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第50章 最後の対決
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止まったような時間の中でも、その時は刻々と迫ってくる。始祖は進路上の竜巻を迂回した。武器や人体の一部が飛び交っている中を黒い滲みの姿で突っ切るのは空気中を移動するより骨が折れるからだ。竜巻を迂回した始祖はされに近づいた。そしてリンボーダンスを彷彿とさせる動きで一本の槍の下をくぐった。進路上には、もう空気以外に怒りの発露を邪魔立てするものは何もなくなった。
*
ナナクサは始祖が自分を殺した後、戯れにも仲間たちを見逃すことなど、ありえないことを知っていた。それを考えただけでも、怖れと焦りで集中力が途切れそうになる。初めての試みであろうが、なかろうが関係はない。空間移動を必ず成功させて始祖を出し抜くのだ。ナナクサはなおも自分を鼓舞し続けた。
*
ナナクサの身体は変化の兆しすらまだ見せない。始祖は、また一歩、彼女に近づいた。もう手が届く。それでもナナクサには何も起こらない。両者はついに対峙した。黒い滲みはピントのぼけた映像のようになったかと思う間もなく始祖の姿に落ち着いた。そして鋭利に尖った長い爪をナナクサの喉に躊躇なく突き入れた。その途端、始祖の目の奥に驚愕が走った。始祖が指先に微かな抵抗を感じると同時に、ナナクサは自分自身の身体が蒸しあげられたカボチャがペースト状に裏ごしされる感覚を味わった。視界が闇に閉ざされて目が見えなくなった。しかし周りの状況は手に取るようにわかる。ナナクサは空間の中に身体を絞り出すように一歩前に足を踏み出した。踏み出せるとわかったので次は反対の足を踏み出した。そしてもう一歩。たったの三歩ではあったが、彼女は凍り付いた空間の中を激流に逆らうように始祖の身体を避けて、その背後に回りきった。
*
始祖は、かつてこれほどの衝撃を受けたことがなかった。激しい怒りの欲求を満たすためにナナクサの首に鋭い爪を突き立てたまではよかったが、そこから自分と同じ種類の波動を瞬時に感じとったのだから。始祖ほどの者であっても、受けた衝撃から立ち直るのに幾ばくかの時間を要した。その時間は滅ぼそうとした相手に対して絶好の贈り物となり、今まで経験したこともない激痛で報われた。そして身体が傷つけられた痛みに目を瞬いた始祖は空間移動を成し遂げたナナクサの気配を背中に感じて辛うじて首を巡らせた。
*
黒い竜巻は始祖の負傷とともに消滅して、それに巻き上げられていた戦士の死体や武器などが闘技場のいたる所に散乱した。生き残った者たちはその惨状を声もなく眺めた。
「なぜだ?……」
十字架や聖水に晒されたことが霞むほどの衝撃を初めて味わった始祖は顔を歪めて呟くように問いかけた。ナナクサには始祖が何を疑問に感じるかなど関係なかったし、答えを持っていたとしても、応えてやる気など毛頭なかった。ただ思ったのは、この隙をけっして逃すわけにはいかないということだけだった。彼女は始祖の身体が回転して完全に自分に正対するまで待つことなく、逆手に持ち替えた銀のナイフを今度は肩口に向けて繰り出した。始祖は彼女の手首を掴んだが、当初の勢いと力は影を潜めていた。ナナクサはナイフを握った右手に左手を添えて始祖の目を見ながら一気に肩口を刺し貫いた。量子脳の近くから、弱りきった若いヴァンパイアたちの悲鳴がまた一斉に上がった。
「みんな、ごめん」
ナナクサは自分の肩に広がる激痛に耐えながら、ナイフを半回転させたが、さすがにそれが苦痛の限界だった。彼女は始祖から身を引き離して大きく息をあえがせると、両手を膝について床に沈み込もうとする身体を辛うじて支えた。目の前に煙を上げる肩口からナイフを引き抜こうと悪戦苦闘している始祖が見える。無敵だと思われた相手に対して雌雄は決したのだ。だが、すべてを犠牲にする覚悟で、この始祖を滅ぼすべきなのだろうか。それとも今なら何らかの譲歩を引き出せるのだろうか。もし譲歩させることができるなら……。ここに至ってナナクサの決断はまた揺らぎ始めた。静まり返った闘技場には量子脳から発せられるシステムダウンを告げる秒読みだけが虚ろに響いていた。
*
始祖は肩に食い込んだ銀のナイフをやっとのことで引き抜くと、「なぜだ?……」と辺りに虚ろな視線を彷徨わせつづけた。銀のナイフを引き抜いたときの痛みも、それには応えてはくれない。比類ない存在である自分ですら、誕生してから数十世紀を経てもなお、己が身体しか空間に溶け込ませることしかできないのに、子孫の小娘ごときが、なぜ身に纏う物や忌々しい銀の武器まで一緒に空間に溶け込ませ得たのだろうか。湧きおこる疑問は身体に対する痛手より遥かに大きかった。しかし、思索はそこで唐突に断ち切られた。始祖は喉が絞め上げられ、身体が持ち上げられる感覚を味わった。これもまた初めてのことだった。頭半個分は小さな小娘が自分の首をぐいぐいと絞め上げて、身体を軽々と持ち上げている。始祖は驚きをもって自分に対峙する子孫の瞳の中を覗き込んだ。星を散りばめた黒く静かな宇宙を思わせるその中には紛れもない破壊欲求が見て取れた。始祖はここに至って初めて恐怖というものを理解した。
「お前は、我れをどうする気だ。まさか滅ぼそうなどと不遜なことは思ってはおるまいな。子孫が始祖を滅ぼすことなど、道理に反するぞ。それに見たであろう。陽の光とて我を滅ぼすことなど出来はせぬし、銀の武器で心臓を刺されたとて滅びることなどないのだ」
ナナクサは始祖の言葉に、何かを決意したように目を細めると、その身体を持ち上げたまま歩き出した。始祖が視線を巡らせた先には崩れた天井の穴から眩い陽光が差し込んでいた。銀のナイフで身体を貫かれて大量に失血している上に、陽光まで浴びせられれば、さすがに無敵の存在であっても滅ぼされかねない。はったりが効かないとわかった始祖は残る力を振り絞って黒い靄になって逃れ去ろうとしたが、これも無駄だった。先ほど肩から引き抜いて捨てたはずのナイフが目の前の子孫によって今度は腹部に打ち込まれたからだ。始祖は三度目の激痛に、遂に虚勢をかなぐり捨てて初めての悲鳴を上げた。
「わかった。お前は強い。賢くもある。それゆえ取引を申し出よう。お前もそれは考えたのではないか。お前を赦す。生き残った人間どもにも害は与えぬ。しかも、それだけではないぞ。もう、ここには戻らぬし、お前や子孫たちにも関わらぬと名誉にかけて約束しようではないか。それで、どうだ?」
ナナクサは一瞬歩みを止めるかに見えたが、一層足を速めて天井から差し込む陽光の手前まで突き進んだ。始祖は心底、慌てふためいた。
「愚かな。我れを滅ぼすことは、お前を含めた子孫の全てを滅ぼすことになるのだぞ。それで良いのか。一族がすべて地上から消え去るのだぞ?!!」
「でも、あんたも死ぬんでしょ?」
ナナクサが口にしたのは、それだけだった。
ナナクサは驚愕と恐怖。それ以上の絶望が広がる始祖の瞳をひたと見据えながら、その身体を陽光の中に突き入れた。
自分の身体が焼け焦げる臭いがナナクサの鼻をつき、数々の悲鳴が耳を打った。手にはもがき苦しむ始祖の感触が、まだ明確に残っている。遂にヴァンパイアと人間の共通の敵を仕留めたのだ。
ナナクサの視界は青白く激しい炎に満たされていった。心と身体の痛みは、もうなかった。
*
ナナクサは量子脳の空になったポッドの前に立っていた。
カウントダウンの秒読みは続き、三十秒も残されてはいない。彼女はぼろ雑巾のようになった始祖をポッドに投げつけると、早くも火ぶくれが修復しつつある、その頭にヘッドギア状の接続具を素早く取り付けた。
「神等!」ナナクサは呼びかけた。「新たな補助脳を接続した。システムダウンの指令を取り消しなさい!」
「新たな補助脳を確認。ですが接続は不可能です」
なにが「不可能」だ。これが私の出した答えだ。否定は許さない。絶対に呑んでもらう。ナナクサは畳みかけた。
「理由は?!」
「一体の補助脳だけでは、不足だからです」神等は役所の窓口係のように慇懃無礼な口調を心掛けているかのようだった。「私自身のアイデンティティを維持するためには、最低でも十個体の補助脳が必要です。そもそも一個体だけ接続されても、負荷の大きさにその個体が長持ちしません。三百日を越えずにシステムダウンの結果をもたらすだけです。おわかりですか?」
「何がアイデンティティよ。あんたは私の脳をモデルに創られたからわかるわ。あんたは色々な経験がしたい好奇心旺盛な小娘と同じ。でも、その好奇心は退屈な時間の中で映画のように過度な刺激を味わいたいだけの悪趣味なものよ。そのために多くの役者が必要なだけじゃない」
「あなたの言うことが理解できません」
「まぁいいわ。お前も他者と支えあわなければ生きてゆけないということでしょ。私たちと同じに」
「そういうことです」
「なら、心配ないわ。この個体はタフで不死身よ。それに、お前が考えも及ばないくらい様々な経験もしているわ。それこそ補助脳の数万個体分以上でしょうね。だから、お前のように、ひねくれ者の伴侶にはうってつけよ」
ナナクサと神等のやり取りを聞いていた始祖の瞳に再び恐怖が広がった。何をされるのだろうかという不安が力を呼び覚まし、満身創痍でボロボロの身体を活性化させた。始祖は並みのヴァンパイアには到底及ぶべくもない活力を振り絞って身体を急速に修復しながらポッドの中でもがき始めた。
「あんたは塵には返さない」ナナクサは復活しつつある始祖の身体に刺さったナイフの柄を蹴りつけてポッドの椅子に、その身体を深々と縫い付けた。「礎になってもらうわ、一族の始祖らしく」
始祖に取り付けた接続具から内側に向けて一斉に短針が飛び出し、鮫の歯のようにがっちりと頭に食い込んだ。その瞬間、ナナクサには「助けて」という始祖の声が聞こえたような気がした。ポッドの中の照明が赤から緑に変わるにつれて目の前の始祖の顔が苦悶に歪み、やがて大理石のように白く固まった。それは十数世紀以上にわたってヴァンパイアと人間を苦しめ続けてきた始祖にとって苦痛と絶望に満ちた永遠の旅が始まったことを意味していた。
*
神等は秒読みを止め、代わって都市機能システムが正常に戻ったことを告げると、元いた地下の闇に姿を没し去るために再び巨体を震わせはじめた。神等の周囲にいたファニュや助け出されたヴァンパイアたちはその動きに巻き込まれないように瓦礫や死体を避けて壁際に移動した。地鳴りとともに神等の姿が床の大穴に消え去ると、闘技場は静寂に包まれた。本当に時が止まったようだった。
ナナクサはジョウシとの最後の約束を果たすために陽光が眩く差し込むところまで歩を進めた。陽光は露出した部分の肌を刺し、ちりちりと煙が上がる。ファニュに借りた血の効果が薄れ始めているのだ。
「よく聞くがいい。私の名はナナクサ。お前たち人間の仇敵。ヴァンパイアだ」ナナクサは、そこでいったん息を吸うと再び口を開いた。ヴァンパイアの声は闘技場の壁全体をびりびり震わせた。「見ての通り、私の力は強大で無限だ。だが、この力をお前たちとの戦に使おうとは思わない。だから、私たちを刺激するな。私たちもまた、お前たちに関わらない。広大無辺な白い大地は、お前たちだけのものではない。これから先、私の一族に弓を引く者は何人であっても一切容赦はしない、私が斃した第一指導者のように」
ナナクサは戦士たちに自分の言葉が浸透するのを待った。ファニュの血を借りて一時的に力を得たことで映像や音声が他の砦に映らないのではと心配もしたが、そこかしこのモニター上の各辺塞の戦士たちの表情を盗み見る限り、これも大丈夫だと思われた。地上に遍く存在する人間たちがナナクサを注視している。この機会を逸するわけにはいかない。彼女は不安そうに見守るファニュから、怯えを必死に押し隠そうとしている闘技場の生き残りの戦士たちに視線を移した。
「だが、これだけ宣言しても、また如何なる盟約を結ぼうとも、禁を破る愚か者は出るだろう。そのために私は敢えて、この砦に監視者を置いてゆく。その者は狡知の企みをたちどころに嗅ぎ取り、苦痛にまみれた滅びを、その愚か者に与えるだろう。私の警告を決して忘れるな」
ナナクサの最後の言葉が合図であったかのように天蓋の中心部分が遂に崩落した。
*
幾つもの巨大な石の塊が轟音を立てて落下すると、そこから灰色の粉塵が沸き上がり、人間が走るより速く闘技場の中心寄りにいた戦士の身体を悲鳴とともに呑み込んだ。ファニュとクインは闘技場の門まで五十メートル足らずの所にいたが、逃げ惑ってパニック状態に陥った戦士たちが早くも門に殺到していたため、門から離れた壁の張り出しの下まで救出したヴァンパイアたちと移動し、彼らとそこでできるだけ小さくなっていた。崩落した巨大な天蓋の真下にいたナナクサのことは不思議と心配にならなかった。彼女がこんなことで命を落とすわけはないのだ。あの強力なヴァンパイアの親玉をやっつける力があるのだから。
やがて粉塵が薄れてくると、彼女の傍にナナクサが佇んでいるのがわかった。
「ファニュ」
微かに残る粉塵のスクリーンの前でナナクサがこちらを向いているのがわかる。逆光でファニュには彼女の表情はわからなかったが、その声は静かで落ち着いていた。
「ナナクサ……」
ファニュもナナクサの名を口にすると、そこで口をつぐんだ。自分の口で伝えねばならないことがあるのだが、どうしてもそれを言葉にすることができなかったからだ。だから自分の傍にいる助かった者たちの代わりに質問を投げかけた。
「これから、どうなるの?」
「それは、あなたたち次第よ」
ファニュにはナナクサの言葉は人間とヴァンパイア双方に等しくかけられたものだと感じられた。確かに彼女の言う通りだ。互いの種族の行く末は、互いをどう理解してゆくかにかかっているのだ。ナナクサたちと同じ時を過ごしたファニュにはそれは容易なことだと確信できる。だが、他の人間たちはどうだろうか。長い時をかけて彼らを恐れ、敵対心のみを肥大化させてきた者たちには。ファニュには非力な自分に何ができるかはわからなかった。でも、ヴァンパイアとの相互理解の一助になることはできるかもしれない。衝突が起こらないように今はまだ彼らとの接触は極力控えたほうが良いのだろうが、命ある限り彼らとの友誼を人々に語ってゆくことは可能だ。二つの種族の間に横たわる凍てついた大地に種をまくのだ、芽吹くのが遥か未来になるのだとしても。とにかく自分が成すべきことは、それなのだ。……では、目の前の仲間は。
「ナナクサは、これからどうするの?」
「もちろん続けるわ、デイ・ウォークを」
ファニュは即答したナナクサの漆黒の瞳を見つめ、やがて頷いた。その意味がわかったからだ。
*
ナナクサは始祖が自分を殺した後、戯れにも仲間たちを見逃すことなど、ありえないことを知っていた。それを考えただけでも、怖れと焦りで集中力が途切れそうになる。初めての試みであろうが、なかろうが関係はない。空間移動を必ず成功させて始祖を出し抜くのだ。ナナクサはなおも自分を鼓舞し続けた。
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ナナクサの身体は変化の兆しすらまだ見せない。始祖は、また一歩、彼女に近づいた。もう手が届く。それでもナナクサには何も起こらない。両者はついに対峙した。黒い滲みはピントのぼけた映像のようになったかと思う間もなく始祖の姿に落ち着いた。そして鋭利に尖った長い爪をナナクサの喉に躊躇なく突き入れた。その途端、始祖の目の奥に驚愕が走った。始祖が指先に微かな抵抗を感じると同時に、ナナクサは自分自身の身体が蒸しあげられたカボチャがペースト状に裏ごしされる感覚を味わった。視界が闇に閉ざされて目が見えなくなった。しかし周りの状況は手に取るようにわかる。ナナクサは空間の中に身体を絞り出すように一歩前に足を踏み出した。踏み出せるとわかったので次は反対の足を踏み出した。そしてもう一歩。たったの三歩ではあったが、彼女は凍り付いた空間の中を激流に逆らうように始祖の身体を避けて、その背後に回りきった。
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始祖は、かつてこれほどの衝撃を受けたことがなかった。激しい怒りの欲求を満たすためにナナクサの首に鋭い爪を突き立てたまではよかったが、そこから自分と同じ種類の波動を瞬時に感じとったのだから。始祖ほどの者であっても、受けた衝撃から立ち直るのに幾ばくかの時間を要した。その時間は滅ぼそうとした相手に対して絶好の贈り物となり、今まで経験したこともない激痛で報われた。そして身体が傷つけられた痛みに目を瞬いた始祖は空間移動を成し遂げたナナクサの気配を背中に感じて辛うじて首を巡らせた。
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黒い竜巻は始祖の負傷とともに消滅して、それに巻き上げられていた戦士の死体や武器などが闘技場のいたる所に散乱した。生き残った者たちはその惨状を声もなく眺めた。
「なぜだ?……」
十字架や聖水に晒されたことが霞むほどの衝撃を初めて味わった始祖は顔を歪めて呟くように問いかけた。ナナクサには始祖が何を疑問に感じるかなど関係なかったし、答えを持っていたとしても、応えてやる気など毛頭なかった。ただ思ったのは、この隙をけっして逃すわけにはいかないということだけだった。彼女は始祖の身体が回転して完全に自分に正対するまで待つことなく、逆手に持ち替えた銀のナイフを今度は肩口に向けて繰り出した。始祖は彼女の手首を掴んだが、当初の勢いと力は影を潜めていた。ナナクサはナイフを握った右手に左手を添えて始祖の目を見ながら一気に肩口を刺し貫いた。量子脳の近くから、弱りきった若いヴァンパイアたちの悲鳴がまた一斉に上がった。
「みんな、ごめん」
ナナクサは自分の肩に広がる激痛に耐えながら、ナイフを半回転させたが、さすがにそれが苦痛の限界だった。彼女は始祖から身を引き離して大きく息をあえがせると、両手を膝について床に沈み込もうとする身体を辛うじて支えた。目の前に煙を上げる肩口からナイフを引き抜こうと悪戦苦闘している始祖が見える。無敵だと思われた相手に対して雌雄は決したのだ。だが、すべてを犠牲にする覚悟で、この始祖を滅ぼすべきなのだろうか。それとも今なら何らかの譲歩を引き出せるのだろうか。もし譲歩させることができるなら……。ここに至ってナナクサの決断はまた揺らぎ始めた。静まり返った闘技場には量子脳から発せられるシステムダウンを告げる秒読みだけが虚ろに響いていた。
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始祖は肩に食い込んだ銀のナイフをやっとのことで引き抜くと、「なぜだ?……」と辺りに虚ろな視線を彷徨わせつづけた。銀のナイフを引き抜いたときの痛みも、それには応えてはくれない。比類ない存在である自分ですら、誕生してから数十世紀を経てもなお、己が身体しか空間に溶け込ませることしかできないのに、子孫の小娘ごときが、なぜ身に纏う物や忌々しい銀の武器まで一緒に空間に溶け込ませ得たのだろうか。湧きおこる疑問は身体に対する痛手より遥かに大きかった。しかし、思索はそこで唐突に断ち切られた。始祖は喉が絞め上げられ、身体が持ち上げられる感覚を味わった。これもまた初めてのことだった。頭半個分は小さな小娘が自分の首をぐいぐいと絞め上げて、身体を軽々と持ち上げている。始祖は驚きをもって自分に対峙する子孫の瞳の中を覗き込んだ。星を散りばめた黒く静かな宇宙を思わせるその中には紛れもない破壊欲求が見て取れた。始祖はここに至って初めて恐怖というものを理解した。
「お前は、我れをどうする気だ。まさか滅ぼそうなどと不遜なことは思ってはおるまいな。子孫が始祖を滅ぼすことなど、道理に反するぞ。それに見たであろう。陽の光とて我を滅ぼすことなど出来はせぬし、銀の武器で心臓を刺されたとて滅びることなどないのだ」
ナナクサは始祖の言葉に、何かを決意したように目を細めると、その身体を持ち上げたまま歩き出した。始祖が視線を巡らせた先には崩れた天井の穴から眩い陽光が差し込んでいた。銀のナイフで身体を貫かれて大量に失血している上に、陽光まで浴びせられれば、さすがに無敵の存在であっても滅ぼされかねない。はったりが効かないとわかった始祖は残る力を振り絞って黒い靄になって逃れ去ろうとしたが、これも無駄だった。先ほど肩から引き抜いて捨てたはずのナイフが目の前の子孫によって今度は腹部に打ち込まれたからだ。始祖は三度目の激痛に、遂に虚勢をかなぐり捨てて初めての悲鳴を上げた。
「わかった。お前は強い。賢くもある。それゆえ取引を申し出よう。お前もそれは考えたのではないか。お前を赦す。生き残った人間どもにも害は与えぬ。しかも、それだけではないぞ。もう、ここには戻らぬし、お前や子孫たちにも関わらぬと名誉にかけて約束しようではないか。それで、どうだ?」
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「でも、あんたも死ぬんでしょ?」
ナナクサが口にしたのは、それだけだった。
ナナクサは驚愕と恐怖。それ以上の絶望が広がる始祖の瞳をひたと見据えながら、その身体を陽光の中に突き入れた。
自分の身体が焼け焦げる臭いがナナクサの鼻をつき、数々の悲鳴が耳を打った。手にはもがき苦しむ始祖の感触が、まだ明確に残っている。遂にヴァンパイアと人間の共通の敵を仕留めたのだ。
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「神等!」ナナクサは呼びかけた。「新たな補助脳を接続した。システムダウンの指令を取り消しなさい!」
「新たな補助脳を確認。ですが接続は不可能です」
なにが「不可能」だ。これが私の出した答えだ。否定は許さない。絶対に呑んでもらう。ナナクサは畳みかけた。
「理由は?!」
「一体の補助脳だけでは、不足だからです」神等は役所の窓口係のように慇懃無礼な口調を心掛けているかのようだった。「私自身のアイデンティティを維持するためには、最低でも十個体の補助脳が必要です。そもそも一個体だけ接続されても、負荷の大きさにその個体が長持ちしません。三百日を越えずにシステムダウンの結果をもたらすだけです。おわかりですか?」
「何がアイデンティティよ。あんたは私の脳をモデルに創られたからわかるわ。あんたは色々な経験がしたい好奇心旺盛な小娘と同じ。でも、その好奇心は退屈な時間の中で映画のように過度な刺激を味わいたいだけの悪趣味なものよ。そのために多くの役者が必要なだけじゃない」
「あなたの言うことが理解できません」
「まぁいいわ。お前も他者と支えあわなければ生きてゆけないということでしょ。私たちと同じに」
「そういうことです」
「なら、心配ないわ。この個体はタフで不死身よ。それに、お前が考えも及ばないくらい様々な経験もしているわ。それこそ補助脳の数万個体分以上でしょうね。だから、お前のように、ひねくれ者の伴侶にはうってつけよ」
ナナクサと神等のやり取りを聞いていた始祖の瞳に再び恐怖が広がった。何をされるのだろうかという不安が力を呼び覚まし、満身創痍でボロボロの身体を活性化させた。始祖は並みのヴァンパイアには到底及ぶべくもない活力を振り絞って身体を急速に修復しながらポッドの中でもがき始めた。
「あんたは塵には返さない」ナナクサは復活しつつある始祖の身体に刺さったナイフの柄を蹴りつけてポッドの椅子に、その身体を深々と縫い付けた。「礎になってもらうわ、一族の始祖らしく」
始祖に取り付けた接続具から内側に向けて一斉に短針が飛び出し、鮫の歯のようにがっちりと頭に食い込んだ。その瞬間、ナナクサには「助けて」という始祖の声が聞こえたような気がした。ポッドの中の照明が赤から緑に変わるにつれて目の前の始祖の顔が苦悶に歪み、やがて大理石のように白く固まった。それは十数世紀以上にわたってヴァンパイアと人間を苦しめ続けてきた始祖にとって苦痛と絶望に満ちた永遠の旅が始まったことを意味していた。
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神等は秒読みを止め、代わって都市機能システムが正常に戻ったことを告げると、元いた地下の闇に姿を没し去るために再び巨体を震わせはじめた。神等の周囲にいたファニュや助け出されたヴァンパイアたちはその動きに巻き込まれないように瓦礫や死体を避けて壁際に移動した。地鳴りとともに神等の姿が床の大穴に消え去ると、闘技場は静寂に包まれた。本当に時が止まったようだった。
ナナクサはジョウシとの最後の約束を果たすために陽光が眩く差し込むところまで歩を進めた。陽光は露出した部分の肌を刺し、ちりちりと煙が上がる。ファニュに借りた血の効果が薄れ始めているのだ。
「よく聞くがいい。私の名はナナクサ。お前たち人間の仇敵。ヴァンパイアだ」ナナクサは、そこでいったん息を吸うと再び口を開いた。ヴァンパイアの声は闘技場の壁全体をびりびり震わせた。「見ての通り、私の力は強大で無限だ。だが、この力をお前たちとの戦に使おうとは思わない。だから、私たちを刺激するな。私たちもまた、お前たちに関わらない。広大無辺な白い大地は、お前たちだけのものではない。これから先、私の一族に弓を引く者は何人であっても一切容赦はしない、私が斃した第一指導者のように」
ナナクサは戦士たちに自分の言葉が浸透するのを待った。ファニュの血を借りて一時的に力を得たことで映像や音声が他の砦に映らないのではと心配もしたが、そこかしこのモニター上の各辺塞の戦士たちの表情を盗み見る限り、これも大丈夫だと思われた。地上に遍く存在する人間たちがナナクサを注視している。この機会を逸するわけにはいかない。彼女は不安そうに見守るファニュから、怯えを必死に押し隠そうとしている闘技場の生き残りの戦士たちに視線を移した。
「だが、これだけ宣言しても、また如何なる盟約を結ぼうとも、禁を破る愚か者は出るだろう。そのために私は敢えて、この砦に監視者を置いてゆく。その者は狡知の企みをたちどころに嗅ぎ取り、苦痛にまみれた滅びを、その愚か者に与えるだろう。私の警告を決して忘れるな」
ナナクサの最後の言葉が合図であったかのように天蓋の中心部分が遂に崩落した。
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幾つもの巨大な石の塊が轟音を立てて落下すると、そこから灰色の粉塵が沸き上がり、人間が走るより速く闘技場の中心寄りにいた戦士の身体を悲鳴とともに呑み込んだ。ファニュとクインは闘技場の門まで五十メートル足らずの所にいたが、逃げ惑ってパニック状態に陥った戦士たちが早くも門に殺到していたため、門から離れた壁の張り出しの下まで救出したヴァンパイアたちと移動し、彼らとそこでできるだけ小さくなっていた。崩落した巨大な天蓋の真下にいたナナクサのことは不思議と心配にならなかった。彼女がこんなことで命を落とすわけはないのだ。あの強力なヴァンパイアの親玉をやっつける力があるのだから。
やがて粉塵が薄れてくると、彼女の傍にナナクサが佇んでいるのがわかった。
「ファニュ」
微かに残る粉塵のスクリーンの前でナナクサがこちらを向いているのがわかる。逆光でファニュには彼女の表情はわからなかったが、その声は静かで落ち着いていた。
「ナナクサ……」
ファニュもナナクサの名を口にすると、そこで口をつぐんだ。自分の口で伝えねばならないことがあるのだが、どうしてもそれを言葉にすることができなかったからだ。だから自分の傍にいる助かった者たちの代わりに質問を投げかけた。
「これから、どうなるの?」
「それは、あなたたち次第よ」
ファニュにはナナクサの言葉は人間とヴァンパイア双方に等しくかけられたものだと感じられた。確かに彼女の言う通りだ。互いの種族の行く末は、互いをどう理解してゆくかにかかっているのだ。ナナクサたちと同じ時を過ごしたファニュにはそれは容易なことだと確信できる。だが、他の人間たちはどうだろうか。長い時をかけて彼らを恐れ、敵対心のみを肥大化させてきた者たちには。ファニュには非力な自分に何ができるかはわからなかった。でも、ヴァンパイアとの相互理解の一助になることはできるかもしれない。衝突が起こらないように今はまだ彼らとの接触は極力控えたほうが良いのだろうが、命ある限り彼らとの友誼を人々に語ってゆくことは可能だ。二つの種族の間に横たわる凍てついた大地に種をまくのだ、芽吹くのが遥か未来になるのだとしても。とにかく自分が成すべきことは、それなのだ。……では、目の前の仲間は。
「ナナクサは、これからどうするの?」
「もちろん続けるわ、デイ・ウォークを」
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gacchi
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