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53「本当に気がついていなかったのね」

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 号令と共に一年生が乗馬する一頭目が走り出した。
 馬場に並べられた障害物を越えながら走っていく。
 他より高い障害を越えると、観客席からわあっと歓声が上がった。

「乗り手の動揺が馬に伝わっているな」
 様子を眺めていたカインが呟いた。
 大勢の前、しかも一番手だ。緊張している中で歓声を浴びれば、それは応援よりも負担となってしまう。
 馬の走るペースが落ちてしまったが、それでも無事に最後まで終えることができた。

「クラーセン様」
 続く試合を見守っているカインにエリアスが近づいてきた。
「本当に、優勝を狙わないのですか」
「気になるのか」
 カインはエリアスを振り返った。
「――全く狙っていないといえば嘘になるが、優先順位は高くない」
「落馬しないことが最優先だと?」
「そうだな、第一の目的は馬を乗りこなすことだ。あの馬を制御することができれば俺の腕もそれだけ上がるからな」
「そうですか」
「騎士になるならば勝利を狙わないとならない時もあるし、命をかけて守らなければならないこともある。だが今はその時じゃないからな」
「命をかける……」
 ふとエリアスの脳裏に、遠い記憶のようなぼんやりとしたものが浮かんだ。
 自分もかつて、命をかけて誰かを守ったことがないだろうか。
(かつて? ……誰か?)

「学生の馬術競技だから手を抜くって意味じゃないぜ」
「……分かっております」
 曖昧な記憶を振り払うようにエリアスは頷いた。
「あんたは優勝狙うんだろ」
 カインはエリアスの肩を叩いた。
「午前の練習の時に見てたが、落ち着いて乗ればあの馬ならいけるぜ」
「……私が優勝してもいいのですか」

「そんなの、誰にだって権利があるだろ」
 カインは口角を上げた。
「今のところ優勝候補は王太子だ。だがあいつが『キング』になるのは癪だからな。頑張れよ」
 もう一度エリアスの肩を叩くと、カインはその場から立ち去った。


「もう始まっていたのね」
 ヴェロニカがアリサと共に馬場へやってくると、既に試合が行われていた。

 観客席を見渡し、こちらへ手を振るルイーザを見つけるとその元へと向かった。
「どこへ行っていたの?」
「花壇の様子を見に行っていたの」
「まあ。本当にサロンが好きね」
「ルイーザだって」
 顔を見合わせて笑い合うと、ルイーザはヴェロニカの後ろに立つアリサへと視線を送った。
「あら、噂の子ね」
「噂……?」
「赤い髪の子が、宵の魔女の加護を受けてるって噂よ」

「それは違います」
 アリサは首を大きく横に振った。
「赤い髪は母方の血ですし、たまたまテストの成績が良かっただけです」
「そう? まあ、ヴェロニカも満点だったものね」
「ええ、そうね」
 ルイーザがこちらを見たので、ヴェロニカは同意するように頷いた。
 確かにテストで満点を取るのに加護は必要ない。

 前世の時ほどではないけれど、アリサが魔女の加護を受けているという噂は絶えずあるようだった。
(本当は、加護じゃなくて愛し子なんだけれどね)
 愛し子は、魔女の好む魂を持つ者だという。
 その愛し子になるとどうなるのかはよく分からないが、少なくともヴェロニカにとっては悪いものだった。

(その魔女が、まだ私を狙っている……)
 アリサは大丈夫と言うけれど、やはり不安だ。
 強く拒否し続けていても、いつかはその声の誘惑に負けてしまうかもしれない。
(――だめよ、そんな弱気じゃ)
 せっかく時間が巻き戻りやり直すことができたのだ。
 今度の人生は最後まで生き抜きたい。

 突然湧き上がった歓声に、はっとして馬場に視線を送るとフィンセントが出てくるのが見えた。
 一回目の出場順はくじ引きで決まるのだという。
 フィンセントは二年生の一番手と聞いていた。

 号令が鳴り響くと馬が走り出した。
(わあ……やっぱりすごいわ)
 速さも跳躍力も、それまでとは圧倒的に違う。
 フィンセント自身の技量もあるが、馬の能力も高いのだろう。

 今年は一、二年合同開催のため馬の数が足らず、一部の生徒は自身の馬を持ち込んでいる。
 フィンセントも王家で所有している馬に乗っている。
 慣れた馬を持ち込む生徒が有利になりそうだが、そこは時間のハンデを与えることで調整しているのだという。

 危なげなく競技を終えたフィンセントに、観客席から大きな歓声が上がった。
 フィンセントは馬から降りると観客席を見渡した。
 何かを探すように泳いでいたその視線がヴェロニカと重なった。

 わずかの間だったがヴェロニカを見つめて、フィンセントは馬場から出て行った。


「まあ。王子様はまだ未練があるのかしら」
「未練?」
 ルイーザが呟くとアリサが聞き返した。
「殿下はずっとヴェロニカと婚約したがっていたから」
「……前に婚約していて、それは解消したんですよね。それなのにまた婚約したいと思っていたんですか?」
「他に婚約者にちょうどいい人がいないみたいなの」
「あら、違うわよ」
 アリサに聞かれてヴェロニカがそう答えると、ルイーザがすぐに口を挟んだ。
「殿下はヴェロニカが好きだからよ」

「え?」
「本当に気がついていなかったのね」
 目を見開いたヴェロニカにルイーザは苦笑した。
「好き……? 私を?」
「明らかに好意を寄せられていたでしょう」
「……そうなの? え、本当に? どうして?」
「どうしてかは知らないわよ」

「殿下が私を……?」
 確かに、ヴェロニカには優しい態度を取っているけれど。
 それは過去に婚約破棄したことへの罪悪感からだと思っていた。
「でも、私は友人だって……」
「そんなの近づく口実でしょう」
「……ルイーザは知っていたの?」
「側から見ていれば分かるわよ」
「どうして教えてくれなかったの」
「他人からそんなこと言ったら失礼でしょう。でももうヴェロニカは婚約したからいいかなと思ったの」
 もう一人の想い人のことは言えないけれど、とルイーザは心の中で呟いた。

 エリアスは執事として、この先もずっとヴェロニカと関わりがあるだろう。
 その彼の気持ちを勝手に伝えてしまうのは、お互いの将来に悪い影響を与えてしまうかもしれない。


「全然気がつかなかったわ」
 ヴェロニカはため息をついた。
「そういうことには鈍いものね」
「まあ、ひどいわ」
「本当のことじゃない」
 小さく笑みを浮かべて、ルイーザはアリサを見た。
「ヴェロニカが婚約して残念がっている人は何人もいるのよ」
「そうなんですね」
「え、そうなの?」

「やっぱり分かってないわね」
 目を見開いたヴェロニカにルイーザはため息をついた。
「どうして……あ、侯爵家に婿入りできるから?」
「それもあるけど、ヴェロニカ自身も狙いよ」
「私を……?」
(どうして私なんかを)
 家柄は確かにいいが、他に良いところなどあるのだろうか。
 自分のことを分かっていないヴェロニカの様子に、ルイーザは呆れたようにため息をついた。


(先輩は……魔女に魅入られなければ、素敵なお妃になったはずよね)
 二人のやりとりを見守っていたアリサは思った。
 今のヴェロニカは、前世と同じ人物とは思えないくらい淑やかで優しい。
 とてもキツい印象を与えてきた顔立ちも穏やかで、何より美しい。
 これが本来のヴェロニカなのだ。
 きっと国民が憧れ、慕うような妃となっただろう。
 フィンセントも、本当のヴェロニカに惹かれてもおかしくはない。

 けれど魔女に魅入られなかったヴェロニカは、王太子の婚約者とならなかった。
(残念よね……でも、これは殿下への罰だわ)
 前世のフィンセントはヴェロニカを殺すよう命じた。
 そうしてそれがきっかけで国は滅ぼされた。
 フィンセントにその記憶がなかったとしても、今世で二人が結ばれることは魔女が許さないだろう。

(殿下の性格が変わったのも罰なのかしら)
 いつもその眼差しの奥に冷酷さを潜めていた前世のフィンセントと、今のフィンセントはその雰囲気も異なる。
 その穏やかになったフィンセントが、今度は片思いしなければならないとは。
(因果というやつかしら……)
 ヴェロニカの横顔を見つめながらアリサはつくづく思った。
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