることができずいちいちどこかへ立てかけなくてはならない。そうしなくていいための紐である。
「危険があるかも……ここにおられたほうがよろしいのでは」
残された使用人がババロアを支えながら言った。
「大丈夫、あたしはまだ王妃なのよ。上着をとって」
窓から下を確認した。大勢の兵士が隊列を組んでいるのが見える。
「キール公爵の旗印ね。それと、あれは……!」
キール公爵はランデルが不在となって王位継承権を主張したひとりである。だが、ライバルたちより血が遠く、浪費家だったせいで雇える私兵も少なかったため、他者の後塵を排していた。
ババロアが上着を羽織って階段を下りて行くと、玄関のドア越しに母が外の兵士と話していた。
「自宅静養中のところ申しわけありませんが御同行願いたい」
「娘はまだ歩ける状態ではありません。お引き取りください」
どうやら兵士はババロアを出せと言っているようだ。ドア越しに押し問答がつづいている。
ババロアはドアに寄った。
「ババロアである。この無礼はなにごとか」
「ババロア、下がって」
カロリーヌはあぶないからと娘をドアから離そうとしたが、ババロアは母を制して耳を近づけた。
「おお、ババロア様! ランデル様亡きあとのことをキール公爵が心配されております。ぜひ今後のことについて話し合いを」
「話し合い? キール公爵となにを話し合うというのです。王位のことについてというならすべての公爵家を召集しなさい」
「いや……いますぐすべてというわけには……まずはもっともババロア様のことを心配しているキール公爵とお話しください」
「キール公爵がもっとも私のことを心配していると?」
「そうです! ババロア様、ひいては国家のことをもっとも懸念しておられるのがキール公爵なのです」
「では、キール公爵の旗の隣にサイバリア王国のものがあるのはなぜか!」
ババロアは鋭い声で問うた。
「そ、それは……キール公爵はオルビス殿下の支持も受けておられるのです」
逆だろう、とババロアは見抜いていた。
キール公爵はほかのライバルを出し抜いて王になることはできないとみて、サイバリア王国に手を貸すことにしたのだ。最下位になるくらいなら、オルビスに便宜を図ることでナンバーツーの座を手に入れようとしているのだろう。
「売国奴め」
ババロアは吐き捨てるようにつぶやいた。
「どうか扉を開けてお顔をお見せください!」
強引に開けようとドアがガタガタと鳴る。
カロリーヌはノブを必死で押さえていた。
ババロアは母の手に「ここは私が」と右手を乗せた。
「ババロア、あなたが目当てなのよ。なにをされるかわからないわ」
「王妃としては黙っておれません」
そう言ってから「お母様を奥に」と使用人に命じた。
「ああ……」
カロリーヌは使用人に連れられながら、娘の顔つきが昔にもどっていることに気づいた。だが、それは覇気に満ちているともとれた。
ババロアは手首から杖をぶら下げた右手でドアに触れた。
つぎの瞬間、大きな音とともに、外にいた兵士ごとドアが吹き飛んだ。
「開けたわよ」
五十人ほどで屋敷を囲んでいた兵士たちが色めき立つ。王妃に対して武器を構えるものまでいる。
「ババロア! だめよ、そんな身体で……」
奥から母の心配する声が聞こえてくる。
「身体?」
ふと、脳裏をナタ・デ・ココの顔がよぎった。
ババロアは兵士たちを見据えると、唇の端をつり上げて言った。
「こいつらにはちょうどいいハンデだわ」
19.5.ババロア
END
あとがき
19話以後のババロアです。このあとどうなるのかはまだまだ気になるところですが、続けるとスピンオフ作品になってしまいそうなのでこのへんで。
完全無欠になりがちな主人公に比べて、強さも弱さも自由に描けるのがライバルキャラの魅力ですね。
普段は傲慢で、感情が高ぶると暴言を吐きまくるという、実際にいたら絶対に近寄りたくないキャラですが、お話全体のテンションをいい感じに上げてくれたと思います。
このお話を本文に組み込むとキャラクター同士のバランス(配分)が悪くなりそうなので入れませんでした。
逆にこれがあることで『片腕の聖女』というタイトルがまとまるような気もします。(いや、ライバルまで片腕にするのはやりすぎだろって声も聞こえてきますが)
読んでいただきありがとうございました。
乗っていた馬車が外部からの強い力に弾かれて転がったのだった。
ババロアは馬車の中で身体中のいたるところを打ちつけた。痛くないところがないくらいに全身が疼いていた。
馬がいななき、人間の怒号と叫び声が響く。そしてそれを打ち消すほどの魔物の咆哮が夜の闇を震わせていた。
倒れた馬車は、ババロアが乗っていた部分が、大きな顎で食いちぎられたように消失していた。
ババロアはひしゃげた客室の隙間から外に這いずり出た。
暗闇のなか、目をこらすと地面には人間の欠片のようなものが転がっていた。
「だ……だれか!」
生きているものの気配はしない。ただ魔物だけが雄叫びをあげつづけている。
「に、逃げないと……」
手足が思うように動かない。それでも、ここから少しでも離れようと這いつくばったまま右手の爪を地面に立てて身体を引きずった。
そして動きづらい理由に気づいた。
「手が……」
ババロアの左腕が肩の先からなくなっていた。
右手でそれを確認して叫んだ。
「ひぃ! 血が! 血がいっぱい出てる! だれか! お父様!」
返事をするものはいない。
空で暴れていた魔物が、食い残した生贄に気づいただけである。
ババロアの目の前に魔物が向かってきた。
マムシを潰したような、正視に耐えないいびつでおぞましい顔が間近に迫ってくる。
魔物が大きく口を開けた、聞いただけで正気を失いそうな叫び声が響き、でたらめに並んだ鋭い牙が背筋を凍らせる。
しかし、このときのババロアは逆に血がたぎっていた。
「あたしの手を……食ったのか?」
知性のかけらも感じられない忌まわしき魔物に、高貴な血が流れる身体の一部を奪われたと思うと感情が一気に沸騰した。
「あたしに触れるな下種が!」
ババロアが右手を突き出すとそこからまばゆい光が放たれた。
魔物は悲鳴をあげて飛び上がった。
そして、視力を失って混乱しているのか、よりいっそう滅茶苦茶に暴れはじめた。
道の両側の森から、魔物の尾で吹き飛ばされた木々が路面に飛んでくる。荒れ狂う魔物は猛烈な嵐のようだった。
「ひぃぃ……ごめんなさい! ごめんなさいぃぃ」
一瞬で素にもどったババロアは右手で頭をかばい、路上にうずくまって震えていた。
やがて、ヴァンバルシア王妃はそのまま意識を失った。
気がついたとき、ババロアは大きなベッドに寝かされていた。
見覚えのある部屋——王都サナト・モレアの王宮のすぐそばにある屋敷だった。
部屋着に着替えさせられ、全身いたるところに包帯が巻かれていた。
おそるおそる左手を確認する。
左腕はなかった。
「うぅ……」
ババロアは大きな喪失感におそわれ、目をぎゅっとつむって嗚咽を漏らした。
「気がついたのね」
ババロアは声のしたほうに視線を送った。
「お母様……」
心配そうな顔で近づいてきたのは母のカロリーヌだった。
「三日眠ってたのよ。命が無事でよかったわ」
カロリーヌはベッドのへりに腰掛け、娘の黒髪をやさしく撫でた。
それから、脇の小さなテーブルに置いてあったベルを鳴らして使用人を呼んだ。
「気がついたわ。お医者様に連絡して」
「はい」
使用人は一礼してすぐに出ていった。
「お父様は」
ババロアが水差しから水をもらいながらたずねると、母は首を振って、ベルの横の指輪をとって見せた。
「これが付いた手首が落ちていただけよ」
その指輪は母の薬指にはめてあるのとおなじものだった。
「お父様……」
「あなたは運がよかった。緊急にリック城から出発した軍隊があなたを見つけたの。軍医に手当てもしてもらえた。無意識に霊力で抑えていたのか失血は多くなかったけど、それでももう少し遅かったら助からなかったそうよ」
「運が……よかったのかしら」
「そうよ。それから、リック城にも魔物が出てランデル陛下も行方不明なの」
「陛下も……?」
ババロアは肩をブルッと震わせた。
魔物のしたことにはまちがいないだろうが、まるで女神の罰が下されたような気がした。
あれはいったいなんだったのか。魔物が現れる前、父はだれかと話していた。憶測ではあるが、おそらく父もランデルもそのものを利用しようとして恨みを買ったのだろう。
「陛下が行方不明なら、いまのヴァンバルシアはどうなっているの?」
「陛下の遠縁とかの家がいくつか王に名乗りを上げて台頭してきてるわ」
「内乱状態なの?」
「まだそこまでは……一番大きな勢力はサイバリア王国の王弟オルビス殿下だから、内戦にでもなれば介入してくるいい口実になるでしょう? なんとかそうならないようにチャイルズ子爵たちが抑えてるところよ」
国王がいるうちはみなそれに従っていたが、突然いなくなってしまった。時期国王はだれか。だれであろうと、自分と同列だったものが自分の上に立つのは許せないのだった。ランデルは尊敬できる人物ではなかったが、それでも国をまとめる重石にはなっていたのだ。
「そう……大変なことになってるのね」
「あなたはもう政治的な争いごとからは退いていいんじゃないかしら」
「そうね……」
ババロアはあいまいに答えた。
翌日も翌々日もババロアはベッドに横たわり鬱々とした時間を過ごしていた。
意図せず、何度も確認するように左肩をさすった。霊力のせいか、痛みはなく、傷口はほぼふさがっていた。
なにもかも失った気分だった。父も夫である国王も、おまけに片腕までも。
空虚感だけがあった。
これからなにを目標にして生きていけばいいのかわからない。
ただ、死のうとは思わなかった。
それは、皮肉にもナタ・デ・ココのおかげだった。国を追われ、片腕を失いながらも王太子妃にまでなった。自分がそれより劣るなどとは認められない。
しかし、逆にもうどうでもいいとも思えていた。
そもそも自分自身に大きな野望などあったのだろうか。父も夫もいないいま、いつまでも意地を張っていてもしかたないという気がしていた。
「だいぶ険がとれて、やさしい顔になったわね」
そのせいだろうか、数日経って母がそんなことを言った。
「やさしい顔……?」
「あなたはいつもなにかに耐えているような、つらそうな顔をしていたわ。いまはそれがだいぶやわらいでいるみたい」
「そうかしら」
ババロアは右手で自分の顔に触れてみた。
「ええ、こっちの顔のほうが好きだわ。母親としては」
カロリーヌはそう言って目を細め、またババロアの髪を撫でた。
ババロアはなにか大きな重圧から解放された気がして、こわばっていた身体がやわらかくなりベッドに溶け込むような感覚におそわれた。同時に自然と涙がこぼれた。
「奥様!」
そのとき、使用人の女があわてたようすで部屋に入ってきた。
「どうしたの?」
カロリーヌがおどろいてたずねる。
「外に……」
使用人は震えながら外を指さすばかりである。
カロリーヌは窓に寄って外を覗いた。
ババロアの部屋は二階にあったので見下ろすかたちになる。
「まあ、なにかしら……兵隊がたくさんいるわ。それに、あの旗……」
不安そうな声でそう言って部屋から出ていった。
ババロアはベッドから下りると、かたわらの杖を握った。
しばらく寝込んでいたので歩くための補助としての杖である。
杖には紐が輪のように付けてあった。それを手首に通す。杖を落とさないためである。左腕がないので、なにかをするときは持ち替えることができずいちいちどこかへ立てかけなくてはならない。そうしなくていいための紐である。
「危険があるかも……ここにおられたほうがよろしいのでは」
残された使用人がババロアを支えながら言った。
「大丈夫、あたしはまだ王妃なのよ。上着をとって」
窓から下を確認した。大勢の兵士が隊列を組んでいるのが見える。
「キール公爵の旗印ね。それと、あれは……!」
キール公爵はランデルが不在となって王位継承権を主張したひとりである。だが、ライバルたちより血が遠く、浪費家だったせいで雇える私兵も少なかったため、他者の後塵を排していた。
ババロアが上着を羽織って階段を下りて行くと、玄関のドア越しに母が外の兵士と話していた。
「自宅静養中のところ申しわけありませんが御同行願いたい」
「娘はまだ歩ける状態ではありません。お引き取りください」
どうやら兵士はババロアを出せと言っているようだ。ドア越しに押し問答がつづいている。
ババロアはドアに寄った。
「ババロアである。この無礼はなにごとか」
「ババロア、下がって」
カロリーヌはあぶないからと娘をドアから離そうとしたが、ババロアは母を制して耳を近づけた。
「おお、ババロア様! ランデル様亡きあとのことをキール公爵が心配されております。ぜひ今後のことについて話し合いを」
「話し合い? キール公爵となにを話し合うというのです。王位のことについてというならすべての公爵家を召集しなさい」
「いや……いますぐすべてというわけには……まずはもっともババロア様のことを心配しているキール公爵とお話しください」
「キール公爵がもっとも私のことを心配していると?」
「そうです! ババロア様、ひいては国家のことをもっとも懸念しておられるのがキール公爵なのです」
「では、キール公爵の旗の隣にサイバリア王国のものがあるのはなぜか!」
ババロアは鋭い声で問うた。
「そ、それは……キール公爵はオルビス殿下の支持も受けておられるのです」
逆だろう、とババロアは見抜いていた。
キール公爵はほかのライバルを出し抜いて王になることはできないとみて、サイバリア王国に手を貸すことにしたのだ。最下位になるくらいなら、オルビスに便宜を図ることでナンバーツーの座を手に入れようとしているのだろう。
「売国奴め」
ババロアは吐き捨てるようにつぶやいた。
「どうか扉を開けてお顔をお見せください!」
強引に開けようとドアがガタガタと鳴る。
カロリーヌはノブを必死で押さえていた。
ババロアは母の手に「ここは私が」と右手を乗せた。
「ババロア、あなたが目当てなのよ。なにをされるかわからないわ」
「王妃としては黙っておれません」
そう言ってから「お母様を奥に」と使用人に命じた。
「ああ……」
カロリーヌは使用人に連れられながら、娘の顔つきが昔にもどっていることに気づいた。だが、それは覇気に満ちているともとれた。
ババロアは手首から杖をぶら下げた右手でドアに触れた。
つぎの瞬間、大きな音とともに、外にいた兵士ごとドアが吹き飛んだ。
「開けたわよ」
五十人ほどで屋敷を囲んでいた兵士たちが色めき立つ。王妃に対して武器を構えるものまでいる。
「ババロア! だめよ、そんな身体で……」
奥から母の心配する声が聞こえてくる。
「身体?」
ふと、脳裏をナタ・デ・ココの顔がよぎった。
ババロアは兵士たちを見据えると、唇の端をつり上げて言った。
「こいつらにはちょうどいいハンデだわ」
19.5.ババロア
END
あとがき
19話以後のババロアです。このあとどうなるのかはまだまだ気になるところですが、続けるとスピンオフ作品になってしまいそうなのでこのへんで。
完全無欠になりがちな主人公に比べて、強さも弱さも自由に描けるのがライバルキャラの魅力ですね。
普段は傲慢で、感情が高ぶると暴言を吐きまくるという、実際にいたら絶対に近寄りたくないキャラですが、お話全体のテンションをいい感じに上げてくれたと思います。
このお話を本文に組み込むとキャラクター同士のバランス(配分)が悪くなりそうなので入れませんでした。
逆にこれがあることで『片腕の聖女』というタイトルがまとまるような気もします。(いや、ライバルまで片腕にするのはやりすぎだろって声も聞こえてきますが)
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ファンタジー
冷宮に閉じ込められて育てられた姫がいた。父親である皇帝には関心を持たれず、少しの使用人と母親と共に育ってきた。
幼少の頃からの虐待により、感情を表に出せなくなった姫は、5歳になった時に母親が亡くなった。そんな時、皇帝が姫を迎えに来た。
※すみません、完全にファンタジーになりそうなので、ファンタジーにしますね。
※皇帝のミドルネームを、イント→レントに変えます。(第一皇妃のミドルネームと被りそうなので)
そして、レンド→レクトに変えます。(皇帝のミドルネームと似てしまうため)変わってないよというところがあれば教えてください。
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