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第一部 空の城
魔女の家(3)
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浴室はあまり広くなく、浴槽は大きな木の桶でした。
サディは疲労のあまり棒のようになった足をやっとのことで折りたたんで湯につかりました。
ガラス越しにとどくランプの明かりは、浴室を照らすには心細いものでしたが、間に合わせ程度のものなので仕方のないことでした。この時代は入浴にかぎらず、日が暮れてからなにかをするということはあまりなかったのです。その薄明かりとちょうどよい湯の温度が、見知らぬ場所で緊張しているにもかかわらず、疲れ切った彼女を眠りの中へ誘いこんでいきました。
一瞬、浴槽の底が抜けて自分がどこかへ落ちていくような錯覚が起きました。
サディは肩を震わせて顔を上げました。どうやら一秒だか一分だか眠っていたようです。それが十分や一時間でないことを祈りつつ彼女は慌てて浴槽を出ました。失礼のないように髪と体を手早く洗うと、タオルで身体を拭いて、大きすぎる着替えを身につけて脱衣場をあとにしました。
「こっちだよ」
サディが脱衣場を出るのを見計らったように居間のほうからフレイヤの声がしました。声の調子からすると、あまり待たせてはいなかったようです。
「まったくその頭ときたら……ちょっと、こっちへおいで」
居間に入るとフレイヤがブラシを構えて待っていました。
シンラと猫とカラスもいます。
「女の子はもっと髪を大事にするもんだよ」
有無を言わさずサディをつかまえると髪をときはじめました。どうやら、最初見たときから気になっていたようです。しかし、サディの長い黒髪は古城を覆いつくす蔦のように、強く絡まりあい、ブラシの働きを拒みました。
「やれやれ、いちばん目の粗いブラシなんだがねぇ……」
ブラシを動かしても、髪にささったままサディの頭が右に左に引っ張られるだけなので、フレイヤは早々にあきらめました。そして、ブラシを食事用の小さな丸いテーブルに置くと、腰に手をあててサディを見下ろしました。
「シンラと話しができるそうだね?」
「は、はい、なぜだかわかりませんけど……」
「じゃあ、この子たちはどうだろうね。お前たち自己紹介してみな。シンラ、お前もだよ」
狼が前に進み出ました。
言葉が通じるということと、さっき薪をくべてもらったのを見ていたからでしょうか、サディはこの狼に対する恐怖心はすっかり無くなっていました。
「俺はもう名乗ったよな。シンラ、『森羅万象』この世のあらゆるものすべて、という意味だ」
狼はこの名前が気に入っているようで、ちょっと得意そうに見えました。
続いてカラスがテーブルの上に降り立ちました。
「俺はヨル。すべてを包み込む夜の闇さ」
カラスは本当にすべてを包み込むかのように、どことなく優雅なしぐさで黒い翼を軽く広げました。
「あたしはツクヨミ」
窓際のカウチソファー(長椅子)に座っている猫が長い尻尾を揺らしました。
「夜の闇を照らす月の光よ。『ツキ』って呼んでね」
その猫は、まるで月の光を集めたような銀色の毛皮を着ていました。よく見ると左右の目の色が違います。左目が青色で右目が琥珀色でした。
「シンラさん、ヨルさん、ツキさんですね」
サディは軽く頭を下げました。
「ふむ……いちおう魔女の素質はあるみたいだね。ほかになにかできるかい?」
「魔法は使えませんけど、家事なら得意です」
自分を売り込むのは、あまり良い気持ちがしませんでしたが、追い出されないようにするには、なにかの役に立つということをアピールしなくてはなりませんでした。
「ほう、料理もできるのかい?」
「はい、おやしきでは毎日やっていました」
「ふーん……」
フレイヤは少しのあいだ考えていましたが、「まあ、今日は遅いからとりあえず寝な」といって会話を切り上げ、奥の部屋に入っていきました。
サディは「ありがとうございます」と頭を下げて、フレイヤにいわれた通りに、ソファーの背もたれを倒して平面にすると、横になって毛布をかぶりました。
フレイヤは、頑固そうだけど、人食い魔女ではなさそうです。サディは少し安心しました。そして、一気に眠りのなかへ誘い込まれていきました。
サディは眠りの国へたどり着く途中で思いました。ここに置いてもらうために、明日の朝一番に起きて、掃除、洗濯、できるだけのことをしよう。お屋敷の広さにくらべれば、この家の家事なんてなんでもないことです。
しかし、運の悪いことに、サディは腕を振るうことはできませんでした。熱を出して数日の間、寝込んでしまったのです。
「思い出したかい?」
狼が寝そべったままサディを見ていました。
「ええ、でも……」
サディはぐらぐらする頭でなんとか立ちあがろうとしましたが、目がまわって床にきちんと足を着けることができずに、すぐに腰を落としてしまいました。
「おいおい、無理するなよ」
狼が心配して足もとによって来ました。
枕もとに手をつくと、冷やりとした物がふれました。それは今朝がたフレイヤがのせてくれた濡れタオルでした。起きあがるときに、おでこから落ちたのでしょう。サディは毛布を濡らさないようにそれを手にとりました。
「まだ、横になっていたほうがいい。フレイヤ様もそう言っていたしな」
狼に言われサディはタオルを額にあてておとなしく横になろうとしましたが、ちょうどそのとき、フレイヤが玄関を開けて入ってきたので、あわてて起き上がりました。
「いいから寝てな。ひどい熱だよ」
フレイヤは野草をいっぱいに積んだ籠をかかえていました。足もとにはツキと名乗った猫がまとわりついています。カラスはいないようでした。
「ご迷惑をおかけします……」
「まったく、とんだ拾いもんをしたもんさ」
シンラは責任を感じて、しょんぼりとうなだれました。
「しばらくは、そのソファーの上でおとなしくしてな」
フレイヤはサディのほうは見ずに野草の仕分け作業をしています。
「はい……すみません」
サディは本当に申し訳なさそうに横になると、タオルを額にあてて目を閉じました。
自分はこれからどうなるのだろう?
どうすれば良い方向に向かえるのだろう?
熱に冒された頭では、なにひとつ良い考えは思い浮かびませんでした。
「あたしのソファーなのに……」
銀色の猫が部屋の隅でそのようすを見ていて、不満そうにつぶやきました。
第2章
魔女の家
終
サディは疲労のあまり棒のようになった足をやっとのことで折りたたんで湯につかりました。
ガラス越しにとどくランプの明かりは、浴室を照らすには心細いものでしたが、間に合わせ程度のものなので仕方のないことでした。この時代は入浴にかぎらず、日が暮れてからなにかをするということはあまりなかったのです。その薄明かりとちょうどよい湯の温度が、見知らぬ場所で緊張しているにもかかわらず、疲れ切った彼女を眠りの中へ誘いこんでいきました。
一瞬、浴槽の底が抜けて自分がどこかへ落ちていくような錯覚が起きました。
サディは肩を震わせて顔を上げました。どうやら一秒だか一分だか眠っていたようです。それが十分や一時間でないことを祈りつつ彼女は慌てて浴槽を出ました。失礼のないように髪と体を手早く洗うと、タオルで身体を拭いて、大きすぎる着替えを身につけて脱衣場をあとにしました。
「こっちだよ」
サディが脱衣場を出るのを見計らったように居間のほうからフレイヤの声がしました。声の調子からすると、あまり待たせてはいなかったようです。
「まったくその頭ときたら……ちょっと、こっちへおいで」
居間に入るとフレイヤがブラシを構えて待っていました。
シンラと猫とカラスもいます。
「女の子はもっと髪を大事にするもんだよ」
有無を言わさずサディをつかまえると髪をときはじめました。どうやら、最初見たときから気になっていたようです。しかし、サディの長い黒髪は古城を覆いつくす蔦のように、強く絡まりあい、ブラシの働きを拒みました。
「やれやれ、いちばん目の粗いブラシなんだがねぇ……」
ブラシを動かしても、髪にささったままサディの頭が右に左に引っ張られるだけなので、フレイヤは早々にあきらめました。そして、ブラシを食事用の小さな丸いテーブルに置くと、腰に手をあててサディを見下ろしました。
「シンラと話しができるそうだね?」
「は、はい、なぜだかわかりませんけど……」
「じゃあ、この子たちはどうだろうね。お前たち自己紹介してみな。シンラ、お前もだよ」
狼が前に進み出ました。
言葉が通じるということと、さっき薪をくべてもらったのを見ていたからでしょうか、サディはこの狼に対する恐怖心はすっかり無くなっていました。
「俺はもう名乗ったよな。シンラ、『森羅万象』この世のあらゆるものすべて、という意味だ」
狼はこの名前が気に入っているようで、ちょっと得意そうに見えました。
続いてカラスがテーブルの上に降り立ちました。
「俺はヨル。すべてを包み込む夜の闇さ」
カラスは本当にすべてを包み込むかのように、どことなく優雅なしぐさで黒い翼を軽く広げました。
「あたしはツクヨミ」
窓際のカウチソファー(長椅子)に座っている猫が長い尻尾を揺らしました。
「夜の闇を照らす月の光よ。『ツキ』って呼んでね」
その猫は、まるで月の光を集めたような銀色の毛皮を着ていました。よく見ると左右の目の色が違います。左目が青色で右目が琥珀色でした。
「シンラさん、ヨルさん、ツキさんですね」
サディは軽く頭を下げました。
「ふむ……いちおう魔女の素質はあるみたいだね。ほかになにかできるかい?」
「魔法は使えませんけど、家事なら得意です」
自分を売り込むのは、あまり良い気持ちがしませんでしたが、追い出されないようにするには、なにかの役に立つということをアピールしなくてはなりませんでした。
「ほう、料理もできるのかい?」
「はい、おやしきでは毎日やっていました」
「ふーん……」
フレイヤは少しのあいだ考えていましたが、「まあ、今日は遅いからとりあえず寝な」といって会話を切り上げ、奥の部屋に入っていきました。
サディは「ありがとうございます」と頭を下げて、フレイヤにいわれた通りに、ソファーの背もたれを倒して平面にすると、横になって毛布をかぶりました。
フレイヤは、頑固そうだけど、人食い魔女ではなさそうです。サディは少し安心しました。そして、一気に眠りのなかへ誘い込まれていきました。
サディは眠りの国へたどり着く途中で思いました。ここに置いてもらうために、明日の朝一番に起きて、掃除、洗濯、できるだけのことをしよう。お屋敷の広さにくらべれば、この家の家事なんてなんでもないことです。
しかし、運の悪いことに、サディは腕を振るうことはできませんでした。熱を出して数日の間、寝込んでしまったのです。
「思い出したかい?」
狼が寝そべったままサディを見ていました。
「ええ、でも……」
サディはぐらぐらする頭でなんとか立ちあがろうとしましたが、目がまわって床にきちんと足を着けることができずに、すぐに腰を落としてしまいました。
「おいおい、無理するなよ」
狼が心配して足もとによって来ました。
枕もとに手をつくと、冷やりとした物がふれました。それは今朝がたフレイヤがのせてくれた濡れタオルでした。起きあがるときに、おでこから落ちたのでしょう。サディは毛布を濡らさないようにそれを手にとりました。
「まだ、横になっていたほうがいい。フレイヤ様もそう言っていたしな」
狼に言われサディはタオルを額にあてておとなしく横になろうとしましたが、ちょうどそのとき、フレイヤが玄関を開けて入ってきたので、あわてて起き上がりました。
「いいから寝てな。ひどい熱だよ」
フレイヤは野草をいっぱいに積んだ籠をかかえていました。足もとにはツキと名乗った猫がまとわりついています。カラスはいないようでした。
「ご迷惑をおかけします……」
「まったく、とんだ拾いもんをしたもんさ」
シンラは責任を感じて、しょんぼりとうなだれました。
「しばらくは、そのソファーの上でおとなしくしてな」
フレイヤはサディのほうは見ずに野草の仕分け作業をしています。
「はい……すみません」
サディは本当に申し訳なさそうに横になると、タオルを額にあてて目を閉じました。
自分はこれからどうなるのだろう?
どうすれば良い方向に向かえるのだろう?
熱に冒された頭では、なにひとつ良い考えは思い浮かびませんでした。
「あたしのソファーなのに……」
銀色の猫が部屋の隅でそのようすを見ていて、不満そうにつぶやきました。
第2章
魔女の家
終
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