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21「俺がついてるよ」

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 夏休みが明けてしばらくは特に行事もなく、平穏な日々が続いた。
 十月には試験があるが、男子は十一月に行われる狐狩りに向けて乗馬の練習が始まり、その間女子はお茶会の作法を学ぶ時間が設けられる。
 結婚すれば女性は社交の一環としてお茶会を主催し、主人として仕切ることになる。
 そのための知識や立ち振る舞い、自らお茶を淹れることも学ぶのだ。

「お茶を淹れるのって難しいのね」
 渋くなってしまった、自分が淹れたお茶を飲みながらヴェロニカはつぶやいた。
(ちゃんと淹れたはずなのに……)
 先生に言われた通りに淹れたはずなのだが、どうして渋くなってしまうのだろう。

「そうね」
 よほど渋いのか、ルイーザもその眉間に皺が寄っていた。
 茶葉の種類や状態によって、お湯の温度や蒸らす時間が変わってくる。それらを茶葉を見て判断しないとならないのだ。
(エリアスはきっと全て覚えているのよね……それに淹れる時の所作も綺麗だし)
 何度かエリアスにお茶を淹れてもらったが、毎回茶葉が異なるのにいつもとても美味しいのだ。
 彼の能力の高さを改めて実感しながらヴェロニカはなんとかお茶を飲み干した。

「次は私の番ね」
 ルイーザがお湯をもらいに行こうとイスから立ち上がった。
「あっ」
 立ち上がった拍子に、お湯を入れたポットを持って歩いていたクラスメイトとぶつかった。
 ポットが大きく揺れて、お湯がこぼれるとヴェロニカへと飛沫が飛んだ。
「っ」
 飛沫が甲に当たり、その熱さにヴェロニカは思わず顔をしかめた。

「大丈夫⁉︎」
「ごめんなさい!」
 ルイーザとお湯をこぼしたクラスメイトが叫んだ。

「どうしました」
 騒ぎ声を聞いた教師が声をかけた。
「ヴェロニカの手にお湯が!」
「これで冷やしながら、すぐ医務室へ」
 こういったことは想定済みなのだろう。教師は冷静に用意してあったおしぼりを手渡した。
「ヴェロニカ、早く」
 おしぼりを手に巻くと、ルイーザはヴェロニカの手を引いて教室を飛び出した。

「待って。痛くて……」
 走ろうとするルイーザについていけずにヴェロニカは立ち止まってしまった。
 手の痛みと熱さで、頭までクラクラしてきたのだ。
「あ……ごめんね」
 気づいたルイーザは一旦立ち止まった。
「大丈夫?」
「ちょっとめまいがして……」
「めまい? 歩ける?」
「ヴェロニカ嬢? どうした」

 聞こえた声に顔を上げると、カインが立っていた。
「顔色が悪いぞ」
「……火傷をして、医務室へ行こうと……」
「火傷?」
 近づいたカインは持っていた本をルイーザに押しつけると、不意にヴェロニカを抱き上げた。
「きゃ……」
「じっとしてろ。走るぞ」
 ルイーザに声をかけるとカインは走り出した。


 医務室に着いたが校医は不在だった。
「とりあえず冷やすんだ」
 ヴェロニカをイスに座らせると、カインは棚にあった大きなボウルをその側に置いた。
「手を入れろ」
 ヴェロニカがおしぼりを外し、ボウルに手を入れると水差しから水を注いでいく。
「校医が来るまでこうしていればいい」

「ありがとうございます、クラーセン様。また助けていただいて」
 ヴェロニカはカインを見上げてお礼を言った。
「また?」
「パーティの時に、二年生に絡まれたのを助けてもらった方よ」
 聞き返したルイーザにヴェロニカは答えた。
「ああ、こちらの方なのね」
「あの執事はついていなかったのか?」
 カインが尋ねた。
「男子は乗馬の練習中なので……」
「そうか。痛みはまだあるか?」
「……はい」
「めまいは?」
 ルイーザが心配そうに尋ねた。
「それは収まったわ」
「ごめんね、私がちゃんと確認してから立てばよかったわ」
「ええ。大勢がいる時は私も気をつけるようにするわ」
 ルイーザを見上げてヴェロニカは笑顔を向けた。
「私は先生が来るまでここにいるから、先に教室に戻っていてくれる?」
「だめよ、怪我人を一人にはできないわよ」
「でも授業があるでしょう」

「俺がついてるよ」
 カインが口を開いた。
「うちのクラスは自習で、図書館に行ってきた帰りだ。授業が終わるまではいられるから」
 机に置かれた、先刻ルイーザに預けた本にカインは視線を送った。
「……ではお願いします」
 カインに軽く頭を下げるとルイーザは出て行った。

「俺はここで本を読んでるから、ゆっくり休みな」
 本を手に取りながらカインは言った。
「はい……あの、その本。アダム・アンカーソンですよね」
 さっきから本が気になっていたヴェロニカはカインに尋ねた。
「知ってるのか?」
「はい。図書館にあるものは全て読みました」
「へえ、好きなんだ。マイナー作家なのに」
 カインは一瞬以外そうに目を丸くしたが、すぐ笑みを浮かべた。

「エース・キルナーは読んだことあるか?」
「あります。探偵ボイルシリーズが好きです」
「あれは面白いよな。ヴェロニカ嬢も推理小説が好きなんだ」
「小説全般が好きなんです」
「じゃあ、リチャード・マーカーは?」

「大好きです!」
 ヴェロニカは目を輝かせた。
 リチャード・マーカーは前世から一番好きな作家で、重厚でドラマチックな展開と、それに巻き込まれる人々の感情を描くのが上手い。
 彼の小説を読んでは登場人物と一緒に泣いたり笑ったりしてその世界に没入していた。

「そうか。俺も一番好きな作家なんだ」
 カインは笑みを浮かべたが、すぐにその表情を消した。
「リチャード・マーカーを読んでいる時は現実を忘れられるからな」
(あ……そういえば)
 詳しくは知らないけれど、カインは家族との縁が薄く幼い時から苦労していたと前世で聞いたことがあった。
 彼にとって本を読む間だけが救いの時間だったのかもしれない。
「……分かります」
 前世のヴェロニカも同じだった。
 小説を読む間だけはフィンセントのことも忘れることができたのだ。

「ヴェロニカ嬢も現実を忘れたいことがあるのか」
「……今はありませんけれど、以前は」
 前世のことは言えないのでヴェロニカは言葉を濁した。
「そうか」
「でもリチャード・マーカーはとても面白いですよね。来週新作が出るそうなので、とても楽しみにしているんです」
「新作が出るのか!」
 カインの目が光った。
「はい。図書館に入るか分からないので、出たら家から送ってもらうよう頼んでいるんです」

 実は、その新作は前世で既に読んでいる。
 けれど何度でも読みたいくらい面白かったし、学校の図書館に入るのは遅かったことも覚えている。
 リチャード・マーカーはヴェロニカにとって大好きな作家だが、テーマが重く学生にはあまり人気がないせいだ。
 だから夏休みに帰った時に本屋で予約しておいたのだ。

「そうか、羨ましいな」
「読み終わったら貸しましょうか」
「いいのか?」
「はい、ぜひ感想を聞かせて欲しいです」
(リチャード・マーカーを好きな人に初めて会ったんだもの)
 あの話を読んでカインがどう感じるのか、とても興味があるのだ。
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