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鍵を開けたらそこにあったもの
しおりを挟む1 息子
それは気が乗らない依頼だった。
店を開けてから来た客はたった二人で、暇にまかせ、俺は見るともなく小窓から外を眺めていた。水蒸気をたっぷり含んだ鼠色の雲が、数キロ先の新宿の高層ビル群の上に低く垂れこめていた。その雲の下を滑らかに移動する小さい黒い影があった。
ドローン。
目で追わないと、すぐ見失ってしまう。無反射コーティングされているのだ。注意深く見ると、小窓で切り取られた視界の中に三機のドローンがあった。
二〇二三年、『安全自立型マルチローター式電動ヘリコプター法』が施行された。ドローンの飛行規制が大幅に緩和され、都心の上空も飛行可能になった。それから一年、自動充電ステーションや緊急避難ポートなどインフラが整って、近頃ドローンを見ない日はない。
ほのかに、良い香りがした。ジャスミン? 殺風景なこの店には似つかわしくない。甘くて上品な香り。
香りに導かれ、俺は小窓から店内へ目を向けた。カウンターの前に、女がひっそり立っていた。タイトなスカートにテーラードジャケット。ブランド名など知らないが、高価なことは俺にでもわかった。体のラインは細く、明らかに痩せすぎだ。年はわかりづらいが、俺と同じくらいに思え、三十代後半といったところだろう。
女は白石秀美と名乗った。ハスキーな小さな声で、一〇分ほどかけて依頼内容を説明した。斜め下を見ながら話し、ときおり首を左右に振った。その度に、両頬をかすめ肩まで垂れている髪が揺れて顔を覆った。
秀美の地味な容貌の中では目だけが特徴的に大きかった。光を湛えていれば魅力的だろうと思われた。だが伏し目がちで、瞳は輝くことを忘れて久しいようだ。
秀美の説明は途切れがちで要領を得なかった。俺なりに解釈すると、要は子供部屋の鍵を開けて欲しい、という依頼だった。
俺は鍵に関連する諸々を生業にしている。防犯効果が高い鍵の販売と施工、依頼によって金庫や自動車の鍵の開錠、等々。世の中にはうっかりものが案外多く、鍵を失くしたり暗唱番号を忘れたりするのだ。鍵業界で、俺の名はそこそこ知られていて、高級住宅や高難易度の金庫などの仕事も多い。
今までにはずいぶん色々な依頼があった。中には明らかに犯罪がらみのものもあった。でも自宅の子供部屋の鍵なんて依頼は初めてだ。特別な事情があるに違いない。ジャスミンは香れども、秀美に犯罪の臭いはしない。でも一人稼業で身を守るには怪しい依頼は受けないに限る。俺はできるだけ丁寧に断わろうとした。
「防犯強化になる鍵の販売と施工を主にやっています。なので……」
そこまで言っただけで秀美は断りを察した。きっと拒絶に敏感なのだ。秀美は顔を上げ、初めてまっすぐに俺を見つめた。大きな目が潤んでいた。いきなり湧き出た秀美の気に押され、俺は一旦、話を止めてしまった。自然、秀美の言葉を待つ形になった。しかし秀美の口は閉ざされたままだった。沈黙が店内を支配した。俺は無口な方ではあるが沈黙は苦手だった。秀美が口を開く気配は一向にない。俺は無言の見つめ合いに耐えられなくなって、つい引き受ける返事を口にしてしまった。世の中にはうっかりものが案外多い。ここにもいた。
高層ビル群の一角にあるタワーマンションの最上階が、秀美の自宅だった。通されたリビングの大きな窓から、遠くの山並みが見渡せた。見下ろすとドローンが二機飛んでいた。
秀美の夫がさわやかな笑顔で俺を出迎えた。世慣れた感じで、第一印象の良い与え方を身につけている。
「わざわざ、ご足労ありがとうございます。白石博一です。金融関係の仕事をしています。実は、明日は息子の誕生日なんです。二十歳になります」と説明を始めた。
白石夫妻の一人息子は、自室に引きこもって三年になる。日中は部屋から出ず、深夜に冷蔵庫から食べ物を調達している。夫妻と息子の間に、三年もの間、会話と呼べるものはない。息子が二十歳になるのを契機に、少しずつでいいから話を始めたい。だが息子は自分で部屋に鍵を取り付け、人が入れないようにしてある。だから息子の部屋の鍵を開けて欲しい。説明は簡潔でわかりやすく、白石の頭の良さが感じられた。
話の合間に、白石がふと目を伏せると、落ち着いた顔に深い翳りが落ちた。突然の変化に驚いたが、秀美と同じ表情だと気づき、納得がいった。
依頼の理由を聞いて、やはり受けるんじゃなかった、と後悔が湧いた。普通に考えれば、無理やり鍵を開けて、会話などできるはずがない。理知的な白石にそれくらいのことがわからないのは、どうかしている。白石も精神的に追いつめられているのだ。気の毒に思う。いずれにしろ、引き受けた以上はプロとして鍵を開けるのが俺の仕事だ。
息子の部屋は廊下の突き当たりにあった。一枚板の頑丈そうな扉に、鍵が三つ付いている。
一つ目は、備え付けの鍵。ディンプルシリンダー。ピッキングが難しい鍵だが、扱いなれており難なく開けた。七十秒。一分は切れなかったがまずまずだ。
二つ目は、息子が後付けしたと思われるクレセント。こんなものは三〇秒もかからずに開けた。
「ウオオ……オオ……」扉の向こうで獣の咆哮がした。よく聞くと人間の声。
「……アケタラ、コロスッ…………」
全身に寒気が走り、鳥肌が立った。でも、仕事だ。
三つ目は電子キー。見事な出来栄えで取りつけてある。キーのIDは暗号化されている。俺は商売道具をつめたバッグから、手製のバラック基板を取り出した。バラック基板上にはCPUと周辺回路を実装してある。端子の先端を針金上に加工したハーネスのコネクタを、バラック基板のコネクタに挿入する。「カチッ」と小気味よい音がして、勘合した。端子の先端をドアの隙間に差し入れ、注意深く電子キーのハーネスを探る。三回目のトライで接触が取れた。バラック基板の電源を入れる。IDコードがリセットされ、サーボモーターの駆動音がして鍵が開いた。
俺はゆっくり扉を押した。扉が少し開いた途端、悪臭が襲ってきた。一瞬で鼻腔の粘膜がただれてしまいそうな刺激臭。部屋の中でいろんなものが腐っているに違いない。うなり声が大きくなって、床を震わせる。めげずに俺は思い切って扉を開けきった。部屋の中央で半裸の息子が仁王立ちになっていた。反射的に身構えるが、いきなり襲ってはこない。
部屋の南側には湾曲した大きな窓。それ以外の壁面には、のっぺらぼうのマネキンのようなものが置いてある。等身大で、息子を囲むように、三体が立っていた。
息子の目は異様に見開かれていた。母親ゆずりの大きな目。白目が血走っている。後ろに控えていた白石が俺の横をすり抜けて、部屋の中へ入った。
「ガアーーッー」
息子が叫びながら白石へ突進した。息子の頭が白石の胸に激しくぶつかった。白石は大きくよろけたが、かろうじて倒れなかった。息子と白石ががっぷり四つになった。手助けしてあげようかとも思ったが、できることは何もなかった。鍵を開けるのが俺の仕事で、ここからは親の仕事なのだ。取っ組みあっている親子は、ダンスをしているかのようにも見えた。マネキンのような観客に見守られながら。観客はのっぺらぼうで目は無かったが。
徐々に息子の力が勝り、白石を壁際に押しやった。はずみで何かのスイッチが入ったようだ。のっぺらぼうが光り出した。何もなかった顔に目や鼻や口が浮き出、体に衣服がまとわれ、整った顔立ちの少女が出現した。有名なアイドルなのかも知れないが俺には分からなかった。三体それぞれ違う少女で、振り付けを合わせて踊り出した。表情とドレスは次々に変わっていった。ドレスが変わる合間は当然のように裸になって、幼い顔とアンバランスな巨乳を揺らがせた。
プロジェクション・マッピング。
とてもよく出来ている。まるで本当に少女たちがこの部屋で踊っているかのようだ。だがもちろん、プロジェクターから投影されたもので実体はない。息子の孤独を癒しているであろう少女たち。息子は家族と一諸に暮らしていても孤独だ。家族とは一言も口を利かず、この部屋の中だけが安住の地なのだ。
正面の大きな窓から風景が消えた。一瞬真っ暗になった後、にきび面の若い男の顔があらわれた。窓ではなくディスプレイだったか。高解像度の有機ELだと、本物の窓との区別はつかない。
にきび面が息子に話かける。
「おーいっ、新しいチームの3Dデータを作ったよ。良ければ送るけど、どの子がいい?」
同好の士がいるようだ。
孤独であっても、認めてくれる誰かが必要なようだ。
2 娘
太陽光はさまざまな色を含んでいる。大気はその中から青の波長だけを選び出し、自らをもって散乱させる。そうしてできた一週間ぶりの青空に、新宿の高層ビル群が映えていた。晴れていると見つけやすく、俺は小窓の視界の中で、五機のドローンを発見した。何かいいことがあるかもしれない。。
店の扉が開いて、女が入ってきた。
「こんにちは、お久しぶり」
トラブル以外の何物でもない女。マヤ。いい予感はどうやら勘違いだったらしい。
「変わらないねー。お店もあなたも」
マヤも二年前と同じショートボブで、見た目に変化はない。
「これはこれは。一体どういう風の吹き回しだい」
「そうそう、あの時、きちんと理由を言わずに出て行ったのは、悪かったわ」
マヤとは半年ばかり、この住居を併設した店で一緒に暮らした。
「でも、あなたのポリシーはたしか、来る者拒まず、去る者追わず、だったでしょう」
そうではある。マヤが来る前に一緒に暮らした女も、一年半いた後、ふらっと出て行った。「あなたは完結しているの。自分だけで。だから人に多くを求めないし、心の奥を開く必要がないの。最初はそれも良かったんだけど、時が経つに連れ、つらくなり始めたの」と言い残して。
「実は頼みがあって来たの」
マヤに申し訳なさそうな様子は一切ない。
「頼み? この状況で、いきなり? そういうタフな神経が俺も欲しいよ」
俺は一応、マヤに尋ねてみた。
「頼みの前に、出て行った理由くらい聞く権利があるはずだけど」
「あの時は気持ちをうまく説明できなかったの。いろいろ言葉に置き換えてみても、どれも違うような気がして。でも、いいじゃないの、今さら。まあ、強いて言うなら、しっかり私に鍵をかけていなかったからよ。鍵はあなたの仕事でしょう」
「鍵をかけられるなんて、望んでもいなかっただろうに。それに俺の仕事は鍵を開けることで、かけることじゃないんだよ」
相変わらずお互い、訳のわからない理屈をこねるのが得意だ。
「頼みはね。ナズナを連れ戻したいのよ」
マヤは強引に話題を変え、要件に入った。マヤは認めないだろうが、自分の言いたいことを強く伝える能力は母親譲りのものだろう。マヤの母親はマーサと言って、なんと新興宗教のラムダヤ教の教祖なのだ。マーサは教団の跡取りをマヤにしようとしたのだが、マヤは強く反抗した。徹底的に。そこでマーサはマヤの娘、つまり孫娘のナズナに目をつけたという訳だ。マヤは二〇歳の時にナズナを生んでいて、俺が知り合った時は、いわゆるシングルマザーで、ナズナは中学校一年になっていた。知り合ってから一か月ほど経ってから、マヤとナズナは俺の所で一緒に暮らすようになり、そして半年後に出て行った。
「あの人がナズナを連れ出して、別荘に閉じ込めてしまったの。あなたの所を出てから苦労して中高一貫の全寮制の学校に入れたのによ。お世話係りのような女が一人ついているわ。そこに乗り込んでナズナを連れ戻すの。だから、別荘の鍵を開ける必要があるでしょう」
幸いにも俺はマーサに会ったことはないが、マーサは孫娘のナズナを溺愛しているらしい。
ナズナはあまり感情を表に出さない子供だった。中学生くらいの子供は群れて遊ぶものだと思っていたが、ナズナはそうではなく、友達も少ないようだった。少し猫背になって本を読んでいることが多かった。電子ブックではなく、紙の本を好み、いつも持ち歩いていた。切り揃えた前髪の下で、眉間に皺を寄せる癖があり、その年頃の少女には相応しくなかった。
俺とナズナの会話はごく限られたものだった。俺は子供を苦手としているし、実際、一三歳の少女に何を話してよいかの見当もつかなかった。だが不思議なことにナズナと一つ屋根の下に暮らしていて嫌だと感じたことはなかった。自然な空気に包まれていて心地よかった。
バレンタインデーに、ナズナが自分で焼いたクッキーを三枚くれたことがあった。女友達にあげたやつの残りだと言って。予想外の出来事に俺は驚き、ぶっきらぼうに「ありがとう」と言った。まるで一三歳の少年に戻ったようだった。
ナズナに父親はいないが、マヤとマーサに強く愛されている。でも、どこか孤独を抱えた風であった。俺にはその孤独が形になって見えることがあった。孤独をよく知っているので見えたのだろう。それは焼き損ないのクッキーのようで、つかもうとすると、ぼろぼろ崩れ出すのがわかった。
俺が七歳の時、両親は離婚した。母親はエンジニアで、父親は雑貨店をやっていた。当然、七歳の子供にとって母親と別れて暮らすのは考えられなかった。でも母親は「お父さんと暮らすのがあなたのため」と出て行ってしまった。おそらく俺の知らない所でいろいろやり取りはあっただろう。だが出て行ったのだ。母親が置いていったものの中に、子供用のソフトウェア学習キットがあった。母親に捨てられた気持になっていた俺は、キットに触れもしなかった。半年後、交通事故で母親が亡くなった。それをきっかけに俺はキットを使い出し、やがてのめり込んでいった。ソフトウェアに没頭し、世界を無機的に変えた。ソフトウェアの世界の中には悲しみが存在し得なかった。コーディングするのはゼロとイチのデジタル情報だけで、あらゆる感情の入り込む余地がなかった。五年生のとき、一二歳以下の全国プログラミングコンテストで二位になった。中学生になったとき、癌であっさり父親も亡くなった。以来、意識にはなかったが家族というものに飢えていたのだろう。マヤと暮らせてうれしかったし、それ以上にナズナを加えて家族のように過ごしたのは幸せだった。
俺はマヤの頼みを聞いてやることにした。ナズナを怪しい新興宗教の跡取りになどさせず、母親の元へ帰してあげるのだ。
マーサの別荘は車で一時間半の郊外にあった。中央道で調布インターまで自動運転で走り、そこからはハンドルを握った。生垣で囲まれた広い敷地の中に、コンクリートの打ちっぱなしの建物があった。建物から見えない位置に車を停めた。マヤと一緒に、短く刈り込まれた植木の中のアプローチを進むと、玄関の前に着いた。
両開きの大きな玄関ドア。長い取っ手の上下に、鍵がついていた。オーソドックスなシリンダー錠。バールによるこじ開けを防ぐカマ式デッドボルトになっているが、二つともピッキングで難なく開けた。五五秒。簡単すぎて拍子抜けした。
静かに扉を開けて中へ入った。マヤも息を忍ばせ、ついてくる。大きな広間になっていた。正面に、鎧をまとった兵士が斧を手にして立っている。一瞬驚くが、落ち着いて見ると、近所の骨董品屋の店頭にあるものと大差ない。ラムダヤ教では、これを崇拝しているのだ。まったくばかげている。こんなものを崇め奉る輩の気が知れない。
マヤにこの広間で待っているように指示し、俺は螺旋階段で二階へ上がった。
階段の真ん中あたりから冷気が強くなった。二階に上がると吐いた息が白くなっていた。呼吸をする度に体の中から大切なものが出て行くみたいに感じられた。廊下が奥に向かって伸びていて、両側に部屋が配置されていた。暗いせいで、長い廊下がどこまで続いているのか見通せなかった。一番手前の部屋のドアノブに手をかけた。鍵がかかっていた。そろりと移動し、次の部屋のドアノブに手をかけた。鍵がかかっていた。三番目の部屋のドアノブに移った。やはり鍵がかかっていた。ままよ、とピッキングすると簡単に鍵が開いた。音を立てずに部屋の中へ体を滑り込ませた。部屋は意外に大きく、天井の照明は落とされていたが、奥にベッドがあり、そこだけほのかに明るかった。ベッドの上で裸の男女が蠢いていた。女は二十歳くらいで、細身の体に不自然なくらい大きな胸をしていた。男は仰向けに寝ている女にキスをしていた。そしてそのまま唇を下に這わせ、豊かな胸の真ん中にある乳首を舌で転がした。女がかすかに喘ぎ声をあげた。男はしばらく両手で乳房を弄びながら、尖らせた舌先で固くなった左右の乳首の先を交互になめていた。そしてさらに唇を下に這わせ、女の股間へたどり着き、執拗になめ続けた。女の股間がしっとり濡れると、今度は指の腹で滑らかに愛撫をした。頃合いを見て、男は指を挿入し、ゆっくり出し入れした。女のあえぎ声が大きくなった。すると男は指をそのままに、女にキスをし、あえぎ声を飲み込んだ。そして指ではなく自身を挿入した。男はしばらく腰を動かしたあと、体位を変えた。女が上で男が下になり、男の顔がこちらに見えた。あの息子だった。息子の上で腰を振っている女は、いつのまにか白石秀美になっていた。「……アケタラ、コロスッ…………」と声が響いた。どこかで聞いた声だと思ったら、俺の声だった。息子に変わり俺はベットの上にいて、白石秀美がまたがって激しく腰を動かしていた。抗いようがない快感が走り、俺はいきそうになり、目を閉じて、開けた。白石秀美は七才で別れた母親になっていた。「……あなたのためだから」驚きのあまり母親の股間から自身を引き抜くと、そこから液体がほとばしった。粘膜が一瞬で爛れるような悪臭がした。液体が俺の顔にかかり、何も見えなくなった。しっかり目を見開いても、自分の体さえ見えなかった。体の輪郭があいまいになって、闇との境目がわからなかった。全身のどこにも何かに触れている感触がなかった。宙に浮いていた。このまま闇と一体になり、俺という存在が消えてしまいそうだ。俺がいなくなっても誰も困らないし、気づきもしない。幸い、今日に限ってはマヤがいた。一日限定で必要とされている。ここにいてはいけない。引き返さなければならない。必死で顔の形、手の形、胴の形、自身の形を思い描いた。体が再構築されていくのがわかった。でもそれは前とは違うもので構成されているのもわかった。俺は意識を総動員し、部屋から転がり出た。
廊下には照明が灯っていた。手足は震えていた。その場で屈伸すると、ぎこちなく体が動き、震えも治まって来た。でも自分の意図で動かしているような気はしなかった。見かけは同じでも前とは違った細胞で構成されていた。虚無の世界から戻ってこれたのだけは認識できた。世の中には開けてはいけない扉があるのだ。鍵がかかっているにはそれなりの理由がある。
俺はすっかり逃げ出したくなったが、なんとかマヤとナズナの顔を思い浮かべた。訳は分からないが、もうとにかくやるしかない。照明のおかげで、長い廊下の突き当りに部屋があるのが見えた。どこからか、進め、という声が聞こえた。俺は廊下に置いたままにしてあったバッグを拾い上げ、短距離走の選手のように廊下の突き当りまで走って進んだ。ドアを開けた。中にナズナと世話係らしき女がいた。ビンゴ。二人とも驚いたというより、キョトンとしている。幸いにもナズナはドア側にいたので、手を取って素早く部屋から連れ出した。そして商売道具をつめたバッグからロック棒を取り出し、閉めたドアにセットした。一秒。上出来だ。ドアの向こうから世話係の女がドアを開けようとする音が聞こえて来た。簡単に開きはしない。
俺が「マヤも下に来ている。とにかくこの別荘から出るけど、いいかい?」と聞くと、ナズナはあいまいに頷いた。
ナズナを連れて広間へ戻ると、マヤは玄関ドアと格闘していた。
「ドアが開かなくなっちゃったのよ」
俺がやってみるが確かに開かない。建物から逃げ出す人間を想定し、阻止するための仕掛けがあるようだ。ドアの周りを注意深く観察した。あった。壁の右上に。角度を変え光の反射具合を調べると、ごくわずかだがそこだけ違う。おそらくその化粧板の下にコントローラーがある。バッグからバラック基板を取り出し、針金状に加工した端子を、化粧板のわずかな隙間から壁の中に差し入れた。電子キーのハーネスを探る。精神を指先にだけ集める。周りに見えるものや音が意識から消えた。十回目のトライで接触がとれた。電源を入れ、IDコードをリセットする。開錠音はしない。アルゴリズムが多重に組まれているようだ。コントローラーの中を調べるしかない。化粧板を取り外す。コントローラーが見えた。位置が高くて作業しづらい。額から汗がしたたり落ちる。手こずりながらカバーケースを外すと、プリント基板が覗いた。インフィニオン製のICチップが中央に実装されている。生体認証用に使用されることが多いICチップだ。
そのとき左の肩に衝撃を感じた。あまりの強さに、崩れ落ちて倒れた。激痛がかけめぐり、悶絶する。骨は折れたに違いない。
倒れた床から見上げると、世話係の女が立っていた。水泳選手並みに肩幅が広い。この女の空手チョップ? 少女のお世話より、格闘技が得意なようだ。
マヤとナズナは? 目だけで探す。マヤは広間の隅で倒れていて、横にナズナがうずくまっている。
俺は反撃のため体を起こそうとした。そこに世話係が心臓を目がけキックを繰り出した。とっさに両肘でブロックし、胸への直撃を避けた。間髪を入れず次のキックが来た。今度は腹で、避ける間がなかった。世話係りの尖った靴のつま先が、みぞおちに食い込んだ。胃から液体がこみ上げる。嘔吐した。
ナズナは怯えきった表情で俺の様子を見つめている。眉間に大きな皺が寄っていた。
次のキックが顔に来た。ありがたいことに、世話係はとことん俺のお世話してくれるようだ。スウェーで逃げようとしたが、額の真ん中にキックがヒットした。たまらずに数メートル蹴転がされた。バラック基板にぶつかって止まった。意識が遠のきそうになる。手がバラック基板のダイヤルに触れた。朦朧としながら目盛を一杯に回した。電源出力が最大にセットされる。世話係りが追ってきた。また腹を狙っている。残された全ての力を腹筋にこめた。飛んできたキックを腹で受け止め、その足を抱え込む。肌が露出している足首に端子を接触させ、電圧を印加した。世話係はビクッと体を震わすと、あおむけに倒れた。気絶したようだ。
こんな物騒な所は早く退散するに限る。俺はやっとの思いで立ち上がった。鍵に取り組もうとすると、螺旋階段の上から初老の女が降りてきた。大柄で小太り。足首までの変なドレスを着ている。
「マーサ、かい?」
初老の女は答えないが、代わりにナズナが強くうなづいた。
逃げるに限る。俺がマーサに背を向けると、鎧をまとった兵士が動きだした。ぎこちない動きだ。かすかにプロペラ音が聞こえる。兵士の周りを見ると、超小型のドローンが数機飛んでいる。まったくの子供だました。ドローンで兵士を操作している。確か、ディズニーが大きなミッキーマウスを動かそうと、十年程前に特許を出していたはずだ。教団が特許のロイヤリティを払っているとは思えないが。
俺は動きの鈍い兵士の手から斧を奪った。ずっしりと重い。腕を広げて倒れている世話係りの所へ行った。斧を高く振りかぶり、右手首を目がけ、一気に振り下ろした。「ゴッ」確かな手ごたえがあった。辺りに血が飛び散った。世話係の腕の先に、あっと言う間に血だまりができた。その中で切断された右手が蠢いている。俺はかかんで右手を拾いあげた。ぬるぬると滑り、取り落としそうになる。しっかり持ち直し、ドアの所へ行った。コントローラーの少し下に右手を押し当てた。カチッと音がし、鍵が開いた。生体認証完了。ドアに赤い手形が残された。
マーサは見ているだけで何も言葉を発しない。恐ろしい女だとのイメージしかなかったが、こうして実際に見ると、ただの初老の女にしか見えない。顔色が悪く、やつれていて、哀れにさえみえる。
マヤの所へ行き、上半身を起こしてやると、うまい具合に意識がもどった。
「えっ、どうしたの?」
「気絶していたようだね」
マヤは傍らに置いた血まみれの右手に気づき、「何これ? まさか……一体、何てことしたの……」と震える声で言った。
「よくできた義手だ。本物みたく血液もどきまである。空手チョップをくらったおかげで、わかったよ。あきらかに金属だって。折れた鎖骨が教えてくれたんだ」
「どういうこと?」
悠長に説明もしていられないので、「さあ、とにかく母親の出番だ。ナズナとここを出よう」と俺はマヤを促した。
そのとき兵士がしゃべり出した。女の声で。
「……ナズナ、行ってはだめよ。……マヤと居たって絶対に幸せになれないよ」
マーサの口は動いていないが、のどに巻いたバンドが震えている。のどの振動を捉えて言葉に変換する声帯センサー。
「お母さんねっ! まったく、いい加減にして!」とマヤが叫んだ。
ナズナに向かい、「こんな所、さっさと出てお家へ帰ろう。学校の寮も出て、これからはずっと離れないで、一緒に暮らすのよ」
「お前はナズナを不幸にしたいのかい?」と女の声で兵士が喋る。
「何言ってるの。こんな怪しい所にいる方が不幸に決まっているじゃないの」
「お前のような尻軽女は、これからも男をとっかえひっかえし続けるに決まっている。ナズナが、かわいそうじゃないか」
「もうやめて!」ナズナが声をあげた。
俺もたまらずに言った。
「こんな争いは、ぼちぼち止めようや。ナズナのいいようにさせてあげよう」
俺はナズナに向かって、「言いにくいかもしれないが、どうしたいか教えてくれないか? ここを出てマヤと暮らす、で良いんだね?」と尋ねた。
ナズナはうつむいてしまった。奇跡的にマヤとマーサが黙り、ナズナの返事を待つ。
ナズナの肩が細かく震え出した。自分の気持ちと戦っているようだ。
「泣きたいときは泣くのがいいよ。お前たちが出て行ったとき、俺は泣きそうになったんだ。だけども我慢した。そうしたら、もっとつらくなった」
「おばあさんの病気はひどいの……。日に日に悪くなって……、とうとう口まで利けなくなって……」ナズナは喉に声を詰まらせた。
「それで、なの……。……でも帰ろう」
マヤがナズナの肩をそっと抱いた。ナズナは声を上げずに静かに泣いた。大粒の涙が色白の頬の上を滑り落ちた。
細いあごから三粒の滴をしたたり落とすと、ナズナは手の甲で涙をぬぐった。そして、ゆっくりマヤから離れた。
マーサにも聞こえるように、ナズナははっきりした口調で言った。
「ここは出るわ。でもお母さんの所にも行かない。学校の寮に行く」
マヤは立ち尽くしている。かける言葉も出てこないようだ。
ナズナは思い立ったように、出口に向かって歩き出した。玄関ドアの前で立ち止まる。そして観音開きになっている玄関ドアの両方を、勢いよく外へ開け放った。
ナズナは深く長い息を吐いた。肺に一切の空気を残さず、すべてを吐きつくそうとしているかのようだった。空っぽになった肺には新鮮な空気を取り入れるしかない。
ナズナは外へ、そろり足を踏み出した。小柄な体が完全に建物の外へ出てしまうと、軽やかな足取りになって数歩歩んだ。そしてまた立ち止まった。振り返り、人形のように固まったままのマヤとマーサを見つめた。ナズナの表情は厳しくて柔らかさはない。だが、りりしく、眉間に皺は寄っていない。
これっきりで二度とナズナと会えなくなってしまう、ような気がした。俺には耐えがたかった。
「ナズナ。気が向いたら遊びに来てくれ。俺の店は覚えているだろう?」
きつく結ばれていたナズナの口元が少し緩んだ。もう少し気の利いたセリフが言えれば、ナズナの貴重な笑顔を見れたかもしれない。だが俺にはこれが精一杯だった。理屈をこねるのは得意だが、本来、口下手なのだ。
「いろいろありがとう」
俺の幻聴でなければ確かにそう聞こえた。小さくてかわいらしい声だった。一五歳の少女らしい声だった。
暗い廊下の両側にたくさんの部屋が並んでいる。その多くには鍵がかかったままだ。そこには開けてはならない扉もある。だが恐れてはいけない。開けなければ中へ入れない。恐怖に慄くかもしれない。それはやむを得ないのだ。間違った扉を開けたなら、自分の意志で引き返してくるしかない。そして次には正しい扉を開けるのだ。
「カチッ」ドアが開く音が聞こえた。俺とナズナが抱える多くの扉の中のたった一つかもしれないが、確かに開いたような気がした。おそらく正しい扉のような気がする。
ナズナは吹っ切るように前を向いた。そしてアプローチを歩き出した。リズミカルな足取りだ。俺は後ろ姿を見守った。
ナズナがもう振り返ることはなかった。
(了)
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